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2013年11月

2013年11月 8日 (金)

寒くなってきました こんな曲はいかが?

チャイコフスキーのピアノ曲集「四季」から、「トロイカ」です。
実は昨年の今頃既に完成していたのですが、LDのDVD化などの作業をしていてブログ更新を滞らせていて、紹介する機会を逃していました。

時間的に遅くなってしまったり、纏まった記事を書くのが億劫なときなど、こんな形ででも、なるべく更新して行くことにします。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/tschaikowsky/troika.mp3

2013年11月 6日 (水)

最近の音楽番組について(3) 題名のない音楽会

「題名のない音楽会」は、黛敏郎が司会であった頃から、ほぼリアルタイムで視聴し、多くを得てきた番組である。番組オープニングの際に、各楽器が順次入場しながら「聖者の行進」を演奏していた時代、と言えばおわかりになるだろうか。
そもそも、テレビ東京系列で放送が始まり、確かその頃だったか、何年も続いたあとで一旦番組が終了したことも覚えている。その後ほどなくして再開したのとテレビ朝日系列に移行したのと、何れが速かったか。

黛敏郎の没後、「新・題名のない音楽会」なる、どうしようもない番組がとって代わり、やがて羽田健太郎が司会となって「題名のない音楽会21」に。
そして、羽田健太郎が急逝したあと、元の番組名に戻って佐渡裕が司会になった。

当初は大いに期待し、それを喜ぶ記事も書いた。(「題なし復活万歳!N響アワー立て直し万歳!」ご参照)

我が家にビデオが導入されて以降、N響アワーは殆ど毎回録画保存し、黛敏郎時代の「題名のない音楽会」も、殆ど毎回録画保存してきた。後者については、彼の余りの右翼的主張がイヤで消去した回があり、また双方とも、ビデオの保管場所がまずく、半数以上にカビが生えてしまって廃棄を余儀なくされたりしたが、それでもかなりの回数が手許に残り、それらを、このほど全てDVD化する作業を終了した。

その後「新・題名のない音楽会」は一切録画せず、「題名のない音楽会21」は、興味の沸く回のみ何回か残した。
N響アワーも「題名」もいつの日だったか、媒体がDVDに変わった。

そして、佐渡裕司会による「題名のない音楽会」が始まったのである。
佐渡裕司会となって以降、全ての回を録画保存している。
いや、「していた」とすべきか。

何となく番組の内容に浅いものを感じ始めてはいたが、余りにひどくて見る気にも録画する気にもならなかった回があり、現在までたった1回だが、録画保存しなかった回がある。

ジミー・ペイジを採りあげた回だ。

未だに分からない。これ、何のためにやったのか。
佐渡裕が好きで・・・というなら分からないではない(それでも、自ずからこの番組で採りあげるジャンルには制限があって然るべきだとは思うけど)。それが、別に佐渡が好きだというのではなかったのである。

そういう内容の番組は、あっていいと思う。
しかし、それをこの番組でやって欲しくない。
いや、やるべきではない。

そして、メモを取りながら視聴するということを続けてきいていのだが、そんな回をキッカケに、またブログの記事のためだったとは言え、メモが溜まり過ぎてしまったこともあって、内容の「ふり返り」を極力省略して、簡単に、点数と1行程度の評で済ませる回があっていいな、と考えるようになったのだ。

さしずめ、上記の、ジミー・ペイジの回は0点である。批評に値しない。

(この稿続く)

2013年11月 5日 (火)

最近の音楽番組について(2) クラシック音楽館

NHKの音楽番組では、「らららクラシック」とこの番組を録画して視聴している。
「ららら」の方は、前稿に書いた通り、単に時間をずらせて視聴したいのと、このサイズの番組が中々ないので「飢え」をしのぐためで、視聴したあとは即刻消去している。

で、今となってはN響アワーのアトガマと言えなくもない、この「音楽館」である。
これも不思議な番組である。N響アワーのアトガマでも何でもない。時間も構成も、どうしようもない低レベルだ。何点か思いつくままに列挙する。

