最近のトラックバック

DTM

2015年6月 1日 (月)

題名のない音楽会 2015年5月24日

「名曲百選」の第25回として、ブラームスの交響曲第4番が採りあげられた。

ドイツ古典音楽の集大成として書いた、として楽章ごとに次の各点について挙げていた。

  • 第1楽章 ブラームス自身を象徴する音型として、3度の下降音型
  • 第2楽章 ルネッサンスの象徴として、教会旋法であるフリギア旋法の採用
  • 第3楽章 舞曲の象徴
  • 第4楽章 尊敬していたバッハの象徴として、カンタータ第150番のシャコンヌの音型を採り入れ、ブラームスとしてのシャコンヌを構築

まあ、大体知っていることだが、いささか無理があると思ったのは、ドイツ古典音楽の集大成と言いたいがために、ルネッサンス音楽まで含めてしまったことだ。むしろ、温故知新といった、当時の風潮によって・・・といった説明で良かったのではないか。

カンタータ150番は聴いたことがない。かなり持っている方だが、なかった。しかし、そのことは、今回DTM制作のため改めてミニスコアを見たら、ちゃんと説明されていた。

まあしかし、よくぞこうした地味な曲を採りあげたものである。また、全曲演奏したのは第4楽章で、これも良かった。

私がこの曲に接し始めた頃、第1楽章の哀しく寂しげな曲調に惹かれたのだが、それ以降は中々聴く気になれないことが多かった。
しかし、あるとき第4楽章の凄さに気付き、ブルックナーなどとは違った意味で、巨大な曲だと分かったのである。
それを、この番組で第4楽章の全曲を演奏したというのは、中々のセンスだ。

番組内では他に、エジソンが、発明直後の蝋管蓄音機を携えてブラームスの処に立ち寄り、ブラームスも大いに喜んだというエピソードが紹介された。これは知らなかった。

企画良し、解説良しで評点5。

DTMで制作した、第1楽章冒頭19小節分と、第4楽章冒頭40小節分である。
第4楽章は、主題と第4変奏までにあたる。第3変奏まではパッサカリア主題が割と聴き取れるが、第4変奏(弦が悲愴感に満ちた主題を奏でる箇所)となると明確ではなくなって行く。

また、CDは私がよく聴いていたワルター盤を挙げておく。

2015年5月21日 (木)

題名のない音楽会 2015年5月17日

「なんてったって」シリーズの一環として、ヴィオラを採りあげた。題して「なんてったってヴィオラ」。

日本のオケを代表する3人のヴィオラ奏者と佐渡、そして青島によるトーク。

一般の人々にヴィオラという楽器が如何に知られていないか、と言った観点からの自虐トークが面白かった。3曲演奏したが、2曲は初めて聴く曲。1曲は「美しきロスマリン」。

元々ヴァイオリンをやっていて途中からヴィオラに変更した人ばかりだそうだ。変更したあとは、オケの響き全体を支えているという誇りと、調和した音が出たときの悦びで、どんどん好きになっていった由。

色々と興味深い話や演奏で、評点5とする。

ただ、欲を言えば、ヴァイオリンとヴィオラの違いについて、5度低いことによって、さらに1オクターブ低いチェロと合うことも多くなることや、音部記号もヴァイオリンと変わることなどにも触れて欲しかった。

私はヴィオラという楽器に、さほど疎くない方だと思う。
幼い頃にヴァイオリンを習っていた。メインの先生は関西交響楽団(現在の大フィル)の女性ヴァイオリン奏者で、そのご主人が同じオーケストラのヴィオラ奏者だった。
私の中学受験勉強と、お2人とも日本フィルに転勤されたことからレッスンはそれっきりになってしまったのだが、それだけに、その後起こった日フィルの労働問題に関する紛争に心を痛めたし、渡辺曉雄を監督に迎えて再スタートの狼煙を上げたときの「復活」の演奏は、東京にいたこともあって駆けつけ、大きな感動を得ることができたものである。

さて、ヴィオラの独奏で始まる交響曲というものがあって、その好例としてよいと考える曲。この半年で一番繰り返して聴いた曲てもあるのだが、その例を挙げておきたい。
15小節に及ぶ長々とした前奏がヴィオラ独奏というこの曲は、マーラーの交響曲第10番。

