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2012年9月

2012年9月29日 (土)

題名のない音楽会 2012年8月12日と19日 なぜ放送していない内容が??!

この時期、高校野球のため「題名のない音楽会」は放送されない、と理解していた。現に、録画された内容をチェックすると、高校野球が録画されているだけ。昨年もそうだ。

しかし、何と番組ホームページの過去の放送で、この両日とも内容、曲目とも掲載されているのだ。昨年もそうだ。

とすると、答はひとつしかない。別のセグメント(同じ放送局が持っている、別のチャンネル)で放送したのではないか、ということだ。

こうしたことは、やめて欲しい。
レコーダを、この時期だけ別セグメントに設定する、などと言うことを、殆どの人もやるはずがない。ひょっとすると前回の番組の終りの方などで告知しているのかも知れない。しかし、そんなこと気付くはずもない。それほどヒマではないって。

それだったら一層のこと、高校野球の期間だけは放送中止としたらいいのである。

朝日新聞主宰の行事だし、何といっても高校野球関係者とか地元の人にとっては欠かせない行事なのだろう。だから高校野球の放送自体をやめろとは言わない。しかし、このやり方で伝統の番組をハタに押しのけてしまう神経が、どうしても解せないし許せないのである。

来年からは、絶対に善処してもらいたい。

まあしかし、内容と曲目を見る限り、どうてせもいい内容ではある。だから、録画できなくてもどうでもよかった、とも言える。だけどそれって、実に悲しいことでもある。

2012年9月28日 (金)

題名のない音楽会 2012年8月5日 なんてったってトケラムズ

掲題のテーマで、いま話題となることが多い2人のドラマー則竹裕之と仙波清彦をゲストに迎え、2人の共演を交えながら進めて行くという企画。

番組内では、記憶に残っている人が多いと思われる、歴史的なドラマーの映像も交えていた。

しかし、これって「題名のない音楽会」でやるべきテーマか??!

いや、私はアチコチの記事で書いている通り、決して「クラシック原理主義者」ではない。今回のようなテーマが決してキライというわけではない。別の記事で確か書いた記憶があるが、「坂本龍一の音楽学校 スコラ」でベース&ドラムズを採り上げた回があり、楽しく見たし参考になった。

しかし、「題名のない音楽会」は、あくまでもクラシック音楽に軸を置いた番組だと思っている。いや、NHKのアホどもが「N響アワー」を廃止するという暴挙に出てしまった現在、文字通り唯一の・・・「ららら」は絶対にクラシック音楽番組と認めない・・・クラシック音楽番組であって欲しいのである。

黛敏郎の時代、仮にこうしたテーマを採り上げることがあったとしても、あくまでもクラシック音楽とか彼の世界観に関連付けて解説したはずだ。

一応佐渡時代になつてから、番組内容に関係なく全ての放送を録画保存することに決めているので、今回も消去したりすることはないが、時々それでも、消去したいと思うケースがある。今回はまさにそんな回だった。一応保存はするが・・・。

2012年9月27日 (木)

題名のない音楽会 2012年7月22日 アキラさんのデイズニー音楽大発見

ディズニー生誕110年特集の2回目。
宮川彬良が、ディズニー音楽が愛される理由として3つの点を挙げ、その魅力を解明しようという企画。

そのポイントは次の通り。

  1. 歩きの音楽が多い
  2. 日本のアニメでは映像が優先されることが多い。それに対し、ディズニーのアニメでは音楽が優先されていた。
  3. メロディーだけでなく、伴奏も美しく、内声部もキレイにつくられている。

ハッキリ言って、「それがどうした」という感じだ。
彼の音楽分析、ときどきこの番組でもやるが、どうも、取って付けたという印象を拭えない。何のつながりもない「分析」だし、系統だってないし、何よりも良くないのは、作曲家でなくても、これくらいの「分析」は語ることができる、ということだ。
新しい発見もないし、「ああ、そうだったのか」と、新しい見方が増えて味わえる喜びもない。

以前からずっと、この人の才能はご父君の宮川泰に比べて遙かに劣っていると思っている。
ひとつだけ知ったのは、彼が、東京ディズニーランドの音楽をプロデュースしているこいうこと。