  • 時間帯がおかしい。
  • N響の公演を中心に、一つのコンサートを殆ど垂れ流し状態で放送するだけ。
  • であれば、公演開始の19時にスタートして、もさにリアルタイムで放送する方が、遙かに気が利いているというものだ。現に、FMでそれをやっているではないか。21時開始なんて、リアルタイムで視聴するには遅すぎるし、所要時間もあって遅くなっては困る人も多いはずだ。勤め人なんて、まさにそうだ。
  • かと言ってあとで見ようと思っても、長いからなかなか時間が取れない。
  • 結果、録画だけ溜まっていって収拾がつかなくなる。
  • FMでほぼリアルタイムで放送している方は、解説なり感想を言う評論家なり作曲家なりがいて、彼らのコメントが思わぬ参考となることもある。音楽館は、それもない。単なる垂れ流し。
  • メインのコンサートのあとに、「余韻をさらに深めるために」と称して、違うときの演奏会の録画を流すのだが、これって、蛇足以外の何物でもない。コンサートの余韻というのは、演奏会場から出てきたあと、独りで反芻したり、分かり合える人が一緒に行っていたならば、そのコンサートについて語り合うとかによって深まるもののはずだ。そもそも、そのコンサートで圧倒されたのであれば、静かな処であれこれと思い返すしかなく、何も語りたくなく、暫くの間は何も聴きたくなるはずだ。こんなことも分からないのが、この番組の企画者なのか。
  • 司会として岩槻里子が出てきたときには、「あ、戻って来てくれた」と思った。しかし、同時に「N響アワーに戻ってきて欲しかったなあ」とも思った。恐らく本人も、産休中にN響アワーが消滅しているなど、夢にも思わなかったのではないか。役割ということもあるだろうが、司会ぶりは精彩を欠く。
  • 少し前に放送した、「ほっとコンサート」で、そのコンサート自体の司会も岩槻が担当したのを見ることができた。活き活きしていたし、指揮を務めた山下一史とのやりとりも良かった。ある程度以上は音楽全般について分かっている、という彼女ならではの受け答え、そして山下とのやりとりであった。

そんなわけで、録画はするが、自分なりに興味の持てない回のときは、見ずに即刻消去するようになった。
現に、この番組は土曜だったか日曜だったかにBSで放送していた「特選オーケストラライブ」(名称は何度か変わっている)を、日曜の夜に移動しただけのものと見受けるのだが、朝にやっていたときも、興味のもてる回を除くと、即刻消去していたものである。

単に時間帯を移動しただけで、その分朝の時間帯からは消滅したので、総時間数は減っているのではないだろうか。

これを、音楽番組の貧困と言わずに、何と言うのか。
NHKたる者が、自ら養成してきて視聴者の耳を養ってきた文化水準を地に貶(おとし)めて何とするのか。

全ては、N響アワーの廃止という暴挙・愚挙に端を発するのだ。全ての要素が狂ってきた。

VTRの整理にあたって、改めて、岩城・阿木耀子が司会であった時代のものから、中村紘子時代、池辺時代にかけて、何本かを見なおす機会があった。
池辺晉一郎が司会の時代、相手が壇ふみのときはまだしも、若村麻由美、さらに大河内菜奈々子と換わっていったとき、この二人が揃いも揃ってなってないと批判したが(私の「続・音楽番組の貧困」ご参照)、改めて何本かを見なおすと、それぞれ、それなりにいい雰囲気で務めているではないか! 何れも交代して直後のときの放送なので、最初は良かったが・・・ということなのかも知れないが。

例えそうであったとしても、N響アワーという番組そのものが消滅してしまった現在と比べて、アシスタントはどうであってもN響アワーという番組が存在していたことの方がいいに決まっている。

N響アワーのアシスタントに岩槻里子が就任し、「題名のない音楽会」の司会に佐渡裕が就くことになったとき、大いに喜び「題なし復活万歳!N響アワー立て直し万歳!」という記事を書き、「音楽番組の貧困」から始まる一連の記事にピリオドを打ったのだったが、まさか今になって、その続編を書く可能性に言及せねばならぬとは、不愉快なことだ。

というのは、佐渡裕によって復活なった「題名のない音楽会」なのだが、どうにも首をかしげざるを得ない回が散見され、その頻度も多くなってきているように感じるのである。
NHKに期待できなくなった以上、「題名のない音楽会」には、よりしっかりしてもらいたいのだが、期待過剰なのかも知れない。

VTRを整理するにあたって、N響アワーだけでなく、黛敏郎が司会だった時代の「題名のない音楽会」も見なおす機会があった。
その頃に比べると、かなり内容に重みも深さも欠けている、というのが現在の「題名のない音楽会」だと言わざるを得ないのである。

