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2012年3月

2012年3月31日 (土)

題名のない音楽会 2012年1月22日 第7回振ってみまSHOW!

もはや番組名物となったこの企画、回を重ねるごとに玄人はだしの人が登場することも多くなり、楽しみにしている。
今回は7名が登場。演奏したのは

  • 「展覧会の絵」より「キエフの大門」
  • 「こうもり」序曲
  • マーラー1番第4楽章最終部
  • ベートーヴェン8番 第4楽章
  • ショスタコーヴィチ5番 第4楽章
  • 「ロメオとジュリエット」から「モンタギュー家とキャピュロット家」
  • 「カルメン」前奏曲

だった。
この中で「ロメオ」は客席からさかなくんを呼んで指揮させたもので、評価対象外。
「こうもり」は、テンポの変化の激しい曲で、素人では中々コントロールが難しい曲。
これも含め、総じてうまくコントロールできていたと見た。

驚いたのはマーラーだ。
ピアノをやっていて、趣味で作曲もしているという小学校2年生。ちゃんとマーラーになっていたのである。テンポが少しずつ遅くなり気味だったが、却ってそれが大家の風格さえ感じさせる演奏となっていた。

審査員の評も高く、結果としてグランプリを獲得した。
意外と、こうした処から未来の指揮者または作曲家が出てくるのかも知れない。

もちろん、小学2年生とあっては、マーラーの音楽の恐ろしさ、及びそれに伴う甘美さ、さらには「毒」といったものは感じていないだろう。まあしかし、現段階ではそれでいいと思う。

この演奏でもう1つ驚いたのは、この演奏のためだけにホルンを余分に動員していたことだ。画面で確認仕切れなかったので手許のスコアを見ると7本である。結果としてグランプリとなったが、どのような演奏になるか判断の付かない段階で、これだけの人数を確保する、というのはスゴイことで、制作側も本気でやっているのだろうということが伺い知れる。

2012年3月30日 (金)

題名のない音楽会 2012年2月5日 コドモノクニへようこそ

「コドモノクニ」という児童雑誌から生れた童謡を特集した企画。

紹介された作品は、「上がり目さがり目」、中山晋平作品メドレーとして「アメフリ」「あの町この町」「毬と殿さま」、野口雨情作品メドレーとして「兎のダンス」「狐のお使い」「ねむの木」、そして「雲の蔭」、「雨降りお月さん」、「グッド・バイ」。

「雲の蔭」は、「雨降りお月さん」の元の曲として紹介されたもの(・・・だったと思う。メモが古くなり、また番組の楽曲紹介も音は閉じてしまった)で、青島広志が足踏みオルガンを弾いて伴奏。

中々良い企画だった。「雲の蔭」を除き、殆どの曲を知っていた。小学校の音楽の時間で習ったりした曲ばかりだ。
違和感があったのは、「ねむの木」である。野口雨情の作詩として紹介されたのだが、あれ?これって皇后陛下の作詩ではなかったか?
実は私の勘違いで、皇后陛下の作詩になる歌は「ねむの木の子守歌」だつた。曲も違うものだった。

ちなみに、番組内では「コドモノクニ」に参集した詩人、作曲家、画家の名前だけ紹介し、それがいつ頃のことだったのか殆ど説明がなかったと思うのでウィキペディアによって一言だけ付け加えると、1922年から1944年にかけて合計287冊刊行されたそうだ。

所謂「文部省唱歌」と並んで、これらの楽曲が、どれほど幅広い世代の心の糧として、またどれほど共通の音楽世界を構築してきたか、量り知れないものがある。
上記の年代を見ると分かるように、戦時中にも続いていたというのも驚くばかりである。

今、学校において音楽の教材となっている曲は、どれほど残っているのだろうか。一時、文部省唱歌など多くの、共通に親しまれてきた曲が教科書から消えたという話があった。
新しい曲を採り上げるなとは言わないが、歌い継がれてきた曲をやめる、というのは、明かな「文化の破壊」だ。

