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2012年4月

2012年4月25日 (水)

大阪センチュリー交響楽団 支援に名乗り 素晴しいの一言に尽きる

もともと本件は、私の愛読しているブログの1つであるJIROさんの「独断的日記」で知ったのだが、その記事から1日遅れで、毎日新聞奈良版で、2012年4月25日付け朝刊に掲載された。29面で、マンガの載っていいるページである。マンガのすぐ下に配されていたから、関心のある人は目に止めたことだろう。

新聞によると、名乗りを上げたのは、近畿信用組合の青木会長。
同信用組合は、信用組合では全国2位の規模で、今年2月時点の総預金が1兆円を超えた由。
大阪センチュリー交響楽団の年間事業費は7億円で、内4兆円を、大阪府が補助していたが、橋本時代に削減が決定された。近畿信用組合は、2億円程度の補助を考えているとのこと。
また、青木会長は、エムケーグループの会長でもある。

・・・で、ここまで読んで「アッ」と思った。この人、在日韓国人1世なのである。
エムケータクシーの経営について、経済番組などで採り上げられたこともあり、それらを見る限り、経営者として素晴しい人なのだろう。だから、韓国人だからダメだと言うのではない。そもそも、そんな差別感情を、私は持ち合わせていないつもりだ。また、持たないようにしてきた。

そんなことではなく、こうした件で率先して名乗りを挙げたのが外国人であること・・・それも韓国の人であること・・・に衝撃を受けたのである。
なぜ日本人であったり、日本の会社でなかったのか。

所詮、人であったり会社であったりの、「勢い」の違いなのだろうか。
これだから韓流ブームがあったり、KPOPがしょっちゅう出てくるわけだ。サムソンやLGがテレビ市場・家電市場を席巻すめわけだ。

クラシック音楽とは別の話だと思うかも知れないが、私の見る処、底流は同じだ。

ま、そんなウルサイことを抜きに、「素晴しい」の一言。
上記のJIROさんの記事に、「日本人は誉めるのがヘタ」だとあった。上記の毎日新聞でも、論評抜きだった。新聞の公平性ということから、これは仕方のないことなのかも知れない。

では、連日しょーもない話題ばかり採り上げたり、いやなニュースばかり「したり顔」で解説したりしている、あまたあるニュースショー、ワイドショーの類はどうか。せめて、NHKだけでも・・・って無理だろうなあ。N響アワーを廃止するという愚挙・暴挙をやらかす程度の文化センスしか持たなくなってしまったものなあ。
ひょっとすると、大阪地方枠では採り上げたのかも知れない。でも、それでは不十分なのである。全国の時間でやらないと。

僅かな力しかないが、せめてこんなブログの分野だけでも、大いに讃えたいものだ。
素晴しい !

2012年4月23日 (月)

題名のない音楽会 2012年4月22日 佐渡とシエナのビートルズ

先週のこの番組で、同じ佐渡とシエナの組み合わせで、ディープパープルの曲を演奏した。それについては4月21日付けの記事で書いた通り、「失敗企画」だったと思う。
①シエナのメンバーのリズム感がおかしいのと、②取りあげた曲のそれぞれが「名曲」の名にふさわしいとは思わないこと。そして、③エレキベースを使用しないことによる、ロックな感覚の徹底的な欠如である。

今回はビートルズということで、少しの期待はあった。
結論から言うと、曲の良さが際立っているのでごまかされるが、同様に「失敗企画」だったと考える。
つまり、先週の3つの問題の中、②は問題ないが、①と③は改善されているはずもなく、それは②だけでは到底カバーしきれないからである。

とくに、①は、救いがたいと言えるレベルだ。ドラムこそロックのリズムを叩いているのだが、他の奏者のノリが悪すぎるのだ。

演奏された曲の個々について触れるのはやめるが、そんな中でも却って一番面白かったのが、金沢明子による「イエロー・サブマリン音頭」だった。
これ、歌詞の変更を伴うカバー曲としてポールが認めた曲だそうで、発表された1982年当時は衝撃だった由である。

また、金沢の言によると、当時、金沢が在籍していたレコード会社の部長だった飯田久彦氏が、「手拍子で歌えるビートルズの曲はないか」と探していて、行き当たったのが「イエローサブマリン」だった由。なるほど、それなら演歌風に歌えるし、ロックのビート感がなくてもいいわけだ。
尚、この飯田久彦という人は、1962年に「ルイジアナ・ママ」という曲でヒットした元・歌手で、私がウェブで調べると、後にテイチクレコードの再建に関わったりして経営者として優れた業績を挙げ、現在はエイベックスに所属しているらしい。で、金沢明子にこの曲を当てた1982年当時は、日本ビクターの制作部長だったと推測される。

この「音頭」の、番組での編曲は、前田憲男だった。
これは実に楽しいアレンジで、「錨を上げて」や「軍艦マーチ」の片鱗を紛れ込ませたもの。

で、関連して佐渡が「ビートルズはメロディーと歌詞に力がある。とくにメロディーが良いので色々なアレンジに耐える」と言っていた。
これは、誤りとは言わないが不十分な説明だと思う。

メロディーだけでなく、コード進行の巧みさにも言及すべきだ。
確か黛時代も、何度かビートルズを採り上げたと記憶するが、彼らのコード進行の斬新さにも言及していたはずだ。また、昔からのビートルズのファンで、ビートルズのコード進行を絶賛する声を何度も聞いている。私はコード進行のことについて殆ど分かっていないし聞きわける力も殆どないのだが、一部の譜面を見た経験からして、単純な進行だけで曲ができているのではないことは見て取れたものである。

本来、こうしたことに言及するのが、クラシック音楽とポップス系音楽の橋渡しに資することであり、双方の音楽の聴き方の幅と奥行きを深めさせてくれるものであるはずだ。
「名曲探偵アマデウス」や「N響アワー」こそ、そんな役割を果たしてくれていた。

双方ともなくなり、とくに後者がNHKのアホ編成者によって打ち切りとなった現在、「題名のない音楽会」にそうした役割を期待してもよいはずだ。

2012年4月21日 (土)

佐渡とシエナ 吹奏楽とロックのDEEPな関係

佐渡裕は、中学時代にロックにハマッたそうで、そのときによく演奏したのがディープパープルだとのこと。その関係で、ディープ・パープルをシエナ・ウィンド・オーケストラで演奏しようというもの。

私はディープ・パープル、殆ど聴いたことがない。それもそのはずで、彼らが活躍し始めた1970年代初頭というと、国内のフォークブームがあり、歌謡曲も全盛だった。尚かつ私のメインはやはりクラシックだったので、自ずと聴く機会も少なかったわけだ。

何曲か演奏された中で、唯一知っていたのはスモーク・オン・ザ・ウォーター。それもギターのリフの部分だけだった。これはよくCMなどにも使われたと記憶する。

だから、出てきたそれぞれの曲に関する批評は、差し控える。

ただ、聴きながら違和感を持った点があった。何かが違うのだ。
聴き進んでいるうちに、シエナのメンバーが体を揺すっているのだが、ゆすり方がおかしいのだ、と思った。

後打ちでなく、アタマ打ちのリズムで、体を揺すっている場合が多いのだ。多分、それは合っているはずだ。現に、デーモン小暮が歌ったとき、ちゃんと後打ちのリズムに乗った体の動きだったから。

違和感を覚えたもう1つの理由は、やはりサウンドの問題だろう。エレキギターの音が入らないと、ロックの気分がしないのである。ブラスバンドだけで、ロックの気分を出すのは難しいのではないだろうか。

また、「名曲はジャンルの壁を超える」といったコメントを佐渡が言った。確かにそうなのだが、今回鳴らされたのが「名曲」に相当するのか、甚だ疑問だ。ディープパープルのメンバーには、クラシックをちゃんと勉強した人もいるとのことだったが、それと、曲の善し悪しは別だ。

その点、ビートルズはやはり別格なのだ。来週はビートルズをシエナで演奏するという予告があったので、楽しみだ。しかし、どこまで成功するだろうか。
少なくとも今回のは、失敗企画だと考える。

また、ロックを超えたジャンル・・・と言うと、ビートルズの後期の曲もさることながら、私ならピンク・フロイドの初期盤を思い起こす。下に初期の代表作を2枚挙げておくが、この中の「炎-あなたがここにいてほしい(ウィッシュ・ユー・アー・ヒア)」というアルバムの最初の曲には、初めて聴いたとき、とにかく衝撃を受けたものだ。

2012年4月19日 (木)

名曲探偵アマデウス 2012年2月29日 モルダウ

生れ育った寒村を振興させるため、テーマパークの建設を計画する、建築会社の社長がクライアント。
村の殆ど全員が賛成してくれたが、小学校の恩師がどうしても賛成してくれない。工事を始めようとすると、決まってピアノで、ある音楽を鳴らす。「この曲を聴いて、よく考えなさい」と言う。この曲にどんな秘密があるのか教えて欲しい、という相談。

その曲が、「モルダウ」というわけである。
曲の解説と、並行して進む「謎説き?」の推移は省略。
次のような点が説明された。

  • 始まりのハープの音は、モルダウの川の源流の1滴を表わす。ヴァイオリンのピツィカートは、水のはねる音。フルート、次いでクラリネットで2つの源流を表わす。
    (ここまで、N響のメンバーにより実演)
  • それらが1つになって出てくる主題は、ホ短調の音階を上下するだけだが、クレッシェンド(cresc. )で上昇し、ディミュネンド(dim. )で下降する。一気に上昇し、ゆっくり下がることにより、哀愁感が出る。音階と音量の曲線と、心理的な曲線が一致する。
  • この主題は、日本でも中学校や高校の音楽の教材にもなり、合唱曲として親しまれている。
  • 元は、チェコの古い民謡。
    (「コチカレゼディーロウ」という曲だそうで、チェコの人が歌ってくれた。本当にそっくりだった)
    それを主題とすることにより、チェコ文化への誇りと、勇気を持つように伝えたかったのだろう。
  • 他に何点か、流れとともに変って行く場面についての説明があった。
  • 最後の処でホ長調になり、テンポも速くなる。
    苦悩の歴史から、勝利=独立へ、という構成。
  • チェコの民族主義を表わす曲だが、実際にチェコが真の意味で独立を果たしたのは、「モルダウ」の作曲から約100年を経過した、1989年のことだった。

