大植英次指揮 大フィル マーラー3番 2012年5月10日
私は決して「ナマ演奏至上主義者」ではない。昔ならレコード、また今ならCDで、あるいはFMでもTVでも、十分に楽しめるし、曲の価値も分かると思っている。
しかし、どうしてもナマ演奏でないと経験ないし体験できなしことがあるのも事実だ。
マーラーの交響曲というのは、価値が分かれば分かるほど、聴くと疲れるものだと分かってくるし、殆どの場合、疲れるほどの演奏でないと曲の真価が分からない、という困った存在である。
しかし、3番はちょっと違う。当初この3番の第7楽章として構想されていた「天使が語ること」を終楽章に据えた4番とともに・・・・だから3番と4番は双子みたいな存在だと言えるのだが・・・聴いていて精神的に疲れることは余りなくて済む曲だと考えている。
そして、マーラーのナマ演奏というのは、まだ3曲しか接していないのが実情だ。
5番は若杉弘がドレスデンだったかの常任たせったときの凱旋公演で聴いたし、2番は日本フィルが渡辺曉雄を常任に迎えて再出発したときの記念公演で聴いた。何れも名演だった。7番は朝比奈隆指揮の大フィルで聴いたがつまらなかった。
大植英次が音楽監督になってから、マーラー・チクルスを始めたときは、現役だった私には時間的な制約のため行きたくても行けなかった。ようやく現役を卒業し時間的に何とかなるようになって、気がついてみるとしかし、彼が音楽監督引退・・・ということになってしまった。
今回の演奏会は、彼が桂冠指揮者となってから初めてのマーラー演奏だとのこと。私にとっては、初めてナマで聴く3番ということになった。
100分もかかる長い長い作品だが、続けて6楽章を演奏するので、途中休憩ナシと予めアナウンスされた。
とは言っても、第1楽章が終ったあとには合唱団がステージに上がる時間があったし、第3楽章が終ったあとにはメゾ・ソプラノが入場する時間があり、楽章間のスキマがなかったわけではない。メゾ・ソプラノ入場のときは拍手も起きた。
さて、演奏だが、第1楽章冒頭の、8本のホルンによる開始部で、少しテンポをさわったのが気になったのと、メゾ・ソプラノが、私の思う声質よりは豊かすぎ・・・むしろワーグナー歌手としてふさわしい・・・という辺りが気になった程度で、概ね良かったと思う。
メゾ・ソプラノは、当初アルトでゲルヒルト・ロンベルガーが体調不良のため出演不能となり、代役としてメゾ・ソプラノのアネリー・ペーボが出演した由で(会場で変更告知のビラが配られた)、その辺りの事情も、私が違和感を覚えた理由の一つとなったのかも知れない。
ナマで聴いて良かったというのは、まずオーケストラが大規模であること、そしてその大編成を活かした凄まじい音が出る曲だということ、そして第3楽章で舞台裏で奏されるポストホルンの音などである。ポストホルンの出る第3楽章は、この曲の中でかなり退屈な楽章だと思っていたのだが、ナマで接するポストホルンの音色は、「この音でこのフシを鳴らして聴かせるのが、この楽章の狙いか・・・」と思わせ、殆ど退屈しないで済んだ。
4階席だったので(高くで怖かった・・・)オケの全貌を見下ろす形となって、全ての音が一度にドン!と押し寄せる感じとなった。この膨大なオケと凄まじい音響、どこかで見聞きしたことがあるナアと思ったが、つい先だって、同じ大フィルを井上道義が振った「惑星」がそうだった(5月11日付けの記事)。
しかし、そこはマーラーだ。似たような規模のオケを使って、比較的単純で聴きやすいメロディーを、繰り返し繰り返ししているうちに、いつの間にか強烈なクライマックスに辿りついて行く。何度も同じことを繰り返しているようでいて、そこには、変形されるたびに力がみなぎり、聴く者を圧倒するパワーが込められて行く。
全て、こんなことは分かっているし知っていたことだ。
しかし、ナマで聴くと、分かってはいても、まさに筆舌を尽くしがたい体験がそこに待ち構えていることが、改めて分かるのである。
中でも私が「この曲の価値、ここにあり」と考えているし当日の演奏も素晴しかった第6楽章まアタマ。
DTMで作成してみたので聴いてみて頂きたい。
http://tkdainashi.music.coocan.jp/mahler/mahler_sym3_6thMv_1st.mp3
そして、上記引用の箇所も含めた、この曲全体についての評論は、私の「題名のない音楽館」内の「マーラー 交響曲第3番」の稿を是非とも。