現に、大震災のあと恐らく最も日本中で歌われたのは「ふるさと」だっただろうし、他の、戦前から歌い継がれてきた曲も幅広い世代に共通して歌われたはずだ。

文化の破壊というのは、世代間で共通に拠り所となり得るものを消滅させることである。
大震災を機に、今からでも遅くないから、学校の音楽教材として採り上げる歌を、見直してはどうだろうか。

2012年3月29日 (木)

題名のない音楽会 2012年2月12日 宮本文昭の挑戦

4月から東京シティフィルの音楽監督に就任するそうで、そのお披露目を兼ねた番組出演。

62歳だそうだ。最初から指揮者としてキャリアを積んでいれば、もうそこそこのオケの指揮者を歴任し、どこかの首席か音楽監督を務めている、というのが一般的なのだろうが、彼はオーボエ奏者として名を馳せたあとだから、指揮者としては、東京シティフィルでの音楽監督が実質上の・・・少し遅い・・・キャリアスタートということになるのだろう。

実際、団員の中には、宮本文昭のオーボエによってオーボエ奏者となった人もいた。

さて、披露した曲は、「マイスタージンガー 前奏曲」(抜粋か?)と、ブラームスの2番の第4楽章(全曲だと思う)。
何れも名演だったと思う。振りの大きい、情熱的と言っていい指揮ぶりが特徴。

さて、今後どのようなキャリアを経て行くことだろうか。年齢からして、余り大きなジェスチャーによる指揮は、長く続けることはできないはずだ。そうなったとき、どのように音楽が進化するかが勝負だろう。

2012年3月28日 (水)

クラシック音楽文化を破壊したN響アワー廃止の暴挙

廃止が決まってからN響アワーは見ないでいたが、たまたま最終回の日(2012年3月25日)、何か見るものはないかとチャンネルをあちこち変えていたら、その最後の部分に行き当たったので2分ばかり見た。

壇ふみ、歳をとったなあ。
友人であり、共同執筆の本も出している阿川佐和子(1953年~ )と殆ど同じ年齢(1954年~ )なのに。阿川佐和子は殆ど変らないし年齢を感じさせないでいるのに。
いや、新日曜美術館のMCをやっていた頃(2006年9月~2009年3月)、少し老けてきたナとは思っていたのだが・・・。

それはそうとして、N響アワーの廃止について。
最後の挨拶として、「ららら」について触れ、今後も、そこでN響の演奏会を採り上げて行くこと、そして池辺も西村も、FMでやっている「N響コンサート」にはゲストとして出ること、などを告げた。
池辺と西村がN響コンサートの解説で出る、ということを付け加えたのは、2回にわたってクレームを兼ねた問い合せに対する回答にはなかったことである。
私と同じように憤ったメールなどが多数届いた(はず)のに対する追加コメントのつもりだろうか。

しかし、そんなこと知ってるっちゅうの。それが問題なのではないって。

率直に言って、池辺から西村に変るとき、若干の懸念が私にはあった。現役のとき、通勤でクルマを使っていて、たまたまかけていたFMでN響コンサートの時間に遭遇することがあった。その中で時々ゲスト解説者として西村が登場することがあったのだが、そのときの女性MCに対し、また演奏に対し、傲岸不遜一歩手前、という解説をしていたのだ。だから、どうなることかと思った。
私にとっては意外なことに、N響アワーに迎えられてからは、ついぞそうした態度は見せず、むしろ池辺より遙かに巧に、作曲家としての観点も交えた貴重な説明をしてくれたのだ。
だから、西村-岩槻時代が、N響アワーのピークだと言うのだ。

現役を去ってからはFMのN響コンサートは聴いてないので、どんな解説を西村がしているのかは、全く知る処ではない。
しかし、とのように解説したとしても、演奏が始まる前と、休憩時間の間にちょこっと客席から放送席に戻ってきて、解説というよりも「感想」に近いものを語って行くだけのことである。
一部コマ切れにして曲の成り立ちを解説したり、場合によっては自分でピアノを叩いたりして説明・・・といった、N響アワーにおける説明とは、全く違うものにしかなり得ない。それは、ラジオとテレビの情報量の違いでもあるのだ。また、聴いてすぐに感想を言うラジオの実況に対し、少しは考えを纏める時間があると推察するN響アワーとの違いでもある。