結局、恩師である音楽の先生のメッセージは、「失ってしまった村の誇りを取り戻し、自立せよ」というメッセージだと推察され、それは即ち、リゾート施設などを作るのではなく、村に元々ある「水との暮し」を取り戻せということなのだろう、ということから、村に古くからある「カッパ伝説」をベースとしたものに変更する、ということになり、解決。
後日、「カッパリゾートランドの建設が、順調に進んでいる」という礼状が届く。但し、ホンモノのカッパが中々出てこないので、「当面これで乗り切ります」と添付したポスターの中には、クライアントがカッパのコスプレをした写真が・・・というオチ。

さて、幾つか私の考えを書いておく。

  • フルートとクラリネットが2つの源流を表わす、というのはスメタナが自分でスコアに書きこんだ説明にも書いてあり、その通りだと思う。しかし、最初のハープの音が「源流の1滴」だというのは、深読みしすぎだと思う。
  • ヴゥイオリンのピツィカートが水のはねる音、というのも、そうとしか聞こえないので同意する。
    スメタナはここで、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンに分けて書いている。
    ここは留意すべきことで、作曲の意図に一層近づけるには、2つのヴァイオリン・パートを左右に分けて配置するのが正しい。これについては、「題名のない音楽館」内の「演奏例に関する補足」に「音源(演奏例)におけるオーケストラの配置」という項目に記した。

番組内の演奏例は、抜粋だった。
ここでは、DTMで作成した、冒頭からメイン主題の登場までを入れておく。ヴァイオリンのピツィカートが左右に分かれて聞こえることによって、効果を高めているのがお分かり頂けるはずだ。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/smetana/moldau_opening.mp3

さて、あと1点。
この主題が「教科書にも載っていて」「合唱曲としても親しまれている」というので、改めて教科書に関するページを中心に色々と調べてみた。結論として、載っているのは確かである。

しかし、ついでにその、合唱としての演奏例を幾つか聴いたのだが、これが余りにも下らないので呆れてしまった

  • まず、歌詞がダサい。古くさい。
  • 原曲の、2つの源流が次第に勢いを増し、大きな流れに・・・という部分の殆どが省略されている。
    この導入部で、気分の高揚がもたらされ、大きな流れとなってそれが最高潮に達するのに、そこを省略すると、曲の価値が殆どなくなってしまう。
  • 歌詞をつけた主題部の伴奏が、原曲と違いすぎる。簡単にしすぎている。
    ここは、主題の背後に、木管から弦楽器に移って、同じ川の流れがずっと続いているのである。その、流れの音型の上にあのメロディーが載るので、曲の価値が高まるのである。

これ、やっぱり歌詞をつけて合唱曲としてしまったこと自体、間違いなのではないか。こんな歌詞など付けなくても、原曲を聴かせれば十分ではないのか。
全曲通して聴いても、比較的分かりやすい曲である。
最初の主題からして、十分、心に響くものがあることを感じるはずだ。それでいて奥行きもある。

ウェブを色々と見ていると、合唱の練習が厳しかったのでこの曲が嫌いになった、とか、元々合唱曲だと思っていたなどの記載を随分見受けた。これ、合唱曲として接するようにしていることの弊害以外の何物でもない。

さて、私のオススメ盤だが、フルトヴェングラー指揮 ウィーン・フィルの演奏をまず聴いてみて欲しい。これは文句なしに「凄い」としか言いようのない演奏だ。ここで鳴っている音は、もはや「川」という概念を遙かに超えた、巨大な空間を思わせるものだ。
あとはカラヤンのものあたりだろうが、できればウィーン・フィルを振った盤を。
何れも新品は入手できないかも知れない。
他にも多数出ているし私も何種類か持っているが、フルトヴェングラーを聴いてしまうと、どれも物足りなくなってしまうのも事実だ。

尚、クーベリック指揮チェコフィルが名演とされたりしているが、私には全く理解できない。ベルリンの壁が崩壊し、クーベリックがチェコフィルに復帰して云々の背景は尊敬するが、それと音楽は別だということだ。彼の演奏を高く評価する人は、彼の持っている「歴史を背負った人」ということを通じて聴くことにより、耳が曇って(変な表現だが)しまっているとしか思えないのである。

さて、ここまで続けてきた「名曲探偵アマデウス」ないしその「セレクション」に関する記事だが、「あと2曲」という段階になって「熱情ソナタ」を書くこととなり、計3曲となり、2曲分書き終わったのでいよいよ残り1曲となった。
記事のネタとして大きくなり過ぎる可能性があり、どうするか迷っている処である。

2012年4月17日 (火)

名曲探偵アマデウス 2012年3月7日 熱情ソナタ 補足

これに関する記事は2012年4月15日にアップしているが、関連して4点ばかり補足しておきたい。

1.第2楽章の終りに使われた「属九の和音」について

どういうわけか、クラシック畑で使う用語とジャズやポップスで使う用語は、同じ意味を表わすのに異なる用語を使うことが多い。
和音の名称も然りだ。
「属九」の和音だが、この部分の和音の構成を見ると、コードネームで「C-9」となる。
ヘ短調の主和音はFm。属和音は(Fの5度上の音を基音とするから)C。その、より主和音に「解決」しやすい形は「属七」で、コードネームでC7。その上に3度高い音を積むと「属九」となる。コードネームでC9。
但し、この曲で使われているのは9度に当たる音が半音低いので「C-9」ということになる。この場合「属七短九の和音」とも言うようだ。第3楽章は、和音の構成音が1つ減るが、響きは同じである。

それにしても、ジャズ・ポピュラー畑でも、かなり複雑な和音づけをしたものでないと使わないはずのナインス・コード。ベートーヴェンが既に使っていたわけで、やはり凄いものだ。
尚、本件については、少し自信がなかったこともあり、次の参考書で確認した。

2.「動機労作」という用語について

浅学にして、こんな用語は知らなかった。少なくとも上記の辞典にはなかった。
音楽を専門に勉強している人は何とも思わないのかも知れないが、私にはどうにも違和感のある用語だった。

こうなれば原語にあたるしかないと思い、調べると thematische Arbeit だそうだ。thematischeは英語の「テーマの」であり、「主題の」としか訳せない。「動機」だと別の言葉になる。
Arbeit は日本語にもなっている「アルバイト」で、「仕事」である。結局、直訳では何ともならないと考え、意味かの訳を試みることとして

thematische は「動機の」で仕方ないだろう。Arbeit も「労作」というと「苦労した」という余計な意味がつけ加わるので、いっそ「技法」とか「手法」とした方が・・・と考え、「動機固執技法」とか、「動機主体技法」の方が、意味が通るのでは・・・あ、却って分かり辛いか。

話は少し脱線するが、よく使われてきているが、同様に、私が以前から違和感を覚えて仕方のない用語がある。「循環形式」である。
当初私は、これは「誤訳」ではないかと思っていた。だって、前の楽章の主題や動機が戻ってくるという形式なのだから。「回帰形式」とでも言う方が実態に即しているし、「循環形式」では意味が通じない。しかし、原語をあたると「サイクリック」という言葉を含んだ用語であって、「循環」と訳すしか仕方のないことが分かった。

3.ピアノソナタ第23番「熱情」と、交響曲第5番「運命」の作曲順など

ソナタの方は、作曲年が1804年~1805年。作品番号57。出版年について、下記の辞典には記載なし。
交響曲は、作曲1807年~1808年。出版年1808年。作品番号67。
ビアノソナタの次の作品(ピアノソナタ第24番)の作曲は1809年だから、第23番から確かに4年空いているし、作風も変化している。

一見すると、ピアノソナタで使った動機を、交響曲で大々的に使った(使い回しした)と見えるが(番組内でもそんなことに言及していたような記憶あり)、多分違うと私は思う。

ベートーヴェンは何曲も同時並行して作曲していたという話があり、殆ど同時にあの動機がアタマに浮かび、使い方を変えることによって全く異なる効果が挙がることに気付き、先にピアノソナタを完成させた、ということなのではないだろうか。

「熱情」も「運命」もベートーヴェン自身が付けた愛称ではない。しかし、残された作品群を前にして我々は、ピアノソナタに出てくる動機を「運命の動機」と呼んだりするわけである。

分かりやすくはあるが、ベートーヴェンとしては本意でなかったかも知れない。

4.ベートーヴェンとピアノ

当時、ピアノが格段に技術的な発展をして行く時期で、ピアノメーカーが、競ってベートーヴェンの処に自社のピアノを持ち込んだという話がある。多分、無償で提供したのであろう。
そして、この曲を作曲したときのエラール社のピアノは、高音域が拡大し、それまでのピアノより遙かにダイナミックな音が出せるようになった

作曲しながら・・・やや深刻な感じもする曲想ではあるが・・・ベートーヴェンは凄く嬉しかったのではないだろうか。

そして、最後のコーダの部分で、そのピアノの最高音を使うことにしたとき、「してやったり」とほくそ笑んだかも知れない。それは、エラール社に対するサービス精神もあったと思う。
エラール社だって、自社のピアノを使ってベートーヴェン氏がこんな素晴しい曲を作ってくれた、というのは恰好の販促になるからである。