お時間があれば、この曲についてはホームページ中の記事と、2015年4月13日付けの記事を参照下さい。

第1楽章しか認めないというバーンスタイン盤と、補筆完成版としてはかなりの完成度となったインバル盤とハーディング盤の紹介も、再掲しておく。

2015年4月13日 (月)

マーラー 交響曲第10番 インバル盤とハーディング盤

この曲については、私の「題名のない音楽館」内の「マーラー 交響曲第10番」で書いた。
そのページにも引用したが、曲を思い出して頂くため、冒頭39小節分をDTMで作ってみた。

だが、2014年5月に、1楽章のみのバーンスタイン盤を聴いて、認めてもこの楽章だけだし、マーラーの交響曲は、やはり9番までか・・・と自分の立場を再確認しつつあった。

処が、インバルの指揮でたまたまこの曲が放送されていたのを第5楽章の途中から聴く機会があり、改めて全曲盤を入手して聴いてみると、これが中々のものだったのである。

インバルって、ブルックナーの交響曲第4番の異版(第3楽章が全く別の曲になっている版)とか第8番の異版(第1楽章の最後の部分がffとなっている版)などを録音していたりして、若干キワモノ視する向きもありそうだが、どうして演奏はマトモ中のマトモ。N響を指揮してショスタコーヴィチの10番を演奏したときのものはかなりの名演だったし、録画保存してある。

で、上記の全曲盤を聴いてみると、これはひょっとすると、私の第10番に対する考え方を変えた方がいいのかも知れない・・・と思えてきたのである。

そんな折、「てんしな?日々」さんが10番の全曲盤を聴き直し始めたという記事を書いておられるのに気がついた。
中でもハーディング盤が最もお薦めと受け取ったので、早速入手し聴いてみると、これが凄かったのだ。

最初から、もの凄いテンション、もの凄い緊張感をもって始まる。それが、曲の最後まで続くのである。これだと、第1楽章のみ単独で演奏されたものと全曲版の中の第1楽章とを区別する必要もなくなったのではないだろうか。「てんしな?日々」さんが言及されている通り、今後の標準的な演奏として記憶されることとなるかも知れない。
極めて高い完成度を持った演奏である。
先のページでラトル盤を聴いて云々の記載を行ったが、イマイチ納得できなかった理由も、演奏の完成度、曲への思い入れの違いに由来するのかも知れない。

とは言え、音楽自体、オーケストレーションの薄さもあって、昔のハリウッド映画を彷彿とさせる部分もあり、聴きようによっては、安っぽいと思えなくもない。まあこれは、「風と共に去りぬ」の音楽を作曲したマックス・スタイナーが、マーラーに作曲を師事したということだから、ある意味当然なのかも知れない。

処で、「てんしな?日々」さんが色々な人の盤を挙げておられる中でハーディング盤を私が選んだのは、最もお薦めであるように見えたのとは他に、最近彼を、最も重要な指揮者の1人だと思えるようになってきているからである。

これまでにも、2011年6月23日の記事「ハーディング指揮 マーラー室内管弦楽団 ブラームス」と、2012年3月11日の記事「震災の日に演奏したマーラー」で触れている。

そして、上記のインバル盤のライナーノートを読んで気がついたのだが、私は極めて重要な点を見逃していた。作曲家の遺作を後に残された人が補筆・完成させることについて私は全般的に否定する立場なのだが、この曲は、マーラーによって、全曲の略式総譜で完成しており、また、第1楽章と第2楽章そして第3楽章の30小節分は総譜草稿(浄書譜の1段階前)まで進んでいたという事実である。
そして、クックが努力を重ね、演奏者が好んで採りあげるようになってきていてるという事実である。
これだと、あとの人が勝手に作ったものとは、かなり状況が異なる。

上記のハーディングも、マーラーのこの交響曲に、早くから取り組んできているそうだ。

余談だか、「てんしな?日々」さんのページで、この曲を「マーラーの『幻想交響曲』」と例えておられる。
かなり当たっているかとも思うが、大きく違う点がある。
まず、ベルリオーズの幻想交響曲は、振られた腹いせに、彼女を殺し(第4楽章)、地獄で醜い姿にしてしまっている(第5楽章)ことだ。何度聴いても、もうヤケクソである。メチャクチャである。そんな女性と、後には結婚するに至るのだから皮肉だが・・・。

それに対し、マーラーの10番は、アルマが不倫に走っていることを知り、それでも尚愛し続けるしかないマーラーの苦しみを反映していることである。

2015年3月15日 (日)

