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2012年4月11日 (水)

京都市交響楽団 大阪特別演奏会 2012年4月8日

京都市交響楽団を聴くのは、実に40余年ぶりのことである。最初に聴いたのは、京都の大学に通っていた頃のことだと記憶する。曲目も指揮者も忘れたが、弦のアンサンブルが悪く、二度と聴く気がしなかったことだけ覚えている。

当時既に海外の名だたるオケが来日していて、その幾つかは聴いていたし、大フィルもまあまあ聴いていた。テレビではN響の演奏会もあった。そして、まだレコードの時代だったが、レコードではそれこそベルリン・フィルだとかウィーン・フィルをはじめとする超一流の音に、それなりに(数は少なかったので「それなりに」)親しんでいた。
それらの、どれとも比べるべくもなく、とにかくダメなオケだという印象だった。そもそも、国内のオケの水準というものが、現在とは比較にならないほど、レベルの低いものだった。

それが、大友直人の指揮の頃だったか、広上淳一が常任指揮者になってからだったか、「オーケストラの森」だったかにより、最近結構いい演奏をするようになったなあと感じ、もう一度ちゃんと聴いておきたいと思うようになっていた。

広上淳一の指揮は、このブログのどこかに書いた記憶があるのだが、プロコフィエフの7番の最終部を当初のピアニシモでなく改訂(改悪!)後の、コーダを付け加えた版でやったという1点で私の評価はキッチリとは定めるに至っていないのだが、マーラーの「大地の歌」などは素晴しい演奏をしていたし、概(おおむ)ねは、評価していいと思っている。

その広上が、手兵を引き連れてザ・シンフォニーホールに来る。で、曲目に「シェエラザード」が含まれているというので急遽チケットを入手し聴きに行ったのである。(私は奈良在住だが、京都より大阪の方が距離的に近いので)

ドヴォルザークの「スラブ舞曲第1番」で始まり、次いでドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲(独奏=パヴェル・シュポルツル)、そしてリムスキー・コルサコフの「シェエラザード」という順。
協奏曲の後に「ユモレスク」の協奏曲形式編曲版(原曲はピアノ独奏)、パガニーニの「奇想曲」、バッハの無伴奏パルティータから「ガヴォット」と3曲ものアンコールがあり、「シェエラザード」の後にも1曲のアンコールがあり(曲目分からず)、大いに盛り上がった演奏会だった。

京響の、40余年前に感じた「弦の汚さ」が、現在どれだけ改善され進歩しているのかは、残念ながら限りなくバックステージに近い2回席だったので・・・つまり、オケに向き合う席でなく指揮者に向き合う席だたので・・・私からは弦が遠い位置となるため、確認できなかった。しかし、シェエラザードを担当したコンマスのレベルからしても、往時と比べて格段の進歩を遂げたことは、容易に推察できた。

そんな席だったので、金管楽器と打楽器の音量の凄まじさには半ば閉口したが、当然ながら、広上の指揮ぶりや表情が手に取るように分かる、というメリットもあった。
テレビで放送されていたときも然りだが、力の入れ処は大きなアクションで指示を飛ばす一方、手を抜いて構わないと判断したのであろうという箇所はオケに勝手にやらせる、という手法。力を入れる処では意気込みの声もハッキリ聞こえた。指揮棒は3曲とも手にしなかった。

ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲は余り聴いていない。また、チェロ協奏曲ほどには有名でもないはずだ。聴きながら「この差はなぜ出来たのか」と考えていると、やはり深さとか奥行き感の問題なのだろうと思うに至った。ドヴォルザークだから懐かしく美しいメロディーには事欠かないのだが、「最高の傑作」と呼ぶには何かが足りないのである。ヴァイオリン協奏曲の中にあっても、もっともっとヴァイオリンという楽器の特性を活かした名曲はあるわけだし。