また話が脱線するが、ベートーヴェン以降のビアノ作品を、当時の音を再現したいためとか称して、当時のものに近い楽器で・・・ピアノフォルテなどというものも含めて・・・演奏するのは、私は間違いだと思っている。

現在のピアノでこんな表現までできている、ということをもしベートーヴェンが知ったら、大いに喜ぶだろうし、「もっと生きていたかった」と悔しがるかも知れない。とにかく新しもの好きで、とくにピアノにはうるさかったはずの人なのだから。

2012年4月15日 (日)

名曲探偵アマデウス 2012年3月7日 熱情ソナタ

「名曲探偵セレクション」として放送されたもので、2010年の初回放送時、録画していた。
当時は、この番組について逐一ブログに書いてはいなかったし、セレクションとして今回放送された時も、以前録画済みだからということでメモも取っていなかったので記事化するのは、いったん断念していた。

しかし、2012年3月24日、小林愛実のピアノリサイタルを聴きに行き、彼女の演奏が素晴しく、またそのことによって曲の凄さを再認識することにもなったので(3月27日付の記事)、改めて録画によって番組を見直し、メモを取ってこの記事にすることとしたのである。

クライアントは脱サラして花火職人になった人。ウィーンの花火大会に招待された。その大会では、ベートーヴェンの曲をイメージした作品であることが必須条件となっている。彼に与えられた課題曲は「熱情ソナタ」。全く曲を知らないので、探偵にガイドされながら、PCの花火シミュレーションソフトでチョイチョイと作って見せるが・・・。

事件?の謎?解決に至るプロセスと、並行して進められた、曲の解説・分析の推移については省略する。
主として次のような点が説明された。

  • 第1楽章。第1主題、第2主題、第3主題 何れもヘ短調の主和音をバラけて分散和音にしたもの。これにより、曲全体に統一感をもたらす。
  • 限られたシンプルな材料を分裂させたり結合させたりして大きく発展させて行く。この手法を「動機労作」と言う。「動機労作」の、傑作中の傑作。
  • 第1楽章では、交響曲第5番でお馴染みの「運命の動機」も登場。交響曲がいきなり ff で出るのに対し、 pp で、このソナタでは「異物」として挿入されたもの。不穏な空気が漂い、緊張を高め、遂に爆発する。
  • 当時最新だった、エラール社のピアノで作曲された。高音の方に半オクターブ分(鍵盤7鍵分)加わったことにより、響板(きょうばん)が大きくなり、結果、音量も増大。pp から ff まで幅広い音量を出すことができるようになり、(千住明 曰く)オーケストラ的な発想ができる楽器となった。
  • 結果、激しい、感情をぶつけるようなソナタが誕生した。
  • 第2楽章の最後にの2音にはフェルマータがついている。この和音は「属九の和音」で、当時許容されるギリギリの不協和音。聴衆にショックを与え、緊張感を一気に高め、アタッカ(楽章の間を、続けて=休みなしで演奏すること)で、第3楽章に突入。
  • 「属九」の和音の響きが残ったまま、疾風怒濤のような楽章となる。
  • 自筆譜が残っているが、水に濡れた跡がある。一旦完成したあと、改訂するため持ち歩いていたのだが、雨に遭って濡れた、というのが定説。
  • 書き直した部分はインクの色も違うので、どう改訂したかが推察できる。野本先生曰く、第3楽章の終り17小節分(出版された版)は、元々24小節あった。小節を減らし、エラールのピアノで可能となった最高音(真ん中のドの3オクターブ上のド)まで使うように改めた。原案では2オクターブ低い音までしか出していなかった。
  • この部分の改訂によって、この曲が真に名曲となった。
  • こうしたエピソードからも、この曲に対するベートーヴェンの思い入れの強さを感じさせる。この曲のあと、4年もの間、ベートーヴェンはピアノソナタを書かなかった。
  • 動機労作による作曲は頂点を極めたと彼も思い、別の方法によって頂点を目指す、という新しい道を自ら開拓して行くこととなる。

番組内で、古楽器の研究者でもあるというピアニストの小倉貴久子が、ベートーヴェンが使ったものと同時期のピアノ(但し、メーカー不詳)を使ってそれ以前のものとどのように音域が広がったのかを説明したり、野本先生が、曲の最終部の、改訂前の版(音域狭い)と出版された版(音域広い)を弾き比べしてみせてくれた。

いい演奏を聴いた余韻の中で改めて見て、解説も聴いて、なるほどこれはやはりスゴイ曲なのだと再認識させられた。

結局、クライアントの花火職人は、脱サラした当時の思いを振り返り、シミュレーションソフトでチョイチョイという作り方はやめ、ちゃんと真剣に作品づくりをすると誓って事務所をあとにする。
後日、ウィーンの大会で入賞したとの知らせが入る。

さて、例によって私のコメントを付けておく。

この曲、私はバックハウスの全集で聴いたし、後にはグルダの全集でも聴いたし、若い頃のアシュケナージも聴いた。ブレンデルはナマ演奏で聴いた。その他、色々なピアニストで聴いたと思うが、結局はアシュケナージに落ち着いたのだが、いつしか余り聴くことはなくなった。飽きてきたこともあるし、中々その後「これ」という演奏にめぐり逢わなかったせいでもある。

基本的にこの曲、若い、パワー溢れるピアニストによる演奏が適しているのではないか。この番組で演奏した清水和音は実につまらなかった。彼も若い頃はもっと違う演奏をしていたと記憶するのだが、最近は本当につまらない演奏となってしまった。それもあって、最初に放送したときに、録画はしたのに記事にしなかったのである。

処がつい先日、小林愛実の演奏に接し、やはりこのソナタは、こうでないといけない、と確信したのである。

DTMで巧く再現し切れないが、上記の解説にあった、第1楽章冒頭の部分。「運命の動機」がからみ合って遂に爆発する、というあたり。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/beethoven/appassionata_1stOpening.mp3

そして、第2楽章は、このように静かに始まるが・・・

http://tkdainashi.music.coocan.jp/beethoven/appassionata_2ndOpening.mp3

終り4小節からアタッカで第3楽章に突入する部分。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/beethoven/appassionata_2ndend_to3rdOpening.mp3

そして、終結部の、プレストに入ってから最後まで。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/beethoven/appassionata_3rd_lastCoda.mp3

何れも、若いパワーでガーッと弾く方が適していると思うのである。
で、小林愛実というわけだ。CDを入手して聴き直したが、やはりこうでなきゃ、という演奏が繰り広げられる。力を入れて演奏する部分だけではない。第2楽章冒頭のような、静かな部分に心を込めた感じも素晴しい。当面、私のリファレンスとなりそうだ。

2012年4月13日 (金)

題名のない音楽会 2012年4月8日 平原綾香 声のウラワザ

この企画、楽しみにしていた。

通常、私は、クラシック音楽(それも、とくに歌詞のついていない音楽)に歌詞(それも、とくに日本語)を付けて歌うという行いは、全く評価しない。しかし、平原綾香だけは別である。大ヒットとなったデビュー作「Jupiter」にしても、音楽の内容とは全く関係のない歌詞がついているにも関わらず、強い意味の歌詞と、何かを訴えかけるような歌い方によって参ってしまい、以後、注目する歌手の1人としている。

とくに、この「Jupiter」は、ホルスト作曲の原曲「木星」、ひいては「木星」を含む「組曲『惑星』」そのものをグッと近い存在にした功績も大きいと思っている。「スター・ウォーズ」以前、さらにはこの「Jupiter」以前で、「惑星」という曲に対する一般の親近感がどれだけ大きく変ったことか。(これについては、私の「題名のない音楽館」内の「惑星」のページをご参照)

今回の企画は、余り公開されてこなかった彼女の「ウラワザ」を紹介しようというものである。

そのウラワザとは、①ボイスパーカッション ②あーや語 というもの。

①については声でパーカッションをやるというもので格段に珍しいというものではないが、彼女の場合、歌詞とボイスパーカッションを入り混ぜ、さらに「熊ん蜂の飛行」では蜂の羽音の擬音まで再現し、それでいてちゃんとした演奏にしていたのが凄かった。というか、超絶技巧と言っていいだろう。ちなみに、エレキベース1本だけの伴奏によってである。

同じくエレキベース1本だけの伴奏で「Jupiter」の一部、そして「ナイト・イン・チュニジア」も。
後者は、サックスを大学で専攻していた彼女が、卒業試験で吹いた曲だそうで、思い入れの深い1曲なのだとか。これも、サックスではなく声だから歌詞も入れながらで、名演。

②は、スキャットの部分について、通常のスキャットではなく、歌詞のように聞こえなくもない声で音楽の隙間を埋めるもの・・・と私は解した。「あーや」というのは彼女の愛称だ。

バックがピアノトリオの編成に変り、「サム・ワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー」、そして「ノット・ア・ラブ・ソング」を演奏。
あーや語スキャット、ボイスパースッション、日本語歌詞、英語歌詞をゴチャゴチャにして、高い音域から低めの音域に至までの彼女の声の幅広さと奥行き感。ひたすら感心するだけであった。

そして、これで最後・・・となったとき、「たったこれだけで終り?」と思った。物足りない思いがした。この番組、中々そんな企画は他にないことである。

2012年4月11日 (水)

京都市交響楽団 大阪特別演奏会 2012年4月8日

京都市交響楽団を聴くのは、実に40余年ぶりのことである。最初に聴いたのは、京都の大学に通っていた頃のことだと記憶する。曲目も指揮者も忘れたが、弦のアンサンブルが悪く、二度と聴く気がしなかったことだけ覚えている。