題名のない音楽会 2014年9月

9月7日 第24回出光音楽賞受賞者ガラコンサート

記憶によれば、初めてこの賞が設けられた頃、確か見ていたはずだ。もう24回にもなるのだ。継続してこの賞を続けてきたことも、出光の気概・見識として高く評価し、感謝したい。
ヴァイオリンの成田達輝は、やや正確さに欠ける気がした。スケールは大きい。
同じくヴァイオリンの小林美樹は、音楽的には成田より上か。演奏したのはコルンゴルドの協奏曲で、私は初めて聴いた。中々面白い曲。
作曲の挾間美帆。これまでにも何回かこの番組に出ていて、当初から私が高く評価し注目していた人。池辺晋一郎がオーケストレーションの巧さを絶賛。むべなるかな。
評点5。

9月14日 名曲百選(22) チャイコフスキー交響曲第6番〈悲愴〉

「勝ち得た栄光を振り返るのが第3楽章で、本当はこんな気持ち・・・というのが最終楽章だ」などという余計な解釈を青島が述べた。ただ、第1楽章冒頭の音型は、ベートーヴェンの「悲愴」へのオマージュだと言っていて、これは私も気が付かなかった。なるほど、そうもとれるな。であるからこそ「悲愴」という愛称をチャイコフスキー自身が選んだ理由にもなりそうだ。
ただ、第1楽章については、有名なこのメロディーが、第4楽章の主題と深く関わっている(と私は思っている)点にも触れて欲しかった。

あと、オーケストラのPAC。以前聴いたときよりもレベルが向上しているように思った。
企画と演奏は良かったが、要らん解釈があり、マイナス1.評点は4.

9月21日 なんてったってトロンボーン

実はメモが見当たらない。紛失したのか、そもそも書かなかったのか。
2人のオケメンバーと1人のジャズトロンボーン奏者が佐渡を囲んで色々と愉快なエピソードを語り合ったと記憶する。ちなみに私の学校時代、トロンボーンを担当していたことがある。それだけに親しみを持っている楽器である。評点5。

9月28日 1000人で奏でる吹奏楽ポップス~岩井直溥名曲ベスト5

岩井直溥って天才やなあと感じ入った回だった。編曲が2曲と自作が2曲。吹奏楽曲として発表すると、演奏機会も増えるだろう・・・・少なくとも、オケの新曲に比べて。流行曲の作曲家には比べるまでもないだろうが、それなりに儲かっているのだろう。
しかし、会場まで巻き込んで演奏するのは止めるべきだ。それは、耳元で大音量の楽器を聞かされることになって、耳に害があるだけだ。多分自分が会場にいたら、恐怖を感じるはずだ。このため、企画は良いが評点は3.5に留める。

2015年3月 7日 (土)

題名のない音楽会 2014年12月

この番組、ずっとメモを取りながら視聴してきているが、書く機会を逸してしまった回が多くなり、2012年分は最後の月以降、2013年分と2014年分は全部のメモが溜りに溜まってしまった。
そこで、1ヵ月ずつ遡り、その1ヵ月分まとめて簡単に書くことにした。本年2015年はずっと書いて来れているので、まずは2014年12月から。「 」内はそれぞれの回のテーマ。評点は5点満点。

12月7日 「宮本文昭の『わが演奏家人生に悔いなし」』

宮本文昭が、指揮を引退するという。私は、彼の指揮、少し暑苦しい感じがしていたが、決してキライではなかった。指揮をやめたあと何をするのかは結局不明。
番組中で演奏したショスタコーヴィチの5番の第4楽章の抜粋。素晴らしい名演だった。
最終部での極度に遅いテンポなど秀逸。佐渡がベルリンフィルを指揮したときの演奏より遙かにいいのではないか。
番組内で回顧映像として出て来た演奏も中々良いものだった。
惜しい。何でやめるのだろうか。
評点5.