まあ、それを知ってどうとか言うわけでもないのだが。

2012年9月26日 (水)

題名のない音楽会 2012年7月15日 生誕110周年 ディズニーの音楽愛

今年2012年は、ディズニー生誕110年にあたるとかで、2回に分けて特集する第1回目が今回の放送。

東京ディズニーシーの音楽を色々と手がけ、アレンジャーとしても活躍しているという指揮者のブラッド・ケリーをメインゲストに、ディズニー映画とその音楽について語って行く企画。

音楽は比較的新しいものと古いものを合せて3通り演奏したが、率直に言って新しいものはよく分からない。
それよりも、一番記憶に残ったのは、「ファンタジア」成立に関わるエピソードである。

あるとき、ストコフスキーがディズニーと会う機会があった。そのとき、ストコフスキーがディズニーに「デュカの『魔法使いの弟子』をアニメにしたら、面白い作品になるのでは?」と提案した。ディズニーがそれに乗り、「ファンタジア」が出来たというのである。このため、「ファンタジア」は、「魔法使いの弟子」から出来ていった、とも言っていた。

これで、ずっと感じていたことに、大いに納得したのである。
この作品だが、「魔法使いの弟子」の部分が余りにもよく出来ていて、その割りには他の曲の部分の出来が良くないと思ってきた。率直に言って、他の部分は無理矢理に映像と音楽を合わした観があるし、趣味が悪くグロテスクなのだ。「魔法使いの弟子」は良く出来ていて何度も見たくなるのだが、他の部分は、何度も見たいとは思わない。1回見たら十分だ。

「魔法使いの弟子」は、どこかにも書いたが、出来すきている余り、映像なしで音楽だけを聴いても、どうしても、ミッキーが魔法使いの衣装を着てチョロチョロしている姿が浮かんできて仕方がないのである。ディズニーランド/ディズニーシーだって、ミッキーと言えばその姿で登場することが多い。ミッキーの代表的な衣装といえば、魔法使いの弟子ふうなのだ。現に「ファンタジア」のパッケージも、LDの時代からDVDでもブルーレイでもこの姿の絵で変りなく続いている。

で、「ファンタジア」の公開が1940年で、デュカの「魔法使いの弟子」が作曲・初演されたのは1897年(ここに掲示の辞典による)。作曲されてから既に43年も経過しているとは言え、この曲が大いに親しまれるようになって行くキッカケとなったと言っていいと思うのだ。
CDとしての私のリファレンスは、何と言ってもデュトア盤。

ついでに言及しておくと、ディズニー初の長編アニメは「白雪姫」で、1937年公開だ。日本では1950年になってようやく公開され、それを見た手塚治虫が大いに感激して何度も繰り返し見にいったこと、そして「何でこんなものが作れる国と戦争したのだろう」と思い、やがて自分でもアニメ映画を作ろうと決心し、一連のアニメ作品を制作して行く原動力となった、というのは、手塚ファンであれば必ず知っている、重要なエピソードである。

私も、断片ではあるが音楽のメドレーの最中にこの「白雪姫」を見て、改めて「こんなものを作れる国と戦争しようなどと、よくも無謀なことを考えたものだ」と、改めて思った。

さて、あと一言だけ付け加えるが、メドレーの中に、「花のワルツ」が出てくるものがあった。これ、他の曲とメドレーにすると、他の曲が気の毒だと思った。チャイコフスキーのこの曲、余りにもレベルが違いすぎるのである。「格」が違うと言ってよい。
これは「ファンタジア」の中の曲の抜粋ということだったのだが、映像が上記のように無理矢理合せた観があり、見たあと一切記憶に残っていない。この箇所ひとつとつてみても、「魔法使いの弟子」と差がありすぎるのである。

2012年9月25日 (火)

題名のない音楽会 2012年6月24日 チェロは歌う 宮田大の挑戦

何が「挑戦」なのだかよく分からないが、要は新進のチェリスト宮田大を紹介しようということだった。

ハープの篠崎和子とのデュオで、カッチーニのアベマリア、兵庫芸術文化センター管弦楽団との共演で、ドヴォルザークのコンチャルトから第3楽章。そしてソロで荒城の月という、3通りの演奏形態による3曲。