当時既に海外の名だたるオケが来日していて、その幾つかは聴いていたし、大フィルもまあまあ聴いていた。テレビではN響の演奏会もあった。そして、まだレコードの時代だったが、レコードではそれこそベルリン・フィルだとかウィーン・フィルをはじめとする超一流の音に、それなりに(数は少なかったので「それなりに」)親しんでいた。
それらの、どれとも比べるべくもなく、とにかくダメなオケだという印象だった。そもそも、国内のオケの水準というものが、現在とは比較にならないほど、レベルの低いものだった。

それが、大友直人の指揮の頃だったか、広上淳一が常任指揮者になってからだったか、「オーケストラの森」だったかにより、最近結構いい演奏をするようになったなあと感じ、もう一度ちゃんと聴いておきたいと思うようになっていた。

広上淳一の指揮は、このブログのどこかに書いた記憶があるのだが、プロコフィエフの7番の最終部を当初のピアニシモでなく改訂(改悪!)後の、コーダを付け加えた版でやったという1点で私の評価はキッチリとは定めるに至っていないのだが、マーラーの「大地の歌」などは素晴しい演奏をしていたし、概(おおむ)ねは、評価していいと思っている。

その広上が、手兵を引き連れてザ・シンフォニーホールに来る。で、曲目に「シェエラザード」が含まれているというので急遽チケットを入手し聴きに行ったのである。(私は奈良在住だが、京都より大阪の方が距離的に近いので)

ドヴォルザークの「スラブ舞曲第1番」で始まり、次いでドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲(独奏=パヴェル・シュポルツル)、そしてリムスキー・コルサコフの「シェエラザード」という順。
協奏曲の後に「ユモレスク」の協奏曲形式編曲版(原曲はピアノ独奏)、パガニーニの「奇想曲」、バッハの無伴奏パルティータから「ガヴォット」と3曲ものアンコールがあり、「シェエラザード」の後にも1曲のアンコールがあり(曲目分からず)、大いに盛り上がった演奏会だった。

京響の、40余年前に感じた「弦の汚さ」が、現在どれだけ改善され進歩しているのかは、残念ながら限りなくバックステージに近い2回席だったので・・・つまり、オケに向き合う席でなく指揮者に向き合う席だたので・・・私からは弦が遠い位置となるため、確認できなかった。しかし、シェエラザードを担当したコンマスのレベルからしても、往時と比べて格段の進歩を遂げたことは、容易に推察できた。

そんな席だったので、金管楽器と打楽器の音量の凄まじさには半ば閉口したが、当然ながら、広上の指揮ぶりや表情が手に取るように分かる、というメリットもあった。
テレビで放送されていたときも然りだが、力の入れ処は大きなアクションで指示を飛ばす一方、手を抜いて構わないと判断したのであろうという箇所はオケに勝手にやらせる、という手法。力を入れる処では意気込みの声もハッキリ聞こえた。指揮棒は3曲とも手にしなかった。

ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲は余り聴いていない。また、チェロ協奏曲ほどには有名でもないはずだ。聴きながら「この差はなぜ出来たのか」と考えていると、やはり深さとか奥行き感の問題なのだろうと思うに至った。ドヴォルザークだから懐かしく美しいメロディーには事欠かないのだが、「最高の傑作」と呼ぶには何かが足りないのである。ヴァイオリン協奏曲の中にあっても、もっともっとヴァイオリンという楽器の特性を活かした名曲はあるわけだし。

アンコールの「ユモレスク」は、実に良かった。こんな協奏曲形式でやるのは珍しくないだろうか。しかし、その形式も相俟って「こんないい曲だったのか」と再認識させられる演奏だったし、演奏形式だった。

さて、「シェエラザード」である。
近代管弦楽法の祖と言うべきリムスキー・コルサコフの曲は、一度はナマで聴いておくべきものだと思っていたので、それがようやく達成されたのである。
この曲、聴けば聴くほど、実によくできた曲だと思うようになってきている。かなり好きになってきた曲でもある。

第一、曲の話から少し逸(そ)れるが、アラビアンナイトの語り手である、このシェエラザードという女性、話を聞き続ける残虐無比(だった)王様でなくても、惚れてしまうのではないか。実に知的であり聡明であり、かつカワイイ女性というイメージになる。だからこそ、リムスキー・コルサコフも、独奏ヴァイオリンに、あれほど魅惑的なメロディーを持たせたのであるはずだ。
尚、私のこんなイメージを確定したのは、かなり前にテレビでやっていた、イギリスだったかの映画作品である。中々DVDで見つからないのでここにも挙げられないのだが、その主役が実に上記のイメージにピッタリだったのである。

さて、こうした曲となると私はどうしてもデュトアの演奏にトドメを差すと思っている。こうした曲を振らせると、まず期待を裏切られることはない。
あと、当日のプログラムとは異なるが、広上-京響による「名曲シリーズというCDが発売されている。比較的安価だし、手許に置いてもよさそうだ。

蛇足だが、題名のない音楽会の2011年7月3日の回で「ご当地オーケストラ」というのをやったことがある。ブログは書いていないしメモも残っていないのだが、また、京響は出演していなかったのだが、佐渡が「ご当地オーケストラ」の存在意義について、

「僕にとって一番身近でいつでも聴きに行けたのが京響だったし、憧れでもあった。N響もベルリンフィルも、ウィーン・フィルも勿論聴いていたが、レコードやテレビの中の世界だった。それよりも、身近にあった京響が、僕の大切な存在だった。だから、それぞれの「ご当地オーケストラ」も、地元の人たちの身近な存在であり続けて欲しい」

と言っていた(これだけは、メモが残っていた)。
そのとき、「エッ?京響が彼のベース?!」と、半ば呆れもしたのだが、それはまだ40余年の歳月を経ても尚、最初に聴いたときの芳しくない演奏の記憶が残っていたからでもある。
彼の年齢からして、大友や広上が常任になるようも以前のことのはずで、どんなレベルの演奏だちたのかは想像もできないが、それでもナマで聴く機会を増やすということだけでも、地元に根付いたオーケストラというものは、大きな存在意義がある。

会場では、どういうわけか中高生らしい観客が結構目立ち、休憩などに「ああ、もっともっとオーケストラ、たくさん聴きに来よう」などと、臨席の友人と思われる人と話をしているのを耳にした。

こういう人たちが、クラシックファンとして根付いて行くのであるはずだ。

N響だって、若い人たちを主なターゲツトにしているコンサートを何度もやって、多くの若い聴衆を集めてきている。そんなこと、NHKそのものだって知っているはずじゃないか。それを知っていて、どうして「N響アワー廃止」などという暴挙・愚挙をやらかしてしまったのか。

さらに、大阪にとっての「ご当地オーケストラ」は、何と言っても大フィルだ。私は阪神間に住んでいたが、国内のオケを聴きに行くのは殆ど大フィルだった。
その大フィルを存亡の危機に立たせるという、文化音痴の市長には、直す薬もない、という処だ。

ああ、またハラが立ってきた。

さて、「題名のない音楽会」の、2011年放送分の落ち穂拾い。上記に活かすことにより、これが最後となった。あとは書いたり書かなかったりしているが、当時はまだ全ての回について記事にすると決めていたわけでもないので、これをもって「落ち穂拾い完了」とすることとした。

2012年4月10日 (火)

らららクラシック 2012年4月8日 モーツァルト

1回目が殆ど番宣状態だった(そうである)こともあり、また他に見たいと思える番組が余りにもなかったこともあって、仕方なく「ららら」にチャンネルを合せることと相成った。テーマがモーツァルトだったのも、見てやることとした動機の1つだった。

結論を言うと、想像していたのと同じ、どうしようもないものだった。もう次こそ、見ないことにするだろう。要は、何がしたいのか、どんな層をターゲットとしているのか、サッパリ分からないのである。

「モーツァルトの『神童』伝説は本当か、奥さんのコンスタンツェは本当に悪妻だったのか、どんな曲でも殆どわき出るがごとく書くことができ、「直し」を入れることがなかったというのは本当か、などのテーマに沿って、幾つかの曲をかけながらゲストの茂木大輔とMCの2人が語り合い、時には美濃さんがピアノで要所を鳴らして見せるという内容。

これって、「題名のない音楽会」でやるようなテーマだ。本当は「名曲探偵アマデウス」でやるような・・・と書きたい処なのだが、それにしては曲の分析が、なっちゃいないのである。
新しい発見や、教わることは皆無だった。

「題名のない音楽会」でこんなテーマを採り上げたとしても、恐らく私の評は厳しい内容となったはずだ。第一、テーマの建て方が間違っていると考える。

映画「アマデウス」の影響もあって、モーツァルトを聖人君子扱いしていた風潮は、既に過去のものとなっているはずだ。映画の内容はフィクションの部分が殆どだが、聖人君子扱いしない、という点だけを取っても、その功績は大きいと言える。実際に、「聖人君子扱いしない」という向き合い方をすることによって、見えてきたものが多いからである。

でないと、「聖人君子扱い」していた歴代の多くの批評家が面食らって色々複雑怪奇な「解釈」を加えてきた幾つかのオペラを、音楽の素晴らしさだけ味わっていい、ということにはならなかったのではないか。
友人同士がそれぞれの婚約者をたぶらかして落としてしまう、という「コシ・ファン・トォッテ(女はみんなこうしたもの)」が最も典型的な例だし、「ドン・ジョバンニ」もそうだろう。
「魔笛」のパパゲーノの俗物性を批判してきた人々も然りである。
下の挙げた「魔笛」はショルティ指揮ウィーン・フィルの演奏だが、私の特に好きな曲は「パ、パ、パ・・・」で(ケイタイの着メロとして永く使っていたほどだ)、こんな音楽、難しいことをこねくり回さずとも、ただひたすらにその美しさに浸ったらいいだけだ。視聴できるから一聴されたら、私の書いていることに同意頂けると思う。