確かN響アワー内ではなく、そのあとの本仮屋ユイカがやっている番組の中だったと思うが(録画していないので確認できず)、「ららら」についてチョコッとだけ紹介された。

チョコッとだけだけど、何だあれは。
番組のスタジオセットを見ただけで、イヤになった。
こんなの、絶対に見るものか。

どこかの時点で、その新番組と対比した形で「N響アワー殺人事件」について記事を書くかホームページに書くつもりなので、1回か2回は見る必要があるのだが、その気さえ失わせてしまう、そんなセット。
こんなの、見たくないなあ。もちろん、聴きたくもない。困ったね。

ところで、本来60分放送だったN響アワーの時間を3分削ってまで押し込んでいた、本仮屋ユイカの番組も、この同じ日に終了することが告知された。
いったい何のために、N響アワーの時間を削ってまであんなケッタイな番組を押し込んだのだ。
つくづく、NHKのやることは分からん。

それと、これほど客(視聴者)の意見に耳を傾けない機関も、いまどき珍しい。最近、役所の方が遙かに耳を傾けてくれるぞ。

もはや怒りとか悲しみとかいうレベルを超えている。つくづく呆れるだけである。

2012年3月27日 (火)

小林愛実 ピアノリサイタル 2012年3月24日 於ザ・シンフォニーホール

ザ・シンフォニーホールから毎月パンフレットが届くようにしていて、そのパンフレットに「アルゲリッチやキーシンも絶賛」と書いてあるピアニストがいて、気になっていたのだが、新聞広告にも出たので思い切って出かけた。
「キーシンが絶賛」とだけ書いてあったら、行かなかっただろうが、「アルゲリッチも絶賛」とあったので、アルゲリッチの感性を信じたわけだ。

それが掲題のコンサートである。小林愛実。1995年9月生れだそうなので、当年とって16歳。
前半がオール・ショパンで、スケルツォの1番と2番、ノクターン20番遺作、そしてバラードの1番。
後半がプロコフィエフの3番のソナタとベートーヴェンの「熱情」。
そしてアンコールに、ショパンの(多分)マズルカの1曲と、シューマン「子供の情景」のアタマ3曲、さらに「トロイメライ」。

行って良かった。一言で「素晴しい」の一語に尽きる。
プロコフィエフの3番のソナタ、私は初めて聴いたし、それなりに面白く、また比較的聴きやすい曲だと思った。
その他は、私にとって何度も何度も聴いてきた曲である。他の人々も程度の差こそあれ、同じようなものだったと思う。

そして、弾く側にとっても、色々なピアニストが色々な演奏をしてきた曲だ。それだけに、他の人とは違う個性を出したいと思ったりもして、少しずつ、またはかなり変えて演奏する人も少なくない。

小林愛実の演奏は、そうした、奇を衒(てら)ったような処は全くなく、言わば正統的な演奏だという印象だった。そして、ショパンもベートーヴェンも、「何といい曲・・・」と感じさせるパワーがあった。1本1本の指に集中力を凝集し、完璧にコントールしているのも良く分かった。

これはスゴイ・・・と思いながら休憩中にプログラムを読み返すと、既に錚々たる経歴の持ち主である。
そして、何と「題名のない音楽会」に出場したことがある、と書いてあるではないか。

帰宅して手許のメモを確認すると、2011年7月10日の回に出ていて、8月3日付けの記事としてアップしているではないか。道理で「アルゲリッチも絶賛」という触れ込みに、何か見覚えがあると思ったのだ。そして、その記事に「番組の企画はつまらなかったが、小林愛実というピアニストを知ったのは大きな収穫」と書いてある。
物忘れをするようになったと少しガックリする一方、だからどんな記事をいつアップしたかはメモしておくものだ、と改めて思った(2009年の9月から実行している)。