アベマリアは音域として余りふさわしくないように感じたが、ソプラノによる演奏を聴いたことがないのであれば、まあまあの出来。
ドボコンは途中を省略したかと思うが、これもまあまあか。
で、一番良かったのは、皮肉にも、荒城の月だった。共演のために呼んで来た人たちには悪いですけどね。

そして、アベマリアについて、もしちゃんとしたソプラノによる演奏で聴いたことがないのであれば、是非とも、我らが森麻季なよる「アヴェマリア集」で聴いてほしい。
この曲の別の人による演奏を持っている人にも、一聴の価値がある。

もっとも、私の場合、このCDの中で一番良よく聴くのは、結局シューベルトの「アヴェマリア」ということになってしまった。何と言うか、音楽の「格」が違うのだ。何でこんなメロディーが出てきたのか、他の作曲家に比べて無理矢理ひねり出した観が全くない。実にスンナリと耳に入る。こんな芸当ができたのは、現代に至るまで、他にはモーツァルトただ1人ではないだろうか。
そんなことを感じさせてくれる演奏でもある。シューベルトだけを目的に手許に置くとしても後悔することのない演奏だ。

2012年9月24日 (月)

題名のない音楽会 2012年6月10日 吹奏楽によるヒットソング

東京佼成ウィンドオーケストラによって、AKB48や少女時代など、最近のヒット曲をメドレーで演奏するという企画。

途中まで聴いていたが、番組の中ほどでアホらしくなって音を消した。一応この番組は全部録画保存することにしているので録画自体を消してはいないが、本当は録画自体を消去してもいいくらいだ。

何で、こうした曲を、この番組でやらねばならないのか。しかも東京佼成を使って。

念のために言っておくが、私はクラシック原理主義者ではない。現に、今回採り上げた曲の中の何曲かは割と好きだし聴く機会の多いものもある。何枚かはCDも持っている。Perfumeのライブ演奏は録画保存したし、「マルマルモリモリ」は気に入って、ついでに芦田真奈のCDも買ったし、AKB48についても、とくに誰を押すということはない程度だが、この記事を書いている9月22日時点で遂に購入手配したほどだ。

しかし、それをなぜこの伝統ある番組、しかもクラシックに軸を置いているはずの番組で演奏せねばならないのか。しかも東京佼成を使って。

東京佼成は6月3日放送分に続いての登場だが(2回録りをしたのだろう)、もっと演奏させたい曲があるはずだ。リードだって1曲だけだったし、吹奏楽コンテストの課題曲を歴代振り返りながら、もっと語っても良かったはずだ。

それに・・・なぜ最近はマーチの類を、こうした番組で余り演奏しないのか。

黛敏郎時代のこの番組で、どこだったかの吹奏楽を登場させて色々な曲を演奏させたあと、「しかし、吹奏楽はマーチが主たるべきもの。もっとマーチも演奏してほしい」と黛が言っていたのを思い出す。
そうなのだ。それぞれ自分の学校に吹奏楽はあることが多いだろうし、体育祭などでその演奏を聴いたりもしているだろう。しかし、それらの曲の「模範演奏」的なものは余りちゃんと聴いたことがない、という人も、自分でそうしたクラブ活動に身をおいたことがない人であれば、多いはずだ。

東京佼成によるマーチ集は、現在、2枚は手に入るようだ。私の持っているものは曲の組み合わせが異なるが、ここでは今手に入る2枚を紹介しておく。
大沢可直指揮のものは2003年の録音。フェネル指揮のものは1984年録音。
前者も後者も、スーザを中心としたアメリカンマーチか゜主だが。前者には日本のマーチも入っている。安価に手に入るので、是非とも聴いてみて欲しい。とくに、パチンコ屋の音楽だとか、右翼の宣伝音楽だとか揶揄されることが多い「軍艦マーチ」が、実は結構な名曲なのだということが、模範演奏だからこそ浮かび上がってくるということも経験して欲しい。

2012年9月23日 (日)

題名のない音楽会 2012年7月1日 オーケストラにおすすめ!実演付き楽器行商人

オーケストラで使われている楽器は、200年ほど殆ど変らずに続いている。もっと新しい楽器を使ってみてはどうか、ということで、「富山の薬売り」ならぬ「楽器の行商人」に扮した青島広志が色々な楽器を持ち込んで提案し、実際にオーケストラの中で演奏しようという企画。
次の曲が、それぞれ代用楽器を使用して演奏された。