それと、N響アワーの廃止に対して問い合せ兼クレームのメールを入れたのに対し、「今後もN響の演奏が中心になる」と回答して寄越したのだが、曲の一部をぶった切って鳴らすのが「N響の演奏が中心」ですか!?それはないでしょうに。
また、モーツァルトの41番の第4楽章だけをかけて、説明らしい説明もなくいきなり「フーガのような楽章」だと言って、分かる人がどれだけいるのだ。説明なしに分かるのはある程度以上は聴き進んできた人であり、初心者であれば、まず分からないはずだ。

この点、「名曲探偵アマデウス」でこの曲を採り上げた回では、初心者でも分かり、聴き進んだ人にも新しい発見が得られる内容だった(2012年1月23日付けの記事)。その記事には5つものmp3ファイルを付けているが、私が「名曲探偵」に触発されて、制作することにしたのだ。
その気にさせた番組の内容としては「名曲探偵」が最も多いが、「題名のない音楽会」でも時々あったし、「N響アワー」でもかなりあった。

この「ららら」の内容で、mp3ファイルを作成したいという意欲をかき立てられるような、触発される内容に触れる機会は、どう想像を逞(たくま)しくしても、まず訪れることはあるまい。何も刺激されることはなさそうだし、何も新しい発見をさせてくれることもなさそうだ。

こんな無内容な番組を見るくらいなら、別の時間の使い方をしたい。いよいよ今度こそ見るのをやめたい。

2012年4月 9日 (月)

題名のない音楽会 2011年9月18日 調性の話とフランクの交響曲

日付は間違いではありません。2011年放送分の落ち穂拾いです。

この日の放送は、名曲百選のシリーズの一環としてフランク作曲「交響曲ニ短調」を採り上げ、作曲家の吉松隆をゲストに迎え、「調性の話と、『転調のオタク』としてのフランク」を語ってもらうという企画だった。

吉松隆は、西村朗とともに、私が「クラシック音楽の解説をさせても一流」と認める作曲家である。もしNHKがN響アワーの廃止などという暴挙・愚挙に踏み切ることがなく、西村が多忙や体調を理由に退くことがあったら、吉松隆があとを継いでもいいと思っていた。
作品は、僅かしか聴いていないが、西村より遙かに分かりやすい作風と見ている。
この2人は、共著もあるし、単独でもそれぞれ何冊かの解説本を出していて、私も何冊か読んでいる。

中でもピカイチだったのは、2010年11月10日付けの「ミニ書評」でも採り上げたが、「運命はなぜハ短調で扉を叩くのか」であった。調性の問題に、初めてナットクできる答えを示してくれた気がしたのである。
この本の初版から1年近く経って、ようやく「題名のない音楽会」も気がついたのか、というのが、今回見始めたときに抱いた感想である。

しかし、結論を先に言うが、これは2つのテーマを無理矢理1回の放送でやろうとしてどっちつかずになってしまった、「欲張り過ぎによる失敗」だったと言える。

それぞれの企画自体は、中々良かったりである。
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」は本来ト長調(♯が1つ)の曲だが、ヘ長調(♭が1つ)で鳴らしてみせて何が違うのかを考えさせ、「弦楽器は♯系の曲の方が鳴りやすい。なぜなら・・・」という処から、楽器それぞれに鳴りやすい調性があって・・・と話を持っていった。

その話はもっと広がるはずのもので、それこそ上記の本に書かれた知見や、その後さらに加わったかも知れない情報を吉松に披瀝してもらうだけで、1回分の番組が成立したはず。

処がフランクの交響曲ニ短調の解説に突如入り、「第1楽章がニ短調という悪魔的な調で始まり、第3楽章(終楽章)は、ニ長調という神的な音で始まる」などと言う話なってしまった。話の内容が、突如薄っぺらなものとなってしまったと言っていい。
長調と短調の対比は、そう単純なものではない。また、「悪魔的」とか「神的」と感じるのは個人の勝手だが、そんな決めつけ言葉ではなく、違う説明の仕方があるはずだ。

ただ、吉松が「この曲は転調がやたらに多い。フランクは『転調オタク』」と言ったのには、ナットクできるものがあった。この曲をそんなふうに聴いたことはなかったからである。鍵盤楽器奏者にありがちな作風だそうだ。フランクは、作曲家として認められるよりも、教会のオルガン奏者としての方が、早くから名が知られていたわけだし。

また佐渡曰く、「楽器の音色で色彩的に作曲するのではなく、転調によって色彩感覚を出した作曲家」。これもナルホドということだ。

だから、この辺りの話をもっと膨らませたら、この曲の分析・解説だけで十分1回分の放送として成り立つわけで、調性の話と同じ回にすることはなく、それぞれもっと詳しいことが紹介できたはず。

惜しい。

さて、実際に私も改めてスコアを眺め、DTM化してみた。
曲の冒頭、序奏から第1主題の提示までが、こんな感じ。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/franck/franck_symphonie_1stOpening.mp3

どうだろうか。「悪魔的」などと言うより、私はもっと不気味で恐ろしげな感じを受ける。昔、この曲を聴き始めた頃、この部分がイヤで、すぐに親しむことはできなかった。
あとで知ったし読んだのだが・・・小林秀雄が友人の文学者の話として書いていたのだが・・・この曲を聴いているうちに気分が悪くなり、吐いてしまったそうだ。確か、この本にあったと記憶する(間違いの節はご容赦!)

今回の放送にある後知恵になるが、転調が激しいことにより、どうにも落ち着かなくなったのではないだろうか。半音ずつ音が変化し、緊張が高まって行き、それでも中々「爆発」しない。

しかし、それに慣れてくると、そうした緊張感こそ、この曲の価値を高めているとも思えるようになる。上掲のmp3ファイルの後半、第1主題が力強く出ることにより、何とか「爆発らしき」処に行くのだが、ずぐにまた冒頭のような感じになってしまうのだ。

そして、どんより曇った感じの音楽が続く中、ようやく一筋の光が差し、大きく晴れ渡った感じの部分がやってくる。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/franck/franck_symphonie_1stMvt_bars_from125.mp3

付言すると、このテーマを「信仰の動機」と名付けて解説する人もいるのだが、私はそうした説明の仕方には与(くみ)しない。

しかしそれも、上掲のファイルの通り、すぐに力をなくし、またまた沈潜していくことになる。

番組内での演奏は、各楽章の抜粋で、一番長く演奏したのは第3楽章だった。
しかし、演奏の出来は良くない。少しテンポが早めで、音そのものにも重量感がない。私は、こんなフランクには価値を認めない。
兵庫芸術文化センター管弦楽団(以下、PAC)を佐渡が振った演奏で、まあPACの音というのはこの程度というのも知っているが、佐渡自身、こうした重量感の認められる曲には、まだ余り適していないのかも、と思った。

そして、私なら第2楽章をもっと聴かせる。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/franck/franck_symphonie_2ndMvtOpening.mp3

弦のピツィカートとハープのサウンドを背景に奏でられる、イングリッシュホルンの何とも鄙(ひな)びたメロディー。同じ楽器を使っていることもあり、また♭の数がどちらも5個ということもあるせいか、どうしても、ドヴォルザークの「新世界から」の第2楽章と共通する雰囲気を感じる。
(「新世界から」の第2楽章は変ニ長調。フランクのこの部分は変ロ短調。何れも♭5個の調性)

で、私のオススメはミュンシュの指揮。併せて、一頃名盤ないし定番とされていたことのある、カラヤン指揮パリ管弦楽団のものも挙げておく。ただ、私もカラヤンで長いこと聴いてきたのだが、いま1つ緊張感に欠けると思うようになり、ミュンシュ盤に落ち着いたのだ。

2012年4月 8日 (日)

題名のない音楽会 2011年9月25日 「第九」のジンクスを越えたか!?

日付は間違いではありません。2011年放送分の落ち穂拾いです。

掲題のテーマで、「マーラーのアダージオの秘密」ということで、マーラー9番の終楽章のアダージオが演奏された。

その前に、「マーラーの交響曲は、バーンスタインが紹介し人気が出た」とか、「今や不動の人気」だとか言う前振りがあった。
これ、私は2点とも異議がある。だからこそ、昨年のメモを取り出して落ち穂拾いの記事にするわけだ。

まず、バーンスタインの云々である。
確かに、バーンスタインが全曲をニューヨーク・フィルを中心に全曲を録音したことによって、マーラーの交響曲の全体像が、日本でも幅広く知られることとなった。しかし、それによって「人気が出た」という認識、私は持ち合わせていない。それよりも、ワルター指揮コロンビア交響楽団による第1番「巨人」こそが、日本におけるマーラー再評価の出発点だったはずである。そして9番も。

で、「不動の人気」だが、これ、私は現在に至るまで一部の曲については「人気」かも知れないが、「不動」ではないと思う。
何よりも、私がN響アワーでマーラー生誕記念として紹介された演奏を聴く限り、ろくな演奏がなかったし、つまらない演奏が殆どだったし、にも関わらず会場で拍手が起こり「ブラボー」という声までもが聞こえるの様子から、「分かってるんかいなー」と嘆息することの方が多かった。

表面的に音を鳴らすのは、マーラーの場合執拗に速度や強弱の変化や表情記号をスコアに書き込んでいるから、さほど難しいことではない面がある。スコア通りに忠実に鳴らせば「音」にはなるし、一応サマにもなる。