もうこれで小林愛実、忘れることはないだろう。上記の記事にも書いた通り、注目して行きたい。

さて、このコンサート、久しぶりにスタインウェイの音に浸ることができたコンサートでもあった。ヤマハも決して悪くないが、やはりスタインウェイは違う。音の輝き、音の粒建ちが違う。前から4列目の席だったので、まさに「堪能した」の一語。

そして小林愛実、既にメジャーレーベルからデビューしている。
DVD付きのがデビュー盤。CDのみのものが、この日のプログラムの内容にほぼ近いものだ。私もそのうち手許に置くことにしたい。

2012年3月26日 (月)

題名のない音楽会 2012年3月25日 なんてったってコントラバス

ゲストとして宮本文昭、東響の首席コンサートマスター大谷康子、そして東フィルの首席コントラバス奏者である黒木岩寿を迎え、佐渡とともにコントラバスに関する色々なことを語り合う内容。

まず、黒木氏がコントラバスをやることになったのは、バンドをやっていて、エレキベースを担当したのがキッカケだったと言う話があり、いきなり引き込まれた。また、オケのコントラバス(以下、CBと略す)奏者へのアンケートでは、中高生のとき吹奏楽活動でCBをやったのがキッカケという人が多かった由。
これには佐渡も驚いていたが、私も(佐渡より年長なので)当然驚いた。

吹奏楽のメンバーにCBが含まれるなどと言うのは、昔は、殆ど例がなかったはずだからだ。
私も吹奏楽をやっていた時期があったのだが、同じメンバーによる別活動としてジャズバンドをやったことがあり、ピアノが趣味だった同級生にピアノを頼み、CBが趣味だった先生にお願いし、吹奏楽だけでは不足する楽器を整えた、という経験があるほどだ。

最近の吹奏楽で、リードなどCBを使う曲をやる機会が増えたことも要因かも知れない。ただ、CBのパートが書かれていない曲の場合は、チューバのパート譜で演奏するらしい。

大谷さん曰く、CBが一本加わっただけで、吹奏楽のサウンドがオーケストラのサウンドのように豊かになる、とのこと。
一本だけでそれほど絶大な効果をもたらすCBを、場合によっては8本以上使うオーケストラという演奏形態がいかに贅沢な響きを作り出しているか、というのは、CDでもある程度には伝わるが、ナマで聴く方が体感し易いのも確かだ。

CBは音の出始めが遅めなので、指揮者のタクトに合せていてはダメで、タクトの動きよりも僅かに早めに出なければならない由で、その例として、カラヤンがベルリン・フィル(以下、BPO)に指示しているリハーサル映像が示された。

カラヤンとBPOだけでなく、カラヤンとウィーン・フィル(以下VPO)、バーンスタインとVPO、ラトルとBPO、ベームとVPO、小澤とバイエルン放送響など、錚々たる顔ぶれの映像が、トークの合間合間に説明用として流され、それだけでも贅沢な時間となった。

また、オケのCB奏者へのアンケートで、CBが最も活躍する曲の例としてマーラーの1番の第3楽章を挙げていた。これはまあ当然だろう。
また、CBにとって難しい曲として、R・シュトラウスの作品が挙げられていたのも、まあ想像はつくことだ。番組内では、それぞれの楽器に役割が与えられていて、音楽のメインの流れの後ろの方で、聞こえるか聞こえないかという音量で、CBの、与えられたキャラクターを示さねばならないから、といった説明をしていた。

しかし、CBにとって難しい曲のもう一方にモーツァルトの曲が挙げられていたのは意外だった。
確かにモーツァルトの交響曲の演奏映像を見せてくれたが、左手も右手も実にせわしなく動いている。大変な肉体労働であり、それでいて音程を外さないようにしなければならないわけだ。

それは、モーツァルトの頃までは、3度調弦だったのが、現在では4度調弦で演奏するようになったのが大きな要因だ、との説明があり、ナルボトと思った。
現在は「ド」の弦の上の弦は「ファ」の音(ドの4度上)に調弦するが、モーツァルトの頃は同じ「ド」だとして上の弦は「ミ」(ドの3度上)にしていたと言うのだから、フィンガリング(左手の指使い)が根底から崩れる。