  • 篳篥(ひちりき)をオーボエの代用で「白鳥の湖」の「情景」
  • リコーダをフルートの代用、鍵盤ハーモニカをクラリネットの代用として「田園」第1楽章冒頭
  • カズー(こんな楽器があるとは知らなかった)をトランペットの代用でメンデルスゾーンの「結婚行進曲」
  • 大正琴をチェンバロの代用で、バッハの「管弦楽組曲第2番」から「ポロネーズ」
  • とくに何の代用とは言わなかったと記憶するが、ミュージカルソウで「熊蜂の飛行」

カズーはオケの団員、リコーダと鍵盤ハーモニカは小学生による演奏だったが、篳篥と大正琴とミュージカルソウはそれぞれの楽器の専門家を呼ぶという、力の入れようで、本格的な試演と言っていいだろう。
とくにミュージカルソウはサキタハヂメで(ご存じだろうか。『ノコギリ音楽』の世界的な奏者だ)、久しぶりに聴いたが、「熊蜂の飛行」を超絶技巧で弾ききったのには驚いた。

肝心の、オーケストラ内で使うとしての適正だが、篳篥をオーボエの代用で、というのは全くダメ。ダブルリードで鳴らすという点では共通しているのだが、篳篥では音程が不安定すぎた。

カズーをトランペットの代用で、というのは如何せんトランペットとしての音量が確保できず、これも失敗。

ところが、「田園」でフルートの代用でリコーダ、クラリネットの代用で鍵盤ハーモニカは大変よく合ったし、むしろ余りにも違和感がなくて驚いたほど。
そして、チェンバロの代用で大正琴、というのも、佐渡は減価に否定したが、私はよく合ったと思うし、むしろ違った味が出たようにも思った。

佐渡曰く、本来は全て不適。オーケストラの楽器がずっと変っていないというのはスゴイことだと。

私もほぼ同感だが、2点だけ。
まず、「田園」でフルートの代用でリコーダ、クラリネットの代用で鍵盤ハーモニカというのが合っているように感じるのは、いわば当然のこと。音が似ているし、代用楽器とて西洋音楽の音階で作られているのだから。
佐渡が否定したが私が合っていて良しとした、チェンバロの代用で大正琴というのも、ある意味で合っていると聞こえて当然だ。どちらも弦を弾(はじ)いて音を出すし、大正琴というものは古来の琴とは異なって、西洋音楽の音階で調弦するのだから。

本来は、この辺りまで突っ込んで説明すべき処だったと考える。

尚、サキタハヂメの話だったと思うが、ミュージックソウというのは作曲家にとっても不思議な魅力があるらしく、ハチャトリアンとか黛敏郎が、この楽器(木を切る鋸とは異なり、レッキとした楽器なのだ)のために曲を作っていた由。
中々そんな曲を演奏しても客は集まらないと思うし、歌謡曲とか演歌を鳴らして・・・と見える現状の路線がむしろ正しいのかとは思うが、もっとこうした曲にも範囲を広げて、ミュージックソウの可能性を、サキタハヂメには追求してもらいたいとも感じた。

さて、今回採り上げられた曲の中で、「結婚行進曲」だけはDTMを制作してあるので、引用しておきたい。誰でも知っている曲だと思うが、ワーグナー作曲のものとは違い、華やかなメンデルスゾーン作曲の方である。ここでは全曲を引用する。以外と、全曲聴いたことのある人は少ないかも知れないと思うので。
冒頭から始まって、要所要所でトランペットが印象的なフレーズを鳴らす。これがキッチリ出ないというのは致命的で、やはりカズーなどという代用楽器には荷が重すぎだ。

ところで、このトランペットのフレーズだが、私は聴いているうちに「これはベートーヴェンの第5交響曲のパロディだ」と感じるようになった。あながち間違いではないかも。これ、本来は妖精の世界の・・・言い替えれば魔界の・・・結婚式に鳴る曲だから。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/mendelssohn/hochzeitsmarsch.mp3