しかし、深さとか陶酔させるメディーとか、ある種の病的な側面まで表現するには、スコアに記されている指示だけではダメなのである。

今回の演奏も、まず第5交響曲の第4楽章の抜粋を採り上げたのだが、佐渡だったか、指揮した金聖響だったか、「ロマンチックな曲で、母親の胎内にいるような心地よさもある」という発言をした。
「母親の胎内に・・・」は、アホかと一蹴すべき、たわいもなく的外れすぎる発言だが、それ以上に「ロマンチック」というのにひっかかる。

この楽章、確かに妻となった(または、まだ婚約中のとき)アルマに対するラブレターだという説もあるくらいだから、全く間違いだというわけではない。
しかし、マーラー自身がアルマをこう見ていたというのにもっとふさわしいのは第6交響曲 第1楽章の第2主題、或いは第7交響曲 第1楽章の第2主題である。これらの方が「マーラーは、アルマを、すごく愛していたのだ」と感じさせるのであって、(結婚したあとだが)ラブレターとしても、よりふさわしいと思う(それぞれの音は、私の「題名のない音楽館」内の「マーラー 交響曲第6番」と、「同 第7番」に収録)。

むしろ私は、この第5交響曲 第4楽章のテーマには、もっと静かで深く、そして寂しい雰囲気を感じるのである。
このテーマ、ご存じの方も多いとは思うが、私のページ「マーラー 交響曲第5番」に収録してある。このメロディーの、どこが「ロマンチック」なのか。

そして、本題の第9番である。
マーラーが、ベートーヴェンが9つしか交響曲を作曲しなかったから、「9番の交響曲を書いたら自分は死ぬ」と考えて、何とかその番号から逃げたいと思った・・・という説明があり、さらに第4楽章の開始部が、ブルックナーの第9交響曲 第3楽章の始まりと似ていることも説明された。

「9番」へのこだわりは、ベートーヴェンのあとに続いた作曲家の多くにとって大きなものだった。その中でもマーラーのこだわりは特異な形と変遷があり、現在我々が知っている姿ないし番号となったわけである。この番組を見るまでもなく私は知っていたので、先ほどのページの関連ページ「交響曲 大地の歌」に記載。

ブルックナーの「第9」第3楽章の開始部とマーラーの「第9」第4楽章の開始部の類似については、よく言われることである。音として聴かせる、という試みは私も計画していたのだが、番組で先行されてしまった。
しかし、必要だと思うので、この番組のあと、「マーラー 交響曲第9番」の2011年10月の改訂稿で付け加えた。

しかし、その改訂稿でも少しだけ触れているが、これ、たまたま音型が似てしまっただけのことではないだろうかとも思っている。これらの冒頭の音型のあとに続く音楽の雰囲気が、ブルックナーとマーラーでは全く異なるものとなっているからである。
私の場合、マーラーの、この終楽章を聴くたびに心をかき乱されずにはおれない。極めて人間的だ。しかし、ブルックナーには、人間世界を超越したような処があるのだ。

さて、番組内での第9番 第4楽章の演奏だが、金の演奏ということで殆ど何の期待もせずに聴いた。
処が、これが意外と「まし」だったのである。ゆったり目のテンポで、それなりの出来だった。

しかし、こんな音楽、朝から聴きたくはない。
皮肉なことに、この曲は名演であればあるほど、アトに引くし毒気に当てられた感じになる。暫くの間は呆然として何も手につかなくなってしまう。その意味では、金の演奏、そこまでは行かなかったので「それなり」というレベルに留まったとも言える。
しかし、それでも朝っぱらから聴く音楽ではないと思う。

上記のページにも紹介しているが、私のオススメ盤は、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルのものにトドメを指す。
バーンスタインは何度もマーラー全集を出していて、もっといいオケとやったものもあるが、まず、最初に出たこの盤を聴いてからでも遅くない。

2012年4月 7日 (土)

題名のない音楽会 2011年10月2日 未来の大器2011

将来、音楽界で注目間違いなし、として3名の小学6年生を迎えての番組。ピアノの牛田智大(ともはる)、口笛の大庭エヴェレット、ヴァイオリンの服部百音(もね)である。

牛田智大はラン・ランが評価して公開レッスンに参加したり、中村紘子が推薦したり、色々なコンクールに出たりしている由。
演奏したのは、ショパンのピアノ協奏曲第2番の第2楽章抜粋。

これ、中々のものだった。ショパンの恋愛→失恋に関係しているとされるこの曲、牛田曰く、「自分はまだ恋をしたことがないので、福島在住のおじいちゃん、おばあちゃんに思いを込めて弾く」
そんなことを言って演奏したのだが、例え恋をしていなくても、それに関係した曲であることを十分感じさせる、優しい演奏だった。
欲を言うと、音の粒立ちが少し甘いように思う。まだ指の力が十分ではないのかも知れない。

・・・とメモに書いていたのだが、その後CDデビューを果たし、本当に「音楽界で注目」される存在となってしまった。
この稿、2011年の番組の落ち穂拾いをやっているのだが、落ち穂拾いが片付かないうちに、2012年4月1日に「その後、CDデビューした」として紹介を兼ね、再登場したのである。これは2012年4月5日付けの記事に書いた。

大庭は、口笛で3オクターブ出せるテクニックの持ち主だということで、クシコス・ポストと、ロックアラウンド・ザ・クロックを演奏。
まあ3オクターブのテクニックには感心したが、それ以上のものはない。とくに、2曲めはタップダンスをやりながらの演奏だったが、このタップが実にヘタなのだ。まだ小学6年生という、体の固まらないうちに、無理をさせてはいけない。

服部百音。
名前からして音楽家になれ!と親から強制されているような名前で、ある意味で気の毒だと思う。しかし、キャラは大変愉快な人で、佐渡もそのことに言及していた。
演奏はカルメン・ファンタジー(ビゼー作曲、ワックスマン編曲)。

色気が余りにもないのは年齢からして仕方ないことではあるが、大したことのない演奏だった。何よりも、ヴァイオリンが響かないのである。ヴァイオリンの価格のせい(まだ、余り良い=高価な ヴァイオリンは持てないのだろう)かも知れないが・・・。
佐渡が、「この大きなホールという空間に響かせる、というイメージを持って弾くといい」とアドバイスしていたのは、適切だっただろう。

結局、3名の中で「これは」と思うのは1人だけだった。
しかし、それでいい。今後も随時、こうした若い才能を紹介する企画を続けていって欲しい。何名か採り上げる中で、本当にその後注目されて行く人は少ないだろうが、元々そんなものだろう。

2012年4月 6日 (金)

題名のない音楽会 2011年10月9日 すぎやまこういち 恋のフーガからドラクエまで

タイトルの日付はミスタイプではありません。2011年に放送されたものの「落ち穂拾い」です。あと何回か残っています。

この日の番組はすごく楽しみにしていた。

知っている人も多いと思うが、ドラクエの音楽を全て作曲している他、「恋のフーガ」や「亜麻色の髪の乙女」など往年のヒット曲の作曲で知られている人である。
しかも、もともと日本テレビだったかの社員で、作曲を正式に習ったことはなく、独学でオーケストレーションまでやってのける。その才能には敬服するしかない。

ヒット曲の何曲かをメドレーにしたものと、もちろんドラクエの音楽を彼自身の指揮で演奏した。

この中でドラクエ2のエンディング曲である「この道 わが旅」は、すぎやまとして思い入れのある曲とのことで、私はドラクエの3から始めたクチなので、改めてじっくり聴くことができた。後になって1も2もプレイステーションに移植されてからプレイしたが、音楽をじっくり聴いたことはなかったからである。
中々、懐かしい感じの、いい曲だった。

作曲の独学について、番組内で紹介されていたのだが、元々音楽の勉強をしたいと思っていた由である。
そもそも学生時代にスコアを見ながら音楽を聴いていたが、ちゃんと勉強しようとして和声学の教科書を入手。それを見ると、ベートーヴェンなら確かにこう書いている、という回答ばかりで、よく理解できた。それで音楽を専門に勉強しようと思ったが、「ピアノが必須」となっていて、彼はピアノが弾けなかったので断念したのだそうだ。

「スコアをみながら聴く」という処までは私も同じなのだが、私はそこまでで留まり、彼はその先まで行き、テレビ局に勤めながらヒット曲を飛ばすこととなり、やがて作曲家として独立を果たすのだからスゴイ。

私は最近こそドラクエの新作をプレイしていないが、3から5までについては熱中した時期があった。そして、3と4の音楽をプレイ中ずっと聴かされているうちに、「これってワーグナーではないか?」と思い至り、「語り部多くしてオペラ敬遠さる?」という稿を書くに至った。
そして、これが私の「題名のない音楽館」さらには、ホームページ全体のモトとなった、最初の原稿となったのである。もちろん、その記事にもあるように、オペラというジャンルをその前後に集中して聴くキッカケともなったたのである。

だから、数には入れていないが、すぎやまこういちは、私の「音楽の先生」の1人とも言え、恩義も感じているのである。

ドラクエの3と4の音楽を収録した盤を挙げておく。3つのオーケストラを指揮して盤がそれぞれあるが、最初に出たN響盤が、ゲーム音源を併録しているのでオススメ。ゲーム音源盤は、制約の大きかった発売当時の音源で、いかに最大の効果を挙げているか、よく分かる。

ただ、新品の入手は困難かも知れない。

2012年4月 5日 (木)

題名のない音楽会 2012年4月1日 2012年ブレイク間違いなし 話題のアーティスト

「題名のない音楽会」で時々やる企画である。何組かの、番組が選んだとするアーティストを呼んで演奏させるというもので、当たり外れが・・・というより、ハズレの方が多いのだが、ときどき「ほー」と感心する人が出てくることもあり、それが楽しみでもある。

今回は、ピアニストの牛田智大(ともはる)、弦楽器4挺で洋楽(とくに、ロック)のカバーを行う「1966カルテット」、韓国のカウンターテナー チョンセフンの3組が登場。