これでは、NHKも民放も、クラシック音楽番組の柱たるものがなく、総崩れだ。
これを、「音楽番組の貧困」と言わずして何と称するのか。

そもそも、「音楽番組の貧困」を書いたときは、NHKはまだしも民放は・・・という主旨だったのである。
それが、よりしっかりと取り組んでもらいたいNHKがこの体たらくとなってしまうことになるとは、実に情けないことだ。

次には、「題名のない音楽会」の現状について書く。

2013年11月 4日 (月)

最近の音楽番組について(1) らららクラシック

かつて、主として民放における音楽番組で殆ど見るべきものがなくなっていた時期に、私のホームページ内の「題名のない音楽館」の中に「音楽番組の貧困について」という記事を書いたことがある。1994年4月に初稿を載せ、その後続編も書きながら2回ほど改訂を加えている。

この初稿の頃は、黛敏郎が他界したあと「題名のない音楽会」が「新・題名のない音楽会」と改称し、どうしようもない方向に迷走して行っていた時期で、全般に、民放における音楽番組「貧困」について書いていて、NHKはまだましだけど・・・という論調でもあった。

しかし、時は巡り、N響アワーを軸としたNHKの音楽番組でさえも、どうしようもないレベルに堕ちてしまう・・・という状況となってしまった。ここまで堕ちてしまうということは、想像の域を遙かに超えてしまったことである。
これでは、「再び、音楽番組の貧困について」といった記事を書かざるを得ないだろう。
ただ、一気に書くのは中々大変で疲れるので・・・1994年初稿の時に比べてトシもとったので・・・まずは、少しずつここに書きつつ、考えを纏めて行くことにする。

で、まずは「らららクラシック」である。

当初1時間でスタートした時は、それでも「つきあい」も兼ね、また批判するためには一応見てやろうという気もあって、何度か見たし、このブログに批判も書いた。何回かはそうして付き合ったのだが、とても付き合うだけの価値のある番組ではないという結論が出て、見るのをやめてしまったという経緯がある。

30分に短縮されてからは、コンパクトにまとまった点と、加羽沢美濃がピアノを鳴らしながら楽曲分析をする時間が増え、かなり良くなったと思った。そのこともあって、しばらくは、メモを取りながら視聴することを続けた。その後、色々なことがあって随分メモだけが溜まってしまったのだが、このブログの本来の目的の一つである、音楽番組評として活かせるかも知れない時に備えてのことだった。

しかし、毎回視聴し続けることにより、次第にイライラすることが多くなって行った。次第に、メモを取りながら聴くのがアホらしくなっていった。

私は、加羽沢美濃は作曲家としても編曲家としても即興演奏家としても評価するし、好きだ。好きだから評価は甘くなるかも知れないが、30分に短縮されてからは、いい役割を果たしていると思う。
しかし、石田衣良との対話がいけない。毎回のゲストとの対話がいけない。ゲストのレベルが総じて低い。
石田。暗い感じの表情で、まず元気を失わせる。
そして、毎回「この曲を読み解く3つのキーワードは・・・」なんてセリフを吐くのだが、何でもなんでも3つのキーワードに纏めるというのは、余りにも単純すぎ、幼稚に過ぎる。
恐らく台本にそう書いてあるのだろうが、従って、台本作者の問題でもあるわけだが、これ、無理が多いのではないか。3つに纏めるという手法は古すぎるし単純すぎるし幼稚なのではないか。
それは、ひいては視聴者をバカ扱いにしていることに他ならない。このことに恐らく気付いていないのではないか。そう推測してしまうので、救い難いなあという思いが募り、毎回イライラするということになる。

そして、少し長めの曲を扱ったとき、演奏例として短縮したものを聴かせる。
短縮版を聴かせて、即ち、一部でもいいから纏まった塊を聴かせることをせずに、その曲の解説をしたことになるのだろうか。

このため、半年経った時点で、メモを取りながら視聴するのは止めてしまった。
半年の間、いつか纏めてブログに・・・と思って書いてきたメモだが、今にしてみると、読み返してみても、たいしたことは書いていない。この際、処分してしまうこととした。いつか書こうと思ってのメモが溜まる一方なのは精神衛生上良くないし。

で、本来は毎回の内容を振り返りながら、個々の点について批評記事とするはずだったのを、全てまとめて、総括記事として本稿をアップすることで替えることにしたのだ。

実は、メモを取るのは止めたが、録画して視聴すること自体は続けている。それは、こうしたサイズの番組が殆どなくなってしまったことによる「飢え」を満たすためと言っても差し支えない程度のものである。録画も、時間を少しだけズラせて視聴したいからであって、1回視聴したら即刻消去している。