そして、これを含めた「劇付随音楽 真夏の夜の夢」からの抜粋盤で、私のリファレンスは、クレンペラー指揮の演奏である。ただ、新品は入手しにくいかも知れない。
尚、盤によっては「夏の夜の夢」と表記されていることがあるが、同じ意味である。最近では単に「夏の夜の夢」と表記することが多いようだ。

2012年9月22日 (土)

題名のない音楽会 2012年7月8日 松本幸四郎の・・・ 続き

(前稿からの続き)

さて、松本幸四郎が、クラシック音楽との関わりで印象に残っていることの一つとして、中学のときの音楽の授業で、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と長唄の「吾妻八景」を続けて聴かせ、感想を言わせるというのがあったそうな。
これを番組内で実際に、長唄を「娘道成寺」に変更して聴かせてみせた。

率直に言って、私は戸惑うだけだった。これで何を感ぜよと言うのか!?? 並べて聴かせるだけでは、何も新しい試みにならず、何も新しいことが生れないではないか。
そもそも、松本幸四郎が受けたというモトの授業で、その教師は、いったい何を目論んでいたのか。
番組内で、佐渡は「ユニゾンで始まり、あとで別々に演奏するように進んでいくのが共通している」と、的確そうなコメントをしていたが、だからどうだって言うのか。私に言わせれば、いくらでも、もっと突っ込んで説明できるはずだ。

例えば私なら、まず、変奏という作業の多寡について、西洋音楽の多いことに比べて邦楽が少ないこと・・・聴きようによっては、全く変奏という操作を伴わないこと・・・に言及する。そしてそれは「和声法」という仕組みを編み出した西洋音楽の大きな特徴であり、それはアイネクライネのように最小4本の楽器で可能であること(本来は弦楽四重奏の編成にコントラバスを加えた編成が最小だが、コントラバスはモーツァルトの時代、チェロの1オクターブ低い音を出しているだけだから、省略可能)に話を進める。

その上で、お互いの演奏に使っている楽器を何らかの形で教えて、見せて、類似性を考えさせ、「変奏」に頼らなかった邦楽の良さとか魅力について考えさせる。歌舞伎の世界で育ちつつあった松本幸四郎が発言の主役になっていいではないか。

番組の後半、「アマデウス」からサリエリのセリフを松本幸四郎が演じ、「クラン・パルティータ」と合せるというのがあり、これは実に良かった。
尚、ここにはブルーレイディスクを例示した。なぜかDVDよりも安価に入手できるようなので。

最後に、佐渡が知らなかったと言ったビゼーの交響曲ハ長調について、一般のファン用といってよい全音楽譜の版権によるオイレンブルク社のミニスコアがとっくに出ていること、そしてCDも、簡単に入手できる形で少なくとも2枚はある、ということを示しておく。
そのうちの1枚は小澤征爾の指揮ですぞ。バーンスタインと並んで佐渡が「師」と仰ぐ人の指揮したもものを知らないって・・・やっぱり知らなさすぎだろう。名盤とされたものだし。

ただ、曲のキビキビ溌剌とした感じがより出ているのは、パーヴォ・ヤルヴィ指揮のものだ。両方とも聴いて損はないだろう。

さて、蛇足だが私は、松本幸四郎という人物に何となく親しみを感じている。
別に、彼の歩んできた芸歴には何の興味も関心もない。歌舞伎は縁遠いし、ミュージカルについては何も感じない。
ただ、大昔に好きだったコが、芸能人の中で好きなタイプは市川染五郎だと言ったこと。当時の市川染五郎は、現在の松本幸四郎だ。
って、私にも彼の面影を見ていたってことか??!
それだけならそれで終る話なのだが、私の娘が「松たか子に似ている」と言われることがある由。
って、私が幸四郎に似ているということの裏付けではないのか??!