この中で牛田智大という名前に何となく覚えがあったのだが、今回、既に2011年10月2日に、この番組に出ていたことを知り、メモをひっくり返して確認することとなった。
現在、2011年のこの番組に関する落ち穂拾いを進めているのだが、その10月2日についての記事は未了だった。
しかし、メモを読み返すと、当日何組か出た中で、この牛田智大だけを高く評価する旨の内容を認(したた)めていた。

何でも、その日の番組以降、CDデビューを果たしたそうで、それも史上最年少だそうだ。

この2012年4月1日の放送では、ショパンの「子犬のワルツ」と、プーランクの「エディット・ピアフを讃えて」が演奏された。
ショパンのワルツはブーニンをちょっと思い出させるような、やや奔放な演奏。プーランクは初めて聴く曲だったが、オシャレでいながら陰影の濃い曲で、いい曲だったと思うし、演奏も、曲に浸りきった観のある好演。これは逸材だ。

「1966カルテット」だが、私はこうした試みの殆どを、全く評価しない。クラシックの演奏ではメシが食えないということなのか。本当の実力が分からないし、今回メンバーの構成にようにロックを中心としてカバーするというのが主旨なのであれば、弦楽器だけというのはパワーが余りにも不足する。
現に、ローリングストーンズの「ウィーウィルロックユー」は、曲そのものを私がよく知らないせいもあるにせよ、サッパリ良いと思わなかった。

やっぱりなー、と思ったのだが、次にビートルズのメドレーが始まると、中々いいではないか、と感じた。
感じたのだが、これはむしろビートルズの曲が素晴しいからなのだ、と思い直した。

ロックと一口に言っても、ビートルズは別格なのだ。いや、ポップスと言うように括っても、ビートルズは別格だと考えている。また、ピートルズの曲の多くは、色々な編成での演奏に耐えられる強さがある。だから弦楽器4挺だけの演奏にも耐えられる、と考えるべきだろう。そして、そうした編成で聴けば聴くほど、ビートルズ自身による演奏を聴きたくなるのも事実である。
尚、グループ名にある「1966」は、ビートルズが来日した年にちなんで付けたそうである。

今回のあと一組は、韓国のカウンターテナー チュンセフン。カッチーニのアベ・マリアとヘンデルのオンブラ・マイ・フを女声音域で披露。
これも私は分からない。これまで耳にしてきたカウンターテナーよりも線が細い感じだったが、やはり「なぜ男がこの声で?」という違和感がついて回るのだ。
誤解されないよう付記しておくが、私はカウンターテナーの歌い手は必要だし貴重だと思っている。作曲家がカウンターテナーを指定して曲を書いたならば、それは作曲家が、それがベストだと思うイメージがあったからである。古典派まで遡れば、オペラなどで本来カウンターテナーを指定しているのに、人がいなくてソプラノなどで代用してきた歴史もある。
しかし、とくにそのように指定されていない歌をカウンターテナーで歌うという意味が、全く分からないのである。こうしたものを聴くと、これもまた却って、ちゃんと女性の歌手で聴きたくなるのだ。

というわけで、ビートルズの代表作を集めた2枚と、森麻季のアベ・マリア集を下に挙げておく。

2012年4月 4日 (水)

らららクラシック このくだらない番組のためN響アワーを廃止したのか

N響アワー、遂に廃止。
アト番組の「ららら」なんて絶対に見るものか!と思ったが、一度は見てやった上で改めて批判しようかと思い直し、4月1日の初回だけは見てみることにした。

結論から言うと、10分で見るのをやめた。それ以上見ていても、時間の無駄だ。見続けるのがアホらしくなってしまうのに、10分でも長かった。

初回のゲストは樫本大進だったのだが、N響アワーでも採り上げたことがある人だ。2011年8月21日の回に出演。ゲストとしてではなく、彼の演奏を聴きながら西村が解説を加えるという形で。
そのときのことは、このブログの2011年8月23日付けの記事に書いた通りである。西村の解説兼感想のようなことも書き留めていた。

「ららら」での扱いは、司会2人と樫本で、トークをするという類のもの。それも、加羽沢が主として質問し、樫本がそれに答えるというのが多く、石田は殆ど話を聞いているだけという印象で、存在感が薄かった。何のために石田って出てきたのか。

曲も、ホンの一部を少しずつ流すだけ。
N響アワーでも、全曲流さないときも多く不満だった。でも、西村をはじめ演奏した指揮者などの解説が、その不満を(十分とは言えないにせよ)補っていたのだ。
それに比べ、もっともっとぶった切った音楽を流し、下らないトークで時間を過ごすという構成。これ、いったい何をしたいのか。

あっ、そうか。てんしな?日々さんが書いておられるように、番宣か。または、本仮屋ユイカがやっていた「クラシックガイド」の拡大版と思えばいいのか。・・・って、いいわけないでしょうが。

改めて問いたい・・・と言ってもどうせNHKにメールしても官僚的な回答しか来ないだろうから、このページで騒ぐだけだが・・・これ、一体何をしたいのか。そして、どんな人をターゲットとしているのか。

取り扱うジャンルを拡大する旨、番組内でも言っていたが、それであればN響アワーのままで、扱うジャンルを拡大したらいいだけのこと。そもそも、例に挙がっていた弦楽四重奏などというジャンル、相当コアなファンでないと親しんで聴くことはないだろうと私は思っているのだが・・・・少なくとも私は余り聴かない・・・それは裾野の拡大ではなく、そのジャンルを余り聴いて来なかったファンの「深耕化」とでも言うべきもので、専門の知識をもった解説者の話を参考にしがら聴くべきものだ。

弦楽四重奏に限らず、他のジャンルも同じこと。ジャンルを拡大したって、全てのジャンルで適切な解説をしてくれることが必須なのであって、あの2人でそれをカバーできるとは思わない。カバーできるはずがない。

音楽も、長いからと言ってブツ切りで聴かせるものではない。聴く側がブツ切りで聴くのは自由だが、放送側でそれをやってはいけない。
こう言うとNHKは、「そうしたニーズにお応えすべく、従来から『N響コンサート』で定期演奏会などの全曲を放送していまして」とくるのだ。

そんなことは分かっている。
そうではなく、適切な、または興味深い、専門的な知見に基づいた解説をつけて、知っている曲に対する見方を変えてくれたり、知らない曲または余り親しんでこなかった曲の魅力を教えてくれたり、という番組が必要だと、こちらは言っているのである。

そこでは、初心者はこんな程度で・・・と、送り手側が妙におもねってレベルを下げる必要もない。それは、初心者というよりも、人々の聴く力というものを愚弄するだけのこと。

仮に本当に「初心者」がいたとしても、「何かよく分からない・・・」から始まり、あるとき「よく分からないが、スゴイものらしい」と感じ、少しずつ曲の良さ、凄さに気付いて行き、良いと思ったりスゴイと思ったりできる範囲が広がって行き、それぞれの曲が、その人にとってかけがえのないものとなって行く・・・そんな経験ができるようにするには、最初から「ホンモノ」を聴くべきなのだ。その「ホンモノ」へのガイドを、一級の見識を持って進めて行く、というのは、公共放送だからこそ視聴率を気にかけることもなく可能なことなのだ。

それを捨てて、こんなアホな番組をアトガマに据えるという愚挙。こんな番組のためにN響アワーを廃止してしまったのか。

何と言う暴挙をやったのか。何と言う無見識・無節操な企画を押し通してしまったのか。なぜその企画を止める者が、あの会社にいなかったのか。もし居たのだとしたら、なぜそれが力を持つに至らなかったのか。

覆水盆に還らず。
これで、確実に従来からの固定ファンを失っただろう。シャレではないが、10分見ただけで、十分推測できる。そんな程度のレベルだった。
ああ、アホらし。その10分でも、時間を返せ!と言いたいほどだ。

2012年4月 3日 (火)

題名のない音楽会 2011年10月23日 リスト生誕200年

2011年の落ち穂拾い、もう少し続きます。

この日の番組は、リスト生誕100年特集ということで、「ケタ違いの成功を収めた3つの理由」と題して行われた。
「ケタ違いの成功」とは、番組によると、ピアノの天才→宮廷楽長→聖職者 と立場が変っても何れも成功したこと、そして教育者としても多くの貢献をしたということだった。

そして3つの成功として番組で挙げていたのは

  1. 具体的な目標を持つこと
    実は大変な努力家で、パガニーニのヴァイオリン演奏を聴いたとき衝撃を受け、自分も彼のようなピアニストになりたい、自分はピアノのパガニーニになるのだと決心し、それを実現した。
  2. 良いと思ったことは貪欲に吸収した
    「交響詩」というジャンルはリストが始めたと思われているが、実は、モトはフランクが始めた形式で、それを確立したのがリストである。
    また、ピアノ協奏曲第1番は、ベルリオーズの「幻想交響曲」をピアノで編曲しているうちに生み出された。
  3. 人を大切にする
    ハンガリーで洪水があったとき、無償で演奏会を開いた。言わば、「義援金コンサート」の草分けである。
    また、指名手配者となっていたワーグナーをかくまったり、ベルリオーズがパリで活躍できるようにセッティングした。

ということである。
交響詩のモトがフランクだとは知らなかったが、「幻想交響曲」の編曲をしているうちにピアノ協奏曲が・・・というクダリは全く分からなかった。ピアノ協奏曲の一部だけ聴かせたが、幻想交響曲のどの辺りの影響があるか、ということが全く分からなかった。これを言うならば、譜面を見せるなり、演奏中にテロップで類似している部分はここ・・・みたいなことを流すなりすべきだ。この辺が、この番組のツメの甘い点だ。