11月2日の放送は、モーツァルトの40番だった。珍しくマトモな曲を採りあげるのだなあと少し感心もした。しかし、次回は「乙女の祈り」だと言う。
これ、呆れてモノも言えないというのはこのことだ。呆れるよね。
1オクターブに指を広げることさえできたら、バイエル程度で弾けるはずだ。初心者向けの曲だ。モーツォルトの40番の次にこれ、って長さも、深さも、奥行きも、陰影感も、音楽的価値も、音楽史上後世に与えた影響も、全く違うのに・・・。

一体、この番組は、何がやりたいのか。この調子だと、バイエルまで扱いかねない。いや、そのレベルの曲ばかり扱うのは、それはそれでアリだし、そんな番組は、あってもいいだろう。しかし、モーツァルトの40番と乙女の祈りを並列して扱うというセンスが、どうしようもない。どんなセンスをしているのか。

こんなことは、この番組では今始まったことではない。何曲か、「何でこの曲を?」というものが、これまでにも採りあげられていた。
こんなこともあって、「メモを取りながら聴く価値はない」という判断に至ったのである。

以前にも書いたが、再度言う。

何で、こんな番組のために「N響アワー」を止めてしまったのか!
楽曲分析中心なのであれば、「名曲探偵アマデウス」という面白い番組があった。何でそれを続けなかったのか!

さて、N響アワーを押しのけてこんな番組をつくってしまったわけだが、さすがに悪評タラタラでどうしようもなくなったのだろうか。この番組を「リニューアル」と称し、時間短縮の上、日曜には「クラシック音楽館」なる番組を持ってきた。
これはこれで、何で?ということが多いのである。
次の(2)で、これについて書く。

2013年11月 1日 (金)

カセットやレコードを整理していて再発見(10) カナダからの手紙

平尾昌晃と畑中葉子によるデュエット。

畑中葉子は、このレコードを出してすぐに、イメージダウンになるような案件が発生し、その後の芸能生活では余り活躍した記憶がない。

しかし、この曲は発売当初から高く評価していて、そのためレコードもずっと持っていた。
レコードを処分するにあたり、自分でCD化する手間と時間を少しでも省きたいということと、音が少しでも良いものを手許に残したいので、CD化されたものを探した。

結果、「ベストヒット!デュエット歌謡」というCDが見つかった。

この曲を含めて16曲入っていて、私が現役当時、呑みに連れていってもらった際に会社仲間や上司が歌っていた曲もある。

しかし呑みに行った際に彼らの歌によって聞かされた曲の殆ど全てが、デュエットとは言っても単に男女が同じフシを歌うものであって、緊張感も面白さも感じないシロモノだったと記憶する。
私が「カナダからの手紙」を発売当初から高く評価し、現在に至っているのは、当時余りなかったはずの、男と女が別のフシを歌い、それも女がメインのメロディー、男が楽譜上ではそれより高いメロディーで歌う・・・実音としては男が1オクターブ低いので、得も言われぬ効果を発揮し、それが緊張感と喜びをもたらすためだ。

実際、当時から現在に至るまで、飲み屋でこれを歌うのを聴いたことが殆どない。
ならば・・・ということで私は密かに練習を積み、2度ほど機会があり・・・相手がいなければ不可能なので・・・1回だけは何とか成功した。他の人のを聴いたことは一切ない。自分で言うのも気がひけるが、「おっ!」という驚いた反応があったし、他の人の例を知らないのは、それだけ難しい曲なのだろうと思う。

しかし、本当はそうでもなかったようなのだ。単に男女が同じフシを・・・というのは私の思い込みだったかも知れない。
というのは、「カナダからの手紙」1曲が欲しくてこのCDを入手したので、思いがけず他の曲も何曲か聴いてみると、別のフシを男女が歌っている曲が意外に多いことに気付かされたのだ。
殆ど単なるユニゾンで終始する曲もないわけではないが、限定された部分では結構別のフシを歌っているのだ。

ということは、単に男女が同じフシを歌うものばかり聞かされてきたのは、同僚や上司の、音楽的センスの問題だったのかも知れない。実際、別々のフシを歌って面白い効果を挙げていたことが全くなかったのだから。

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