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経済・政治・国際

2012年1月 7日 (土)

大フィル 青少年のためのコンサート2011 続々

(2012年1月5日及び1月6日付の記事の続き)

大フィルのこと。上記の記事、とくに6日付けの記事で思いのたけを書いて、もう書き尽くしたかとも思ったのだが、まだ書き足りなかったこと、そして色々と書いているうちに気がついたことが出てきた。
そこで、この両者を交え、2点だけここで挙げておきたい。

まず、「文化は行政が育てるものではない」という発言のこと。

これは論旨のすり替えに他ならない。
よちよち歩きに近いもの、または生れたぎかりのものを生長させて行くまたは伸ばしてゆくことを「育てる」と言う。
既に根付いて育っているものを、「育てる」とは言わない。
あの文化音痴がやろうとしていることは、オーケストラという文化ないしは多くの人の共通財を「破壊」しようとしていることに他ならない。

また、「行政が育てる」というのを、「行政が介入する」と誤解されやすい処で使い、「それはそうかも・・・」と思わせようとしているようにも私には見える。であれば、それは更に始末が悪い。
確かに「行政が介入」すると、ロクなことにはならない。

旧ソ連が、作曲家の自由な意志による創作活動に「介入」することによって、どれだけ多くの人が命を奪われ、または奪われなくても恐怖に怯えながら活動を続けることを強いられたか・・・多くの人がスグに思い出すのはショスタコーヴィチの例だ。
まあ、彼の場合は、シタタカに、当局に迎合しているかのように見せたり、或いは実際にも妥協せざるを得ないとハラを決めたことによって、却って我々にとって聴きやすく、それでいて内容の深さで例のない曲を残してくれるという結果になったのも確かだが・・・。
(私の「題名のない音楽館」内の「ショスタコーヴィチ論」に縷々書いた。また、「偽書」だとされたが、下記の本が有名。そうした曲の1つである「第5交響曲」は次の二種類の演奏がオススメ。)

しかし、必要なのは「育てる」ことではなく、ましてや「介入」でもなく、補助金を継続することなのである。継続を打ち切ることによって、根付いた文化を破壊するなどということは、知事の権限でも市長の権限でもない。権限だと思い込んでいるのであれば、とんでもない思い上がりだ。

さて、オーケストラの財政というものがいかに厳しいものか、ということを書いてきたのだが、そのために音楽監督や事務方はカネ集めが仕事の大きな部分を占めることになったりする。

朝比奈隆の時代、大フィルの設立当初から、朝比奈隆がどれだけ自分で走り回ってカネ集めをしたか、ということは割と知られていることだ。
彼は音楽を専門に勉強したことはなく、京大の法学部に進学し、最初は阪急電車に就職し、駅で切符切りをしていた、という異色の経歴を持つ。
これが、後になって大いに役立つのである。

京大の法学部というと在阪の大会社に就職先を選ぶ人も多い。その人たちが「エライさん」になって行くにつれ。同級生や同窓生のよしみで朝比奈が協賛の依頼に行くと、企業側は応ずるほかない、ということになった。それがその企業にずっと受け継がれて行った。
かくて協賛した会社は「協賛会員」としてコンサートのパンフレットの末尾に社名を連ねて行く。
住友系を中心に(阪急も住友系だ)そうした社名が並ぶと、そこに載るのがステータスのようになり、他の系列や系列と関係ない会社にも広がりを見せて行く。

私が勤めていた、大阪に本社のある会社は、私が勤めていた殆どの期間、そこに社名を載せていなかった。「こういうことにはカネをかけないのか。かけられないのか」と寂しい思いをしたものである。
しかし、「卒業」してから行ったコンサートで配られたパンフレットを見ると、ちゃんと載っていたのである。こんな嬉しいことはなかった。
ああ、ようやく、ここに社名を連ねるようになったか、大きな会社になったなあ、と。また、ようやく、社内のエライサンにも、こうした文化を理解する人が存在するようになったのかなあ、と。

もし、府の支援取りやめに続いて市の支援も取りやめとなると、そのアナを企業からの寄付だけで賄うのは極めて困難になる。
オケとしては何としてでも続けて行くだろうが、待遇の低さに不満を持ってガマンできなくなり、実力も備えた団員は、国内でも東京にあるオケ、さらには海外のオケへの移籍にチャレンジして行くかも知れない。