私は、モーツァルトは余りややこしいオーケストレーションや演奏法を取らせずに最大の効果を挙げていた作曲家だと思っていて、彼の曲の場合CBは殆どチェロと同じことをやっているだけという脇役レベルなのに、余りややこしいことをさせるのは奇妙だ、と一瞬思ったのだが、調弦の説明を聞けば、これもナットクである。

また、CBには4弦のものと5弦のものがあるのだが、それを実際に鳴らして音域の違いを聞かせてくれたこと、弓の持ち方に「フレンチスタイル」と「ジャーマンスタイル」の二通りがあることも説明があった。
フレンチスタイルは、他の弦楽器と同じ持ち方(手の甲が上向き)であるのに対し、ジャーマンスタイルは、それと逆の持ち方(手のひらが上向き)である。兵庫芸術文化センターのオケは、色々な国からメンバーが集まってきているので、どちらの双方の奏者もいるとのこと。
そう言われると、これまで、余り注意して見ていなかったなあ。

最後に、ジャズやロックにおけるベースの役割よりも、オーケストラのCBの役割の方が大きい、という佐渡のコメントで終った。
これも、いい締め方だった。

だって、ジャズにせよロックにせよ、コード進行がつきものだが、それはクラシック音楽の和声理論が元になっているのだから。また、楽器の使い方も、演奏法も、クラシック音楽における成果を採り入れたものなのだから。
ゲストの黒木岩寿が、バンドのエレキベースからクラシックのCBに進むきっかけが、エレキベースを本格的に習おうと、ある先生の門を叩いたとき、「それなら、まずクラシックのCBを学んで基礎を作った方がいい」と奨められたというエピソードも話していた。

そういうものなのだ。
私は「クラシック原理主義者」ではない。何でも聴く方だ。しかし、クラシック音楽というジャンルの、こうした幅広く奥深い広がりを理解していると、オケへの助成金をカットするという某市長がいかに浅はかか、また、大切に育ててきた(多くの固定ファンもついた)N響アワーを廃止するという愚挙・暴挙をやるNHKという局が、いかにアホか、ということになるのだ。

ここの処、「題名のない音楽会」の内容、好企画が続いている。
上にも書いた通り、実に贅沢な映像紹介もあった。そこで採り上げたものではないが、往年のカラヤンは、やはり凄かったと実感もしたので、2通り紹介しておきたい。

また、「ジャズやロックは、クラシック音楽の成果を活用している」というのは、西村朗の本によるものだ。併せて紹介しておく。
この本、少し詳しい人には物足りないかも知れない。しかし、それでも新たな発見をさせてくれる。私がそうだった。「難しいことをやさしく解説」とか、「初心者から聴きこんだ人まで」というのは、こういう解説のことを言う。
少しくらい詳しいからと言って、専門ではない作家の兄ちゃんが、とてもこなせるものではないのだ。
さらについでに、西村-岩槻コンビによる楽しいコーナーだった、「今宵もカプリッチョ」も。

2012年3月25日 (日)

N響アワー 最後の2回 最終回スペシャル 見ないで批評 続き

(前稿からの続き)

さて、最終回スペシャルの2回目は、本当の最終回と言うことになる。これも見ないで書くが、見ない方が良かったと思う。
池辺晉一郎と壇ふみをゲストに招いて、思い出に残るシーンなどを放送する、と言うのだから。

N響アワーの司会者陣として、私は西村-岩槻時代が歴代ベストだと考えているのだが、次いでは、この池辺-壇時代だと思う。

池辺氏の解説に対し、壇ふみの受け答えは愉快だったし、とくにチャイコフスキーを異常なほど好み、「チャイさま-」と、キャアキャア言って喜んでいたシーンが、今でも目に浮かぶ。壇ふみが番組を「卒業」するにあたり、池辺が特に彼女のためにピアノの新曲を作曲し、その場で披露してくれた。そのあと、こうした例はない。

壇ふみも、どの程度クラシック音楽に関心があったのかは、今になってみると分からない。
しかし、その後池辺氏とコンビを組んだ女性たちが余りにもひどかったので、壇ふみ時代が懐かしく思い出されることとなった。