アンコールの「ユモレスク」は、実に良かった。こんな協奏曲形式でやるのは珍しくないだろうか。しかし、その形式も相俟って「こんないい曲だったのか」と再認識させられる演奏だったし、演奏形式だった。

さて、「シェエラザード」である。
近代管弦楽法の祖と言うべきリムスキー・コルサコフの曲は、一度はナマで聴いておくべきものだと思っていたので、それがようやく達成されたのである。
この曲、聴けば聴くほど、実によくできた曲だと思うようになってきている。かなり好きになってきた曲でもある。

第一、曲の話から少し逸(そ)れるが、アラビアンナイトの語り手である、このシェエラザードという女性、話を聞き続ける残虐無比(だった)王様でなくても、惚れてしまうのではないか。実に知的であり聡明であり、かつカワイイ女性というイメージになる。だからこそ、リムスキー・コルサコフも、独奏ヴァイオリンに、あれほど魅惑的なメロディーを持たせたのであるはずだ。
尚、私のこんなイメージを確定したのは、かなり前にテレビでやっていた、イギリスだったかの映画作品である。中々DVDで見つからないのでここにも挙げられないのだが、その主役が実に上記のイメージにピッタリだったのである。

さて、こうした曲となると私はどうしてもデュトアの演奏にトドメを差すと思っている。こうした曲を振らせると、まず期待を裏切られることはない。
あと、当日のプログラムとは異なるが、広上-京響による「名曲シリーズというCDが発売されている。比較的安価だし、手許に置いてもよさそうだ。

蛇足だが、題名のない音楽会の2011年7月3日の回で「ご当地オーケストラ」というのをやったことがある。ブログは書いていないしメモも残っていないのだが、また、京響は出演していなかったのだが、佐渡が「ご当地オーケストラ」の存在意義について、

「僕にとって一番身近でいつでも聴きに行けたのが京響だったし、憧れでもあった。N響もベルリンフィルも、ウィーン・フィルも勿論聴いていたが、レコードやテレビの中の世界だった。それよりも、身近にあった京響が、僕の大切な存在だった。だから、それぞれの「ご当地オーケストラ」も、地元の人たちの身近な存在であり続けて欲しい」

と言っていた(これだけは、メモが残っていた)。
そのとき、「エッ?京響が彼のベース?!」と、半ば呆れもしたのだが、それはまだ40余年の歳月を経ても尚、最初に聴いたときの芳しくない演奏の記憶が残っていたからでもある。
彼の年齢からして、大友や広上が常任になるようも以前のことのはずで、どんなレベルの演奏だちたのかは想像もできないが、それでもナマで聴く機会を増やすということだけでも、地元に根付いたオーケストラというものは、大きな存在意義がある。

会場では、どういうわけか中高生らしい観客が結構目立ち、休憩などに「ああ、もっともっとオーケストラ、たくさん聴きに来よう」などと、臨席の友人と思われる人と話をしているのを耳にした。

こういう人たちが、クラシックファンとして根付いて行くのであるはずだ。

N響だって、若い人たちを主なターゲツトにしているコンサートを何度もやって、多くの若い聴衆を集めてきている。そんなこと、NHKそのものだって知っているはずじゃないか。それを知っていて、どうして「N響アワー廃止」などという暴挙・愚挙をやらかしてしまったのか。

さらに、大阪にとっての「ご当地オーケストラ」は、何と言っても大フィルだ。私は阪神間に住んでいたが、国内のオケを聴きに行くのは殆ど大フィルだった。
その大フィルを存亡の危機に立たせるという、文化音痴の市長には、直す薬もない、という処だ。

ああ、またハラが立ってきた。

さて、「題名のない音楽会」の、2011年放送分の落ち穂拾い。上記に活かすことにより、これが最後となった。あとは書いたり書かなかったりしているが、当時はまだ全ての回について記事にすると決めていたわけでもないので、これをもって「落ち穂拾い完了」とすることとした。

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