12月14日 「葉加瀬&古澤&ちさ子 3大人気ヴァイオリニスト夢の競演」

古澤巌というヴァイオリニストは初めて知った。そもそも葉加瀬太郎に憧れて、葉加瀬の曲を弾きたくてヴァイオリンの道に入ったそうで驚いた。さらに驚いたのは、チェロの弓を使って弾くという奏法。なるほど確かに力強い音は出せるようだ。しかし、楽器にも弦にも大いに負担がかかるのではないか。
曲中の演奏では、この奏法による古澤の「冬」が一番面白かった。
3人それぞれのオリジナル曲も披露されたが、葉加瀬が群を抜いて上。
3人のバランスが取れていないので評点は4.5。早い話、高嶋が(いつも書いていることだが)何をやりたいのか分からず、腕も決して一流とは見えないのだ。

12月21日 「葉加瀬&古澤&ちさ子 3大人気ヴァイオリニスト究極コラボ」

14日の分と合わせて2回撮りしたのだろう。演奏よりも編曲の冴えに感心。3人による「音楽世界旅行メドレー」なるものは、単なるコスプレ。演奏こそついてはいるが。
高嶋ちさ子が下手だということを改めて堪忍した。
3人の技量に差がありすぎ、評点は4.

12月28日 「なんてったってオーケストラ~日本で活躍する外国人楽団員」
4人の、日本の楽団で活躍中の外国人を招き、欧米と日本でのオーケストラの習慣なり気質の違いについて「あるある」話を展開。中々面白かった。評点5.
尚、全員、ずっと日本に住み続けたいという人ばかりだったのは嬉しい。

ちなみに、古澤巌が演奏した「冬」は第1楽章。通常はこれくらいの感じ。これでもバロック時代の音楽としてはかなり激しい。しかし、これをチェロの弓で弾くと激しさを通り越して凄まじい音がした。

2015年3月 5日 (木)

題名のない音楽会 2015年3月1日

前回2015年2月22日放送の最後の予告で、歌謡曲が主体の回となりそうだと分かったので、本来は見る気がなかった回である。

しかし、たまたま起床した時間がその頃だったので、他に見るものもなく、ナマで視聴した。

「ジャンルを超えて歌声でつなぐ・・・」なんて言っていたからね。

「しりとり歌合戦」方式で、つないだ曲は27曲に及んだ。
しかし、結論としては、やはり単なる歌謡曲のメドレーに過ぎなかった。
というか、以前は「歌謡曲」というジャンル名で済むだけの広がりでしかなかった。

堀内孝雄の歌声が、何だかとても聞きとりにくかった。衰えたのか? それとも以前からか?

というわけで評点は付けない。
この番組は、あくまでもクラシックを軸とした番組のはずである。
また、そうであって欲しいのだ。強く訴えたいし、強く主張する。強く乞い願う。
NHKのクラシック番組が貧困に堕ちてしまった今、これしかないのだから。

最後の1曲だけはドボ9の第2楽章の有名なメロディーに歌詞をつけたもの。
しかし、それだけ。
この曲も、私が常に主張しているように、入門用としてならこれでいい。
私も、小学校だったと記憶するのだがこの曲を習ったときは歌をつけでだったし、下校時間を知らせる音楽として掛かっていたという記憶もある。

しかし、それらで知るだけでは入り口に差し掛かっただけだ。
件の第2楽章だが、ほどなくレコードで接するに及び、こんなすごい曲だっとたのかと認識を新たにしたものである。

開始から46小節分のDTMを添えておきたい。冒頭の、絶妙な和音移行にも注目。

2015年1月31日 (土)

題名のない音楽会 2015年1月25日 動物の謝肉祭に詩をつけた

詩をつけたのは、何と!谷川俊太郎。
聞くと、児玉麻里・児玉桃姉妹のオファーによるものだそうである。

この姉妹のピアノに、管楽器と弦楽器は必要最小の人数で、しかし何れもエース級を揃えての演奏。そして詩の朗読は児童合唱団によるものだった。

企画意図は悪くないし、詩も中々のものだった。
元々私的な演奏会にかけられたものだから、管弦の編成はむしろ妥当だろう。

しかし、曲のかなりの部分を省略してしまったのはいただけない。全曲版があるなら、是非とも聞いてみたい。
全曲やらないと、終曲で、それまでに登場した動物が再登場する感じの面白さが伝わらない。

そして、この曲は決して子供向けの曲というわけではない、ということを、もっともっと強調しても良かったのではないだろうか。
とりわけ、今回省略された「化石」なんか、皮肉のオンパレードだ。自作の「死の舞踏」を下敷きに、誰でも聞いたことのあるメロディーが化石扱いされるわけだから。

それと、「ピアニスト」だが、もっと下手に演奏すべきではなかったか。「できるだけ下手に演奏せよ」と作曲者が楽譜に記載しているのだ。
児玉姉妹だから下手に演奏することはできない・・・ということはないはずだ。実際、2005年のベルリン・フィルのヴァルトビューネでは、ラベック姉妹がそれをやって、大受けしていたのである。
それが耳に残っていたものだから、DTMでも試みたのがこれ。