というか、壇ふみが「卒業」したあと、N響アワーは迷走を始めるのだ。ようやく、岩槻アナとのコンビとなり、劇的に復活を遂げたと言ってよい。
(この辺りのことは、私の「題名のない音楽館」内の「音楽番組評」に載せた3編に詳しく書いたので、参照頂けると嬉しいです。)

そんな、私にとっては栄光の時代だったと言える池辺-壇時代のことを今に至って思い起こさせるなんて、余りにも辛いではないか。
また何よりも、暫く新規記事を書いていなかった上記のコーナーに、N響アワー廃止に関する記事を付け加えねばならない、ということが辛くてならないのである。
辛いので、暫くの間は書かないだろうが。

2012年3月24日 (土)

N響アワー 最後の2回 最終回スペシャル 見ないで批評

N響アワーは、廃止という暴挙にすっかり見る気を失ってしまい(2月28日付けの記事)、その後、予定通り(?)見てないし録画もしていない。

しかし、一応放送データは残すことにしようと思い、プリントしてみて、どうしてもまた書きたくなった。
最近のNHKって、どうしてこんなにツッコミを入れさせる(いや、イライラさせる、と言うべきか)ことを続けるのだろうか。

最終回スペシャルと銘打った1回目(2012年3月18日放送)と2回目(3月25日放送)についてである。

まず、双方とも、「最終回スペシャル」なのに、放送時間は57分だと言うことだ。何だこの扱いは。
30年以上続いた番組の最後に、通常と同じ時間し割り当てないというわけだ。いや、本当はこの番組、1時間枠だったのに、ある日突然3分削ってしまったのだから、もともと「通常」ではない状態で続いていたのだが・・・。
ドラマの類で顕著だが、普通、最初の回と最終回は、時間枠を拡大して放送するものだ。民放の色々なドラマの類がそうだと言うだけでなく、現にNHKだって、大河ドラマでやっているではないか。

ましてや、30年以上続いた番組だ。殆どの固定ファンを斬捨ててまで廃止しようと言うのに、その「死」を、何とも思っていないとしか考えられず、その神経に、またまたイライラするのだ。

そして、その1回目。
過去の名演集として、ホルスト・シュタインによる「マイスタージンガー前奏曲」、マタチッチによるブル8(「から」と書いてある),サヴァリッシユによるフラ4(第4楽章)が採り上げられたそうだ。

これ、廃止を通告してからずっと、リクエストを募集する旨を併せて通告していたが、その結果がこれだって?!
この中で最終回として追憶するのにふさわしいのは、私に言わせればシュタインの「マイスタージンガー」だけ。あとの二人の演奏は、それなりの価値は認めるが、過去に放送された中でのベストの演奏だとは全く考えない。

もっと、よりふさわしい名演があったはずだ。戦後すぐの演奏とか、近くには大震災直後とか、歴史的に意味のあった演奏があったはずだ。または、そうした重たいものでなくても、デュトアとアシュケナージの、音楽監督就任公演やプレヴィンの首席客演指揮者就任だとか、歴代の首席指揮者とかでも良かった。

百歩譲ってマタチッチとサヴァリッシユの二人を採り上げるのだとしても、それなら双方とも全曲演奏とすべきものである。ましてやブル8を「第4楽章から」はないだろう。

時間をちゃんと計ったことはないが、そもそも57分という時間として3分削ったのは大きな禍根を残していたし、最終回スペシャルとするのだから、時間枠を拡大して全曲演奏を何曲か振り返る・・・という形にするのが普通だ。

これでは、「死」を先刻されても、往生できない。

(この稿続く)

2012年3月23日 (金)

大フィルへの交付金カットに抵抗するには、聴衆の力を結集しよう

大フィルへの、大阪府・大阪市からの交付金カットの件、N響アワー廃止の件とともに何度も書いてきて、書くたびにハラが立って仕方ないので、もうやめるつもりでいた。

しかし、結局我々のできることは、コンサートにできるだけ出かけて、チケットの売り上げに資する他はない・・・という当たり前すぎるとも言えることを改めて気付かされたページがあったのでご紹介しておきたい。