オケのサウンドは、団員の持っている楽器の値段でかなりの部分が決まると思っている。
優秀な団員が出て行くこととなると、彼が持っている高価な楽器も流出することとなる。
そうすると、サウンドのレベルはどんどん落ちて行くことになりかねない。すると、そんなオケを聴き続けるのはイヤだというファンも出てきて、集客力が落ちる。
やがて(または、市の支援がなくなった段階ですぐに始まるだろうが)、企業からの寄付も集まらなくなって行く。

企業だって経済状況が深刻化している中、「メセナ」という名目だけでこうした支援を続けるのは至難の業だ。所詮「メセナ」なんて、そんなものだ。

さて、各地のオケの抱える問題は、かなり共通している処があると思っている。
そうしたオケの経済状況を、綿密な取材をもとに楽しい物語に纏めた小説を最近読んだ。
よく取材しているなあ、と感心し読み終えたら、巻末に、「取材協力」として大フィルの名前が挙がっていた。

本来は「書評」の方に書くべき処だが、ついでにここで紹介しておく。

2012年1月 6日 (金)

大フィル 青少年のためのコンサート 2011 続き

(前稿からの続き)

HDが満杯になってきたので、録画してあった番組をBDディスクに保存すべきかどうか考えながら編集していたとき、放送直後は判断しなかった掲題の番組。
改めて聴いてみて「保存」と即決したが、それは、演奏の素晴らしさと、大植と大フィルによるこのサウンドが、放送ではもうあと何度聴けるだろうか、という思いによることでもあった。

大阪府知事のときに文化関係の予算を削り、大フィルへの助成金もカットした、その本人が、こともあろうに今度は大阪市長の立場で、またそれをやろうと言うのだからイヤハヤである。

あの人の政治手法はかなり乱暴な処があって危なっかしいが、ここで私の立場を明らかにしておくと、彼が目指している「府と市の重複行政の解消」そして「大阪『都』構想」には、基本的に賛成である。私は大阪市民でも大阪市民でもないが、生まれは大阪市だったし、大阪に本社のある会社に勤めていたし、少なくとも官公労と癒着しきって何も進めることができず、あげくの果て選挙では共産党の指示まで受けた前の市長よりは、遙かにマシだ。
サントリーの社長がよく言っていた「やってみなはれ」という処である。

しかし、しかしである。

そんなことを言い出すだろうなあ、と思っていたことを、早々に聞くこととなったとは。

大阪には幾つかオーケストラがあるが、最も歴史があり、演奏の質も高いのが大フィルである。
他のオーケストラやそのサポーターには悪いが、大フィルだけは潰してはならない。

JIROさんも指摘されているが、大フィルは大阪府民や大阪市民だけのものではないのである。
これもJIROさんが書いておられるが、団員の年収は500万円ほどに過ぎない。それも、演奏会の収入だけでは賄うことができず、市や府の助成金があってのこと。

私の個人的な思い入れもある。

幼い頃ヴァイオリンを習っていたことがある。先生は現在の大フィル、当時の関西交響楽団(関響)の団員のご夫妻だった。
習い始めた頃よりもっと幼い頃、父母につれていってもらったコンサートは関響のものだったはずだ。
中学・高校と進むにつれて、小遣いを貯めて行ったオーケストラは、海外勢の一部を除いては、大フィルのもの。
やがて「音楽研究部」なるものを創ったとき、「オーケストラの練習風景」なるものを見学する、という企画があり、許可してくれて見せてもらったのも大フィル。
また、歳の離れた妹がピアノを習い始めたときについた先生も、大フィルの団員だった。ピアノは専門外だったが、「音楽」についていいことを沢山教えて下さった。

奈良に住むようになってからも、中々海外勢のは高くて聴く機会が少ない中、最も通ったのは大フィル。

確かに晩年の朝比奈隆の演奏は評価できないことが多く、私の「題名のない音楽館」内に「朝比奈隆 引き際を失った大家」を書いてこき下ろしたが(その記事のために、上記の、ヴァイオリンの先生から、ある時キツイお叱りを頂いたりしたが)、それなりに聴きに行く頻度が高かったし、晩年はブルックナーの演奏で定評があり、それなりにレコードやCDも聴いていたからこそ、そして大フィルを大切に思うからこそ苦言を書かざるを得なかった、という面がある。