こうすることによって初めて、ピアノの練習に日々苦労している人間の哀しさ・おかしさが伝わろうというものだ。

全体を通じて、これは「冗談音楽の元祖」とでも言うべき作品なのであるというのが私の持論である。だからこそ、冗談がキツ過ぎるとして、生前には出版されなかったのだ。
一番分かりやすいのは今回も採りあげられた「亀」だろう。
原曲はこれで・・・少し長めに入力していますが・・・。

「動物の謝肉祭」ではこうだ。

まあしかし、終曲の前にこんな曲が配置されているから、本質が見えにくいのかも知れない。「白鳥」だ。ピアノ2台とチェロ独奏。
しかし、何でこんな素晴らしいメロディーが浮かぶのだろう。

というわけで、企画は中々良いのだが、解説と演奏にいささか不満があるので、評点は4.

尚、この曲のことをもっと知るには、バーンスタインの演奏がベストだ。私も、これを何度か聴くうちに、この曲が「冗談音楽の元祖」であると思うようになったのである。

2014年9月11日 (木)

DTMで制作した音楽ファイルをCDに焼いてみたら・・・

Macでパソコンを使い始めた頃、オーディオも同じ部屋で近接して設置していたので、Macの音声出力をアンプのauxに繋いで鳴らしてみたことがあった。

そのとき、CD音楽ソフトによるリアル(?)な音楽と、DTMによる音の余りの差に、かなりショックを受けたものである。この限界は超えられないのではないかとも思った。
その頃販売されていた「DTMマガジン」なる雑誌も何回分か購読したし、ヤマハの音源モジュールの発表会を見に(聴きに)行ったり、音源を買い換えたりしたものだが、実音源との余りの落差に、次第に制作意欲を失っていって遠のいてしまった。

しかし、finaleを使うようになり、幾許(いくばく)かの曲を打ち込んで「題なし 音蔵館」なる処に収蔵してきたわけだが、シッカリしたオーディオ装置で鳴らしたことはなかった。
パソコンと同じ部屋に簡単な装置はあるのだが、シッカリしたシステムは階も部屋も違う。

そこで、mp3音源をCDに焼いて、オーディオで鳴らすということを試みた。

このとき、詳しくは書かないが、mp3ファイルをCDにコピペするという、通常のファイルのような操作をした処、全くオーディオ装置に掛からないので焦った。
mp3をCDな焼くというのは決して初めてではないのだが、滅多にやらないので忘れてしまっていた次第。
この方法ではなく、Windowsメディアプレーヤーを介して焼かねばならないのでした。

で、制作したCDをシッカリしたオーディオで掛けて、驚き、そして満足した。

実際のCD音楽ソフトに比べて、やはり差はあるのは間違いない。
しかし、ボーッと聴いている分には実物にかなり近いし、弦のアンサンブルなど、かなりのレベルに達しているのだ。
一頃まで、好みの曲を、CDからカセットにダビングしてクルマに持ち込んで聴く・・・ということが流行っていた。
クルマ用に、今回制作したCDを使っても十分いけそうな感じさえした。

やはり凄いソフトである。

ただ、PCで鳴らす前提でなるべく大きめの音で製作していた曲の中には、オーディオで鳴らすとサチり気味になるものもあった。これは今後の課題だ。ソフトではなく、使い方の課題。
例えば、次の曲などはハープが強くキツく出てしまうように思えた。大好きな曲なので余計にアラが見えたのかも知れないが・・・。

尚、ちなみに、Macとオーディオが同じ部屋だったとき、ピアノも同じ部屋にあった。
で、DTMマガジンについていたピアノソロの出来上がりMIDIソフトを、ピアノプレーヤーのMIDI入力に繋いでみたら、ちゃんと鳴った。
当たり前といえば当たり前なのだが、それはそれで新鮮な驚きを味わったものだった。

2014年7月 1日 (火)

「眠れる森の美女」 本当の主人公は誰?

