らららクラシック 2012年4月8日 モーツァルト
1回目が殆ど番宣状態だった(そうである)こともあり、また他に見たいと思える番組が余りにもなかったこともあって、仕方なく「ららら」にチャンネルを合せることと相成った。テーマがモーツァルトだったのも、見てやることとした動機の1つだった。
結論を言うと、想像していたのと同じ、どうしようもないものだった。もう次こそ、見ないことにするだろう。要は、何がしたいのか、どんな層をターゲットとしているのか、サッパリ分からないのである。
「モーツァルトの『神童』伝説は本当か、奥さんのコンスタンツェは本当に悪妻だったのか、どんな曲でも殆どわき出るがごとく書くことができ、「直し」を入れることがなかったというのは本当か、などのテーマに沿って、幾つかの曲をかけながらゲストの茂木大輔とMCの2人が語り合い、時には美濃さんがピアノで要所を鳴らして見せるという内容。
これって、「題名のない音楽会」でやるようなテーマだ。本当は「名曲探偵アマデウス」でやるような・・・と書きたい処なのだが、それにしては曲の分析が、なっちゃいないのである。
新しい発見や、教わることは皆無だった。
「題名のない音楽会」でこんなテーマを採り上げたとしても、恐らく私の評は厳しい内容となったはずだ。第一、テーマの建て方が間違っていると考える。
映画「アマデウス」の影響もあって、モーツァルトを聖人君子扱いしていた風潮は、既に過去のものとなっているはずだ。映画の内容はフィクションの部分が殆どだが、聖人君子扱いしない、という点だけを取っても、その功績は大きいと言える。実際に、「聖人君子扱いしない」という向き合い方をすることによって、見えてきたものが多いからである。
でないと、「聖人君子扱い」していた歴代の多くの批評家が面食らって色々複雑怪奇な「解釈」を加えてきた幾つかのオペラを、音楽の素晴らしさだけ味わっていい、ということにはならなかったのではないか。
友人同士がそれぞれの婚約者をたぶらかして落としてしまう、という「コシ・ファン・トォッテ(女はみんなこうしたもの)」が最も典型的な例だし、「ドン・ジョバンニ」もそうだろう。
「魔笛」のパパゲーノの俗物性を批判してきた人々も然りである。
下の挙げた「魔笛」はショルティ指揮ウィーン・フィルの演奏だが、私の特に好きな曲は「パ、パ、パ・・・」で(ケイタイの着メロとして永く使っていたほどだ)、こんな音楽、難しいことをこねくり回さずとも、ただひたすらにその美しさに浸ったらいいだけだ。視聴できるから一聴されたら、私の書いていることに同意頂けると思う。
それと、N響アワーの廃止に対して問い合せ兼クレームのメールを入れたのに対し、「今後もN響の演奏が中心になる」と回答して寄越したのだが、曲の一部をぶった切って鳴らすのが「N響の演奏が中心」ですか!?それはないでしょうに。
また、モーツァルトの41番の第4楽章だけをかけて、説明らしい説明もなくいきなり「フーガのような楽章」だと言って、分かる人がどれだけいるのだ。説明なしに分かるのはある程度以上は聴き進んできた人であり、初心者であれば、まず分からないはずだ。
この点、「名曲探偵アマデウス」でこの曲を採り上げた回では、初心者でも分かり、聴き進んだ人にも新しい発見が得られる内容だった(2012年1月23日付けの記事)。その記事には5つものmp3ファイルを付けているが、私が「名曲探偵」に触発されて、制作することにしたのだ。
その気にさせた番組の内容としては「名曲探偵」が最も多いが、「題名のない音楽会」でも時々あったし、「N響アワー」でもかなりあった。
この「ららら」の内容で、mp3ファイルを作成したいという意欲をかき立てられるような、触発される内容に触れる機会は、どう想像を逞(たくま)しくしても、まず訪れることはあるまい。何も刺激されることはなさそうだし、何も新しい発見をさせてくれることもなさそうだ。
こんな無内容な番組を見るくらいなら、別の時間の使い方をしたい。いよいよ今度こそ見るのをやめたい。
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