まあ、万一そうだったとしても、あくまでも若いときの話だ。アホ話として、また親バカとして、寛容に読み飛ばして頂くとありがたいです。

2012年9月21日 (金)

題名のない音楽会 2012年7月8日 松本幸四郎の見果てぬ夢

歌舞伎役者としてだけでなく、ミュージカルでは「ラマンチャの男」でロングランするなどの活躍があり、テレビ出演もしているという松本幸四郎が主役。

彼がこれまでに聴いてきたという曲の中から、記憶に残る幾つかの曲を採り上げつつトークと演奏をするという形だった。

私が一番驚いたのは、松本幸四郎が初めてテレビに出るとき、音楽を監修していたのが芥川也寸志で(このこと自体も十分驚きに値するが)、芥川自身の作品を使わず、昔のクラシック音楽を使うことにして、二人で相談して決めたのがビゼーの交響曲だったというのだが、佐渡がその第4楽章を演奏したあと、「この曲は初めて知った。余り採り上げられることのない曲だ」と発言したことである。
何!? この曲を知らなかったって!?? 。そんなアホな。

ちょっと脱線するが、この発言に衝撃を受け、ひょっとしたら聴いたことのない人が多いのかとも思い、CDになってからは持っていなかったので入手し直したり、説明のためのDTMによる演奏例を制作することにし、スコアを手許に取り寄せ、入力し、そこから派生して幾つかの曲の演奏を新規に制作したくなり、それが他の作曲家に及び・・・・というつながりで、何となく記事の更新が滞ってしまった・・・これが、このブログを長期に休んでしまった大きな要因なのである。
他にも要因があり、その中には単に疲れたとか、政治の現状に失望し、また領土問題が恐ろしいことになったりして何もやる気が起こらなくなってしまった時期が続いたということもある。しかし、この日の番組の佐渡の発言こそ、最も大きな要因だと言ってよい。

少なくとも私にとって、この曲って珍しくも何ともない。しょっちゅうは聴かないが、聴き馴染んだ曲である。私は、聴いたことのある方が普通だとさえ思っている。もし私の考えの方が多いとすれば、佐渡は、こんな程度の曲さえ知らなかったのか・・・ということになる。

良く言えば、聴くよりも演奏する方に時間を取られすぎ、結果、意外な曲を知らない、ということになるのかも知れない。私に言わせると、そういうレベルを越えて、聴いてなさ過ぎると思うんだけどなあ。知らなすぎると思うんだけどなあ。
いや、普通の音楽ファンならいざ知らず、一応「世界的な」という形容詞を含めてハタから語られることのある人だから言うのである。

で、番組内では第4楽章を演奏した佐渡に対し、松本幸四郎が「芥川先生と最終的に選んだのは、この楽章ではない。確か、第2楽章だったはずだ」とコメント。
メモし損なったのだが、番組内で紹介されていた、そのテレビ番組の主旨から言って、松本幸四郎の記憶が正しいと、私は思った。それと、彼の音楽センスも大したものだと、併せて思った。

ビゼーの交響曲ハ長調を知らないって、佐渡も大したことがないなあ。
ちなみに、このように第1楽章が始まる曲だ。演奏例は冒頭から57小節分。
聴いたこと、ないのかなあ。むしろ私にとっては不思議なのだけど。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/bizet/bizet_sym1_1stMvt.mp3

そして、第3楽章と第4楽章の演奏例は省略するが、松本幸四郎が指摘した第2楽章は、こんな感じて始まる。冒頭から31小節分。
これも、聴いたことないと言うのが、「世界的」と称されることのある指揮者としてはどうかねえ。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/bizet/bizet_sym1_2ndMvt.mp3

(この稿続く)

2012年9月20日 (木)

題名のない音楽会 2012年9月16日 出光音楽賞受賞者カ゜ラコンサート

この日の放送は、第22回出光音楽賞受賞者による、ガラコンサート。

リストの「ピアノ協奏曲」を弾いた金子三勇士、マリンバ独奏でセジョルネという人の作曲になる「マリンバと弦楽のための協奏曲」を弾いた塚越慎(のり)子、ラヴェルの「左手のための協奏曲」を弾いた萩原麻未(まみ)の3名が登場。何れの曲も抜粋だったが、3人とも良い演奏だった。
いや、正確に言うと、マリンバの曲については、私は全く知らないし聴いたこともないのでハッキリしたことを評することはできない。しかし、ピアノ協奏曲の二人については、ハッキリと「良い」と断言できる。