アンジェリーナ・ジョリーが、近作の「マレヒィセント」を今月(2014年7月)に日本公開するとかで、先月から紹介されたり出演したりしている。
ディズニーアニメの「眠れる森の美女」を、魔女の側から捉え直したストーリーだそうだ。

これに伴って原作(?)の「眠れる森の美女」のDVD等も売り上げアップとなるのだろう。実に商売上手な会社だ。

しかし、ちょっと待って欲しい。このアニメ、明らかにチャイコフスキーのバレエ音楽「眠れる森の美女」を原作としているのだが、実は原作とは大きくかけ離れた改作であることを知ってからでも遅くないだろう。
私自身、幼い頃にディズニー・アニメで「眠れる森の美女」を知り、長じて音楽の組曲で幾つかの曲を知り、中に含まれる「ワルツ」にも親しんだ。アニメの中ではオーロラ姫が口ずさむ曲であり、組曲を聴いても、オーロラの曲だとばかり思っていた。

このため、AVが普及し、我が家にもハイファイビデオやLDを導入しチャイコフスキーの原曲のバレエを見る機会ができると、大いに面食らったものである。このワルツ、オーロラの曲なんかではない。16歳の誕生日に村人が踊る曲なのだが、失態を役人に咎められた者が、国王夫妻の許しを得て喜んで踊るのであって、国王夫妻への感謝の気持ちの方が強い。そして出てくるのはその場面だけであり、オーロラが歌うことは決してない。

そして、何度も見聴きしているうちに、一見オーロラが主人公だと思われるこの音楽だが、どうもそうではないのではないかと感じるようになっていった。

私が思うに、本当の主人公はリラの精である。

だって、こんなに魅力的な曲を与えられているのだ。組曲の序曲となっている曲の始めの方の騒がしい部分は魔女のテーマだが、続く殆どの部分、やさしい主題が出てきて発展して行く。これこそリラの精のテーマなのだ。

そして、リラの精のテーマは、全幕終了直前にも登場する。

また、「パノラマ」という、リラの精が王子を「眠れる森」に連れて行くシーンで流れる曲。私がこの組曲の中で一番好きな曲なのだが、スコアを見ながら打ち込んでいると、序奏の中のリラの精のテーマと、曲こそ違え、雰囲気は似ているし、驚くほどオーケストレーションが似ているのである。第2のリラの精のテーマと言っていいのではないか。

そして、演出にもよるのだろうが、私がLDで観ていたボリショイ劇場版。リラの精の方が明らかに美人で巧く、存在感がある。見ていて、殆ど惚れてしまった。
オーロラは下手だし、かなり残念な感じ。
LD版と同じと推定されるDVDをご紹介するので、機会があれば是非。このジャケットでフィーチャーしてるのはオーロラだが、私の持っていたLDのジャケットは、リラの精をフィーチャーしていて、「パノラマ」のシーンだった。

ディズニーアニメに出てくるリラの精は、おばあちゃんの姿をしているので、バレエを知った者としては相当な違和感を感じる。
ストーリーも、原作では100年の眠りにつくのだが、アニメでは僅か一夜だけ。

こうしてみると、ディズニーは何を考えてあんなアニメを世に出したのか疑問に思えてしまう。原作のストーリーのままでも良かったのに。幾つかの例が他にもあるのだが、彼は本当の処、クラシック音楽というものを分かっていなかったのではないだろうか。

・・・・とまあ、こういうアニメをモトとする映画、詰まる処、あくまでもアンジェリーナ・ジョリーを見に行く映画なのでしょうな。
いい加減な改作によるアニメを「原作」にすること自体、既に無意味だと私は考えるので。

尚、「眠れる森の美女」の組曲はチャイコフスキー自身が構成したものではないが、親しい人と構想は話し合っていて、「パノラマ」は含めるように主張していたそうだ。

さらに付言すると、このバレエの初演は現在のマリインスキー劇場だが、現在となっては、初演時の演出に近いのはボリショイ劇場だそうだ。
私はマリインスキー劇場のも見たが、物足りなさを感じた。下掲のDVDだ。表記は「キーロフバレエ」となっているが同じ団体。

2014年6月30日 (月)

12音技法がクラシックを衰退させたとの意見に全面賛同

久々に「題なし」のページを更新したことをお知らせしたが、比較的大きく記事を修正のは、マーラーの交響曲第10番である。
迂闊(うかつ)にも、通常演奏される、第1楽章のみの演奏(アダージオのみの演奏)とちゃんと聴き比べせずに「全楽章の補筆版」について論じていたのである。