大阪のオーケストラ応援企画」というページである。その管理人様からメールでご要請があったのだ。
確かに、それしかないのも現実だろう。政治力も財力もない市井の者としては。

政治力または財力を持つ有力な人、もし我々と同様なページをご覧であれば・・・そして我々の発言が、少なくとも、JIROさんのページにある「単なる音楽好きの言い分で、そんなことを発言する連中はクズ」だと言う下品かつ無価値な戯言よりも意味のあるものと考えて頂けるのであれば、是非ともお力添えを。

私が最も心配しているのは、パナソニックやシャープといった大手家電メーカーが揃いも揃って赤字転落したことだ。会社自体が存亡の危機にある時期で、メソナなんてやっている場合ではない、と判断しかねない。
もちろん、会社を潰してまでメソナをやることはない。でも、何れもV字回復を図っておられるものと推察する。パンフレットの最後に記載されている、これらの会社の名前がなくなってしまうことがあったら、長い目で見て大きな損失だろう。逆に、援助を続けることにより、ますますイメージアップに資するはずだ。
聴衆の殆どが・・・大阪ということもあって・・・パナソニックやシャープの「お客様」でもあるのだし、協賛会社名簿に関心を持つ人だって、私以外にも多数おられるのではないだろうか。

改めて、「大阪のオーケストラ応援企画」さんのページをご覧頂きたい。JIROさんのページでも紹介されている。

尚、助成金カットに関する論議はされないそうなので、それは私のページをはじめ、他の、もっと素晴しいログ作者の皆さんとどうぞ。

2012年3月21日 (水)

題名のない音楽会 2012年2月19日 イベール 嬉遊曲

「名曲百選」の一環としてこの日採り上げられたのは、イベール作曲の嬉遊曲。副題は「バッハの香り、音楽のおもちゃ箱」。

佐渡曰く、「このシリーズでは、誰もが知っている曲だけをやるつもりはない。余り知られてはいないが、僕が好きで、是非とも多くの人に聴いて欲しい、という曲も採り上げる」。
そう。それでこそ、この番組の価値も高まるというものだ。

かく言う私も、この曲の存在は知っているし聴いたことはあるはずだが、どんな曲だったか殆ど記憶にないし、さほどの印象も記憶も残っていない。

編成が弦楽八重奏と少数の管楽器と打楽器という小編成だと言うことも記憶にない。

第1曲「前奏曲」、第2曲「行列」、第3曲「夜想曲」、第4曲「ワルツ」、第5曲「パレード」、第6曲「フィナーレ」の順に演奏されて行ったが、それぞれが一部なのか全曲なのかも私は分からなかった。

佐渡が一言ずつ述べた説明は、以下の通り。

  • 第2曲。有名な「結婚行進曲」のテーマが出てくる。
  • 第3曲。印象派の影響が強く出ている。
  • 第4曲。フランス人がウィンナ・ワルツを自分のものにしてしまったような曲。
  • 第5曲「サーカスの行列が次第に近づいてきて、目の前を通り過ぎて、やがて去って行く。
  • 第6曲。サーカスを思わせる陽気さに満ちた、喜劇のエンディングのような曲。

説明を聞きつつ曲を聴いたが、率直に言って私にはまだよく分からないでいる。たからリファレンス盤というものも持ち合わせないが、もし買うとしたら・・・という基準で選んだものを挙げておきたい。

・・・と、ここまで書いてCDを検索したら・・・何だ、持っていたではないか。デュトワ盤。このCD、「魔法使いの弟子」を聴きたくて求めたのだが、それしか聴いていなかった。さほど、私にとっては余り馴染んでこなかった曲だということだ。
併せて、佐渡に敬意を表し、ラムルー管弦楽団との組み合わせによる、イベール作品集を挙げておく。

2012年3月20日 (火)

題名のない音楽会 2012年3月4日 葉加瀬博士の音楽実験室

「音楽も節約の時代!?」と題し、音楽も節約できるか?というテーマで、

  • ヴァイオリンの名曲13曲(協奏曲含む)の聴き所を集めて3分で演奏する試み
  • 「カルメンを3分で演奏する試み
  • ドヴォルザークの「新世界より」の第2楽章を「じっくり聴きましょう」としながら第1主題が提示される部分だけの演奏