朝比奈隆の晩年の頃の演奏会に行ったこともあるし、大植英次になってからも何度か行っているし、他の在阪のオケも何度か聴いているし、それはナマだけではなく放送されたものも含むのだが、現在の大フィルはマチガイなく、在阪だけでなく全国的に見ても世界水準だと思う。
そして、在阪では、ここだけである。

文化全般に対して冷たいと思えるのは「ワッハ上方」への助成金を廃止したことでも伺い知れるが、オーケストラに対してはそれ以上に、自分としてはウトい分野のことは不要なもの、というのが見え隠れする。
オーケストラは行政が育てるものではない・・・だって !?
これこそ驚いてクチもきけないという話だ。

ウィーンフィルだって・・・・正確にはウィーン国立管弦楽団としての活動の方だが・・・行政の支援で成り立っているのだし(だから団員は公務員だそうだ)、ドイツなど、「国立」や「州立」なんて幾らでもある。
もちろん演奏会の収入だけでやってゆくのに越したことはないが、団員だってカスミを食べて生活できるわけがない。
CDが売れるならCDを制作するだろうし、色々な関連グッズなどを企画・制作するなど、殆どの処が既にやっているだろう。

しかし、少なくともCDやDVDを制作し商売になるオーケストラなど、世界中でもホンの一握りなのではないか。

オーケストラというものがどんな苦しい財政状況にあるものなのか、ということは、私も長い間知らないでいた。
処が、私が習った先生が日本フィルに移籍され(それもあって、また私が受験勉強に入ったこともあってレッスンは中断した)、その後程なくして、その日フィルに対する文化放送の支援打ち切りと、次に起こった「新日本フィル」との分裂騒動、そしてその背景を徐々に知るようになると、いかにオーケストラの台所事情というのが大変なものなのか、そして団員の生活が大変なものなのかを知るに及び、ようやく何となくその一端を伺い知ることができるようになったのだ。

一見華やかな世界だし、ポップス系とか、テレビによく出ていた、当時だとジャズ系のミュージシャンなどはいかにも儲かっていそうだったし、オーケストラの団員だって、そんな豊かな生活ができているのだろうと、何の考えもなく思い込んでいた。
習いに行っていた先生方も、それなりの生活はされていたと記憶するし。

しかし、後になって、「それなりの生活」は、音楽家としての活動の成果によるものとは言い切れない、ということが分かってきた。活動の「結果」ではなく、「それなりの生活」のための基盤が前提として存在し、そうした支えを持つ方々が、音楽家として生活する、という順序だったのではないか。

日フィルと新日フィルの分裂騒動も、もとはと言えば、少しでも生活を楽にできるようにしてもらいたい、という欲求と、当時まだ盛んだった左翼的な思想・・・但しここでは共産党を中心とした勢力・・・による組合活動を嫌った産経新聞が、組合を切るために打った芝居だった・・・現に、オーケストラそのものを疎んじていたわけではないのは、新日フィルという楽団を即刻編成したことでも分かる。

さて、いささか脱線気味になってきた処でもう1点。

この知事→市長の私設応援団長を自称するミュージシャンが、この知事→市長に対して、「大阪にはコンサートホールがない。他は削減していいから、コンサートホールは何とか作って欲しい。大阪ほどの規模のマチで、コンサートホールを持っていない、というのは恥ずべきことだ」と言っているのだ。
これ、何を言っているのだろう、と前から思っている。

無智にもホドがある。

いや、単なるミュージシャンの戯言で済むのであれば放っておくだけのことだ。しかし、彼は政治がらみのものを含めた幾つかのトークショーのMCをやっていて、殊に保守系の政治家や論客に対して侮れない影響力があるのだ。ましてや、事情をよく知らない普通の人たちへの影響は量り知れない。

ザ・シンフォニーホールやいずみホール、NHK大阪ホール、大阪城ホール、またコンサート専用ではないが「京セラドーム大阪」など、思いつくだけでもすぐに五指にのぼる。
ザ・シンフォニーホールなんて、サントリーホールの原形になった、日本で゛初めての、「残響」に配慮した設計のホールなのだし。

いや、ポップスやロックのための専用のホールという意味だとしても・・・!?
ハコものをなるべく止めて、いかに、現存するハコにお客を沢山呼び込んでゆくか、ということを考えるべき時なのに。

「見識を疑う」なんてレベルでさえない。
モノを知らなさすぎる。

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