12音技法がクラシックを衰退させたとの意見に全面賛同
久々に「題なし」のページを更新したことをお知らせしたが、比較的大きく記事を修正のは、マーラーの交響曲第10番である。
迂闊(うかつ)にも、通常演奏される、第1楽章のみの演奏(アダージオのみの演奏)とちゃんと聴き比べせずに「全楽章の補筆版」について論じていたのである。
勿論、アダージオのみの演奏は何度か聴いているし、「全楽章の補筆版」の第1楽章を論じることによって、アダージオのみの作品として残されたものを論ずることも可能だと思っていた。
しかし、よく考えるとアダージオのみ残されたと考えての演奏と、全5楽章の中の第1楽章としての演奏とでは、曲のコンセプトがガラリと変わってしまうはずだ。聴く側も然りである。
で、他の殆どのマーラーの交響曲でリアァレンスにしている「バーンスタイン指揮NYフィル」盤だが、この第10番についてはちゃんと聴いたことがなかった。レコード時代からCD時代になっても、手許に置いたことがなかったのだ。
で、現在でも入手可能なこの盤で聴くと、これが実に凄い演奏なのである。
改めて、衝撃を覚えた。これを聴いてしまうと、全楽章の補筆「完成」版なんて、何の価値もないように思えてしまう。
そう考え始めたときに記事の修正を行った。
しかし、「やっぱり、全楽章の版もありか・・・」と、またまた考えを変えたのは、インバル指揮フランクフルト放送響の演奏に接してしまったためだ。ラトル盤より古い演奏かと思うが、むしろこの方が優れた演奏だと思った。
早速手許に取り寄せたのだが、中々通して聴く気になれず放置中だ。自分で聴いていないのに恐縮だが、一応挙げておく。その気になって全曲通して聴いた暁には、この第10番の記事の再修正もあるかも知れない。
さて、本題はここから。
記事中にも書いたが、第9番あたりから、調性がかなり曖昧になる部分が現れていて、10番となると殆ど崩壊していると言ってもいいだろう。
しかし、楽章の始めの方だけ聴いても分かるが、その中でこれだけ豊かな響きを出すことを実現している。だからこそ、単一楽章の曲としても、ずっと演奏されてきているのではないだろうか。演奏例は39小節めまで。
http://tkdainashi.music.coocan.jp/mahler/mahler_sym10.mp3
換言すると、調性が崩壊しそうな処に立脚しつつも、あくまでもマーラーがそうした響きを求めてのことであり、ギリギリ「調性」というものに踏み留まりつつ、自分の描いている「美」を追究しているのが分かる。
ドビュッシーの「牧神の午後」なども、調性が曖昧な曲で20世紀音楽の幕開けを告げる曲となったと言われることが多いのだが、それでも、理屈先行で無理矢理こんな響きを創ったのではなく、ドビュッシー゛、彼が指向する「美」を追究してのことだろう。
http://tkdainashi.music.coocan.jp/debussy/a_lapres_midi_dun_faune.mp3
それが、何をトチ狂ったか、マーラーの後継者たちは、「12音技法」と称する悪魔的な理屈をデッチ上げ、普通の人が聴いてまず楽しむことは不可能という作品を並べたてる方向に暴走していった。こんな曲、分かると思う方がおかしい。
内的な欲求に基づかない作曲なんて、結局は彼らに本来の音楽的才能がなかったからに他ならないのではないか。
こうしたことは大分前から考えていたのだが、吉松隆にようなプロの作曲家にもこうしたことを考える人がいると分かって確信となり、最近その確信を強くしたのしDTM制作を通じてである。
DTM制作で、ホルンやトランペットといった移調楽器を正しく入力できるようになり、以前、誤って入力していたもの(全体に何度かズレたり、微妙に何カ所か2度または半音ズレが生じていた)と比べると、響きの豊かさが格段に違っていったことを経験したたろである。
何しろ、調性が曖昧だったり崩壊しかけている曲だと、半音とか2度とかズレて入力してしまっていても、私の耳では正しいのか正しくんいのか判別し難いものがあったのだ。しかし、正しく入力して行くと、そんな中でも格段に豊かな音になっていったのである。
先人たちが、いかに苦労して豊かな音楽を創っていったかということに思いを馳せるならば、12音技法なるものは、単にクラシック音楽を破壊しただけの愚挙だった。
そんなものを、また「分かったフリ」で支持する輩が出るものだから、多くの人にとってクラシック音楽は縁遠い存在となって行き、20世紀において、クラシック音楽が衰退して行ったのだ、と今では断言したい。
ちなみに、蛇足と言っては余りにも失礼なのだが、モーツァルトの「40番」の第4楽章。この始めの処は「12音技法の先駆」などと言われることがあるのだが、「言われたらそうかも」と思うだけのことだ。自然な音楽の流れであり、意図的に無理矢理作った感じが全くない。モーツァルトが感じた「美」を追究したら「こんなんもありましたよ」というだけのことだ。