また、こうして3点挙げていたが、何れもコジツケに過ぎないと考える。

さて、ピアノ協奏曲の他には、有名なピアノ曲3曲のメドレーと、ハンバリー狂詩曲第2番オーケストラ版の抜粋が演奏された。
しかし、何れも大きな不満を残すものだった。

まずピアノ3曲は、愛の夢第3番、メフィストワルツ第1番、ラ・カンパネラだったが、何れも短すぎで、全く「リストを聴いた」という満足感とはほど遠いものだった。どれか1曲でいいから、全曲演奏すべきだった。

そしてハンガリー狂詩曲。
佐渡曰く、オーケストラ版を聴いたあとでピアノ版を聴くと、凄さがハッキリ分かるとのことだったが、それならば双方を聴き比べる、というのがあって然るべきだ。どちらかの版がより長めの演奏となってもいい。
いや、私はむしろピアノ版だけでも良いと思っている。オーケストラ版は余り評価しないが、ピアノで聴くと確かにスゴイと思うようになって久しい。

で、オーケストラ版だが、指揮が金聖響。
これが実に何とも退屈な、つまらない演奏だったのである。
この指揮者の演奏がつまらない、と思っている人、本当は結構いるのではないだろうか。
娘がいつの間にかクラシックに親しみ、コンサートにも行くようになっているのだが、あるとき、金聖響の演奏会に行って、凄くつまらなかったと言っていた。そんな話、それまでには全然したことがなかったのに、である。親娘だから好みが似ている、ということではないと思う。ある程度以上の聴く耳を持っていたら、分かるはずなのだ。

何がこの演奏のつまらない処か、一点だけ言うと、とにかく音楽が一直線に過ぎるのだ。一直線にテンポを上げて行くだけの演奏なのだ。間違いではないだろうが、速くなって行きながらも、もっとその中で緩急を付けていい。いやらしい程にクドい演奏でいい。
私のイメージだと、終りの方など、ハチャメチャに近いものとなっていい。「リストのピアニズムには狂気がある」と中村紘子が言っていたことがあるが(実に正鵠を得た指摘!)、その、ある種の「狂気」が、オーケストラ編曲版でも少しは反映されていないと・・・。

さて、今回の企画全体についてである。

生誕200年ということであれば、1回で終るというのは少なすぎるのではないか。N響アワーも1回だけで終ってしまったのと軌を一にするように、こっちも1回だけとは。

で、私は、リストは何と言ってもピアノ曲だと思うので、ピアノ曲をもっと採り上げて欲しかったし、交響詩も、「前奏曲」だけでいいから、じっくり採り上げるべき曲のはずだ。
山本直純が「オーケストラがやってきた」という番組をやっていたとき、この曲を採り上げて、「実は1つだけの旋律でできている」と説明していたことを思い出す。
これ、気がつきにくいけど、そう言われてみたら、第1のテーマと第2のテーマ、確かに似ていると言えば似ているなあ、と感心したものである。

さて、扱って欲しかった曲も含め、幾つかのオススメ盤を。

「前奏曲」がバーンスタイン盤とフルトヴェングラー盤。双方とも鬼気迫る演奏と言っていいだろう。
ビアノソナタがアルゲリッチ盤とユジャ・ワン盤。甲乙つけがたいが、録音の良さではユジャ・ワン。
そして「ラ・カンパネラ」が入った小山実稚恵のアンコール曲集。ラ・カンパネラという曲の本当の凄さを知りたければ、間違ってもフジ子ヘミングなどを選んではいけない。あれは買ってはいけない。
また、ベストではなくベスト一歩手前という処だが、ピアノ版の「ハンガリー狂詩曲第2番」が入ったボレット盤である。ハンガリー狂詩曲はシフラが良いと言われた時期があったが、私は評価しない。

2012年4月 2日 (月)

題名のない音楽会 2011年10月30日 音感力選手権

2011年の番組の落ち穂拾いの続きです。

この日の放送は、「M-1グランプリ」ならぬ「耳-1グランプリ2011」ということで、作曲家や演奏者の「耳の凄さをクイズ形式で紹介し、音楽の美しさと奥深さを再認識する」という触れ込みの企画。
出場者は、大谷康子(Vn)、青島広志(作曲家)、加羽沢美濃(Pf、作曲家)、HOROSHI(Pf、作・編曲家)、金聖響(指揮者)である。金は東フィルを指揮するだけで、クイズには参加してなかったと記憶する。

曲の途中を鳴らして、曲名を当てるもの。次の3問。

  • ベートーヴェンの第5交響曲の第3楽章
  • 魔法使いの弟子
  • グロフェ作曲「ミシシッピ組曲」

グロフェの曲は知らなかったが、あと2つは分かった。処が「魔法使いの弟子」は回答者からの回答なく、ベートーヴェンも一発正解がなかった。

曲のエンディングをかけて曲名を当てる。次の2問。

  • ベートーヴェンの第9のラスト
  • ショスタコーヴィチ第5番のラスト

不覚にも私はベートーヴェンが分からなかったのだが、ショスタコーヴィチは分かった。回答者は2問とも正解したものの、ショスタコーヴィチは一発回答ではなかった。

スーパーイントロクイズ。出だしのホンの僅かな音だけで曲名を当てるもの。次の3曲。

  • モーツアルトの交響曲第41番
  • バーバーの「弦楽のためのアダージオ」
  • ベートーヴェンの第3交響曲

回答者は3問とも正解。私はベートーヴェンのみ分かった。

複数の曲を同時に鳴らして、何曲が一緒に鳴っているか、またその曲名を当てるもの。

  • 3曲同時
  • 4曲同時

前者は、2人の回答者のみ2曲正解。後者は、1人だけが2曲正解。私は双方とも2曲まで分かった。

1つのパートから次第にパートを増やして行き、その曲名を当てるもの。これは指揮者の振りだけから始まったが、ヴァイオリンが1つ加わった段階で大谷さんが正解した。
佐渡曰く、コンサートマスターは指揮者の最も間近にいて、曲の全体を見渡す立場にいるので・・・。とのこと。私は分からなかった。

ベートーヴェンの第5交響曲を鳴らし、7箇所の間違いを指摘するもの。回答者にはスコアが渡された。青島が3箇所を当てた。私が持っているのは左側のポケットサイズだが、会場で回答者に渡されたのは右側の「中型」と思われる。

私はスコアを見ずに1箇所だけ正解

トータルで最高点をマークしたのは大谷さん。

今回の放送、極めて優れた企画だった。何度も繰り返して欲しい。「作曲家や演奏者の耳の凄さを」などと言う触れ込みではあるが、自分の耳というよりも記憶が、どの程度のレベルなのかを計る尺度として参考になるのだ。上記の通り、結構いい処まで行けたのでとりあえずは満足している。
逆に、冒頭のベートーヴェンの例でも分かるように、こうした専門家でも意外と分からないことがあるものだ、と、かえって優越感を覚えた問題があったのも確かである。

思い起こせば、黛敏郎時代にもこんな企画はあり、また、ときには客席からの回答を求めたこともあった。あの当時よりは佐渡時代の現在、客席のレベルが落ちているかも知れないが、ダメだろうと決めつけずに、一度試みて欲しいと思う。

2012年4月 1日 (日)

題名のない音楽会 2011年11月20日 彼らの時代がやってくる

掲題の日付、ミスタイプではない。
ある時点から「題名のない音楽会」をはじめとする幾つかの番組はメモを取りながら聴くようにしていて、それをネタにこのブログの記事を書いているのだが、色々な事情で記事にしそびれたことがある。2011年後半の番組内容で一部そうしたものが残っているのだが、折角メモを取ったので、記事として書き留めておきたい。

その第1弾が掲題の日付のもので、「彼らの時代がやってくる!2012年大ブレイク必至のアーティスト」と題して、3名が招かれて放送された。その3名は、

  • ヴァイオリニストのKon
  • バンドネオン奏者の三浦一馬
  • チェリストの宮田大

である。
曲と楽器の組み合わせは、

  • 「ラプソディ・イン・ブルー」 バンドネオンで
  • ビアソラ作曲「現実との3分間」 バンドネオンで
  • Konの自作自演で「Going Together」と「Fatal Ibvitation」
  • ホッパー作曲「ハンガリアン・ラプソディ」 チェロで
  • 「リベルタンゴ」 バンドネオン、チェロ、ピアノで

というものである。この中で三浦一馬は私にとって周知の人で、あと二人は知らなかった。この二人について、今回の演奏を聴いてもまだどう評価すべきか分からない。

まあ、Konの自作自演の曲は何れもそれなりに良かった。とくにFatal・・・。ちゃんとクラシックのピアノ演奏をやってきたのかどうかが分からなかった。

チェロで演奏したホッパーの曲は初めて聴いた。曲としては面白く、とくにリストの「ハンガリアン・ラプソディ」と類似したフレーズが出たり、多分形式もラッサン→フリスカという共通の構成なのだと思う。初めて聴く人に「リストの曲だ」と言われてもナットクしてしまうだろう。

3名による「リベルタンゴ」。豊かな響きを醸しだし、中々良かった。

しかし何と言っても驚いたのは、ラプソディ・イン・ブルーをバンドネオンで演奏した三浦一馬である。あの、見るからにヤヤコシイキー配列を持った楽器、ピアノ的発想で作られたに違いないあの曲を、「らしく」弾いて見せたのだ。
途中までだったが、もっと聴きたいと思った。と言うより、3名の中で唯一、もっと聴いてみたいと思った演奏者だった。

中々この企画、当たり外れもあり、企画者サイドの無理押しに近い人も出てくるが、色々と幅広い演奏家を知ることのできる点で、貴重なものである。

今回は三浦一馬の再認識以上の収穫はなかったが、ときどきはやって欲しい内容だ。

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