勿論、アダージオのみの演奏は何度か聴いているし、「全楽章の補筆版」の第1楽章を論じることによって、アダージオのみの作品として残されたものを論ずることも可能だと思っていた。
しかし、よく考えるとアダージオのみ残されたと考えての演奏と、全5楽章の中の第1楽章としての演奏とでは、曲のコンセプトがガラリと変わってしまうはずだ。聴く側も然りである。

で、他の殆どのマーラーの交響曲でリアァレンスにしている「バーンスタイン指揮NYフィル」盤だが、この第10番についてはちゃんと聴いたことがなかった。レコード時代からCD時代になっても、手許に置いたことがなかったのだ。

で、現在でも入手可能なこの盤で聴くと、これが実に凄い演奏なのである。
改めて、衝撃を覚えた。これを聴いてしまうと、全楽章の補筆「完成」版なんて、何の価値もないように思えてしまう。
そう考え始めたときに記事の修正を行った。

しかし、「やっぱり、全楽章の版もありか・・・」と、またまた考えを変えたのは、インバル指揮フランクフルト放送響の演奏に接してしまったためだ。ラトル盤より古い演奏かと思うが、むしろこの方が優れた演奏だと思った。
早速手許に取り寄せたのだが、中々通して聴く気になれず放置中だ。自分で聴いていないのに恐縮だが、一応挙げておく。その気になって全曲通して聴いた暁には、この第10番の記事の再修正もあるかも知れない。

さて、本題はここから。

記事中にも書いたが、第9番あたりから、調性がかなり曖昧になる部分が現れていて、10番となると殆ど崩壊していると言ってもいいだろう。

しかし、楽章の始めの方だけ聴いても分かるが、その中でこれだけ豊かな響きを出すことを実現している。だからこそ、単一楽章の曲としても、ずっと演奏されてきているのではないだろうか。演奏例は39小節めまで。

換言すると、調性が崩壊しそうな処に立脚しつつも、あくまでもマーラーがそうした響きを求めてのことであり、ギリギリ「調性」というものに踏み留まりつつ、自分の描いている「美」を追究しているのが分かる。

ドビュッシーの「牧神の午後」なども、調性が曖昧な曲で20世紀音楽の幕開けを告げる曲となったと言われることが多いのだが、それでも、理屈先行で無理矢理こんな響きを創ったのではなく、ドビュッシー゛、彼が指向する「美」を追究してのことだろう。

それが、何をトチ狂ったか、マーラーの後継者たちは、「12音技法」と称する悪魔的な理屈をデッチ上げ、普通の人が聴いてまず楽しむことは不可能という作品を並べたてる方向に暴走していった。こんな曲、分かると思う方がおかしい。
内的な欲求に基づかない作曲なんて、結局は彼らに本来の音楽的才能がなかったからに他ならないのではないか。

こうしたことは大分前から考えていたのだが、吉松隆にようなプロの作曲家にもこうしたことを考える人がいると分かって確信となり、最近その確信を強くしたのしDTM制作を通じてである。

DTM制作で、ホルンやトランペットといった移調楽器を正しく入力できるようになり、以前、誤って入力していたもの(全体に何度かズレたり、微妙に何カ所か2度または半音ズレが生じていた)と比べると、響きの豊かさが格段に違っていったことを経験したたろである。
何しろ、調性が曖昧だったり崩壊しかけている曲だと、半音とか2度とかズレて入力してしまっていても、私の耳では正しいのか正しくんいのか判別し難いものがあったのだ。しかし、正しく入力して行くと、そんな中でも格段に豊かな音になっていったのである。

先人たちが、いかに苦労して豊かな音楽を創っていったかということに思いを馳せるならば、12音技法なるものは、単にクラシック音楽を破壊しただけの愚挙だった。
そんなものを、また「分かったフリ」で支持する輩が出るものだから、多くの人にとってクラシック音楽は縁遠い存在となって行き、20世紀において、クラシック音楽が衰退して行ったのだ、と今では断言したい。

ちなみに、蛇足と言っては余りにも失礼なのだが、モーツァルトの「40番」の第4楽章。この始めの処は「12音技法の先駆」などと言われることがあるのだが、「言われたらそうかも」と思うだけのことだ。自然な音楽の流れであり、意図的に無理矢理作った感じが全くない。モーツァルトが感じた「美」を追究したら「こんなんもありましたよ」というだけのことだ。

より以前の記事一覧

2016年4月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

書評 資料室

Amazonアソシエイト

無料ブログはココログ