もっとハッキリ言うと、左手のためのピアノ協奏曲を弾いた萩原麻未については、「素晴しい」と評したい。
ラヴェルにつては、この曲と、両手のための協奏曲の2曲とも大好きな曲で、そのうちに私の「題名のない音楽館」に記事を掲載する計画があってスコアも入手済みで、その実、全く進んでいないのだが、2曲の中でウェイト付けをするならば、「左手」の方が、より好きだ。なぜか、この記事を書いている時点では「両手」の新品が入手困難みたいだが・・・。

先に好きになったのは「左手」で、若い頃、木村かおり(岩城宏之の奥さんだったことがある人だ)の生演奏で初めて聴いてから、ずっと好きであり続けている。「両手」が好きになったのは比較的最近のことだ。言い替えると、「両手」の良さが分かるまでに、相当な年月を要したことになる。

萩原麻未は、何の番組だったかで、ジュネーブ国際コンクールで、日本人初めてのピアノ部門優勝者として紹介され、そのときの映像としてラヴェルの「左手」だったか、「両手」だったかが、ごく一部、音楽とともに紹介されたとき「ひょっとして凄いのではないか」と感じてから、ずっと聴きたいと思っていたピアニストだ。
たまたまボケッと見ていた(他に、余りにも見る番組がなくて)「らららクラシック」で彼女が登場するというので楽しみに見続けたら最後の方で「月の光」を弾かせて終り、というアホな編成だったので落胆し、改めて「ららら」に対して失望し、NHKの企画者への軽蔑の思いを募らせた後でもあり、一部とは言えそれなりの纏まりで聴かせた、この番組の貴重さが際立つ結果ともなったわけだ。
この「ららら」の顛末は、2012年7月25日(木)の記事に書いた通りだ。

改めてこの記事の日付を見ると、この「ミニ音楽評」の1つ前の記事って、ナナナ・・・この「ららら」をけなした記事ではないか。ちょっと休み過ぎました。よくこのブログを見て頂いている方には申し訳ありませんでした。

一部とは言え、それなりの纏まりで聴かせてくれた「左手」の演奏によって、萩原麻未の才能を確信することができた。これは素晴しい。
そして、曲が進むに連れ、「ああ、やはり『左手』の方が好きだ」との思いを強くした。改めてそう思った。

こうなると早速CDを・・・ となるのだが、まだ出ていないようだ。仕方ないのでウォッチし続けることにして、ここでは私がこれまでリファレンス盤としてきたパスカル・ロジェのピアノ、デュトア指揮による演奏を挙げておく。併せて「伝説の名演」と言われるカサドジュによる演奏を。後者は新品の入手は困難かも知れない。
また前者は「両手」とのカプリングだが、後者についてはよく分からない。

ところで、上記3名の中、三勇士という名前の人がいる。この人だけは、読みづらいかも知れない漢字に振り仮名を付けずにいた。
だから当然のこと、「さんゆうし」なのではないかと思われたことだろう。しかし、実は驚いたことに「みゆじ」と読むのだそうだ。もちろん、music の意味と「勇者(ゆうしゃ)」の意味をダブらせる狙いでつけたものと推察して間違いはないだろう。ダブらせているのがキモだと思う。面白い名付け方があるものだ。

最後に雑学を一つ。このために、この「ミニ音楽評」に新しく「雑学」のカテゴリーを設けたのだ。

少なくとも、私はずっと疑問に思っていたので、同様に疑問に思ってきた方もおられるはず、と勝手に推測するのだが、「ガラ・コンサート」の「ガラ」って何のことか、ということ。何となく雰囲気で分かるし、余り考える必要性を感じなかった方は、もっと多いのではないか。

私より英語力がある方は、先刻ご承知のことだと思う。
改めて英和辞典・・・私が常用しているのは「プログレッシブ英和中辞典」第3版。一応ここには、私が常にペアで使っている「和英」と併せ最新版を紹介しておく。
時代の流れとか比較的新しい言葉の追廃について最も敏感だと私が思い、そして高く評価する辞典だ。

その「英和」第3版によと「ガラ」は gala 。「お祭りの」とか「特別な催しの」といった意味があるようだ。これも、日本語に翻訳してしまうと1つの意味にしか取れなくるのを嫌って英語のまま「ガラ」として使うようになったのだろうか。それとも翻訳を単にサボッただけのことなのか。その辺りの事情は分からない。

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