などが「実験」された。

そう。これこそが、黛敏郎時代からの、実に「題名のない音楽会」らしい企画なのだ。それぞれ巧く編曲されていて、大いに楽しむことができた。
アシスタントと称して西村由紀江を登場させているのに、葉加瀬とのコント風のやりとりをさせるだけで、ピアノに指一本触れさせない、という贅沢なキャティングも愉快だった。

前後には葉加瀬自身の作曲によるものも披露。

さて、1点だけ書いておきたいことがある。

全部演奏したら凄く長くかかる曲も、聴き処だけを演奏するなら、こんなに短くて済むと言う葉加瀬に対し、「確かにそうかも知れないし、クラシック音楽の多くは長いし、途中退屈な箇所もある。しかし、長い間待ちにに待って、自分の知っている処が出てきたときの喜びは大きい」と言った主旨のコメントを佐渡が述べた。

これは半分当を得ているが、私ならこうつけ加える。
「そして、何度も何度も繰り返して聴くこと。そうするうちに、聴き馴染んだ部分がどんどん広がって行き、やがて曲の全部が自分のものになって行く」と。
実際に、中学・高校の音楽の時間に、音楽の担任の先生から私はそう教わってきたのである。

「繰り返し聴く」というのは、小遣いとして親から貰う中からしても、そもそも自分の家の家計の状況からも、欲しいレコードがどんどん手に入るという状況ではなかったためもあるだろう。レコードを1枚買ったら、次に買うまで多くの日数または月数が掛かる。だから、繰り返し聴くしかなかったのだとも言える。
しかし、半ば強いられたのに近いが、こうしたことを通じて多くの曲が自分のものになって行くという経験は、何物にも代えられないものとなった。

レコードがCDになり、それも次第に安く手に入るようになり、私が上記のように教わった頃に比べると、聴くための環境は飛躍的に整った。ある曲の、聴き覚えのある箇所だけを飛び飛びに聴いて行くのも容易になった。
しかし、何曲かでもいい。同じ曲を繰り返し繰り返し聴くというのは、大きな「心の財産」とも言うべきものとなって行くので、強くオススメしたい。

2012年3月19日 (月)

題名のない音楽会 2012年3月11日 坂本九 名曲集

震災からちょうど満1年となった番組。
「日本の巨匠」のシリーズの一環として採り上げたのが坂本九。
彼の曲で震災後によく歌われるようになったということで、ヒット曲を6曲採り上げて、加山雄三の他2名による歌唱が放送された。

まず「坂本九が『巨匠』??!!という強烈な違和感を持って見始めたのだが、もう一つの思いは「なぜ震災満一年でこんな内容を・・・」ということであった。もっとふさわしい曲があるのではないだろうか、ということである。
昨日書いた3月18日の番組に関する記事に書いたが(番組の日付と記事の順が前後するが)、クラシック音楽の方が大きな力を持っているし、何よりも、「題名」があくまでもクラシック音楽を軸にした番組なのであれば・・・そう思っている人は私だけではないはず・・・クラシック音楽の中からもっとふさわしい曲を採り上げるべきだし、18日の番組のように、録り溜めたものの使い回しでもいいのだ。

そして、聴き始めるとすぐに、段々イライラしてきた。
坂本九をテレビでリアルタイムで見て聞いてきたので余計にそう思ったのかも知れないが、彼の歌は彼の「芸」によって成り立ってきたものである。全然ウマくないのだが、明るいキャラと一体化した「芸」によって、ヘタだという欠点をカバーし尽くしているのである。
そんな歌を、オペラ歌手が朗々と歌っても、加山雄三が巧くない歌い方をしても、全然シックリ来ないのだ。
もちろん素人が歌うのであればとやかく言うことはない。実際に幾つかの曲が、歌うことによって励みになったという人は多いのだろう。

しかし、番組の企画としてはねえ。

イライラが募って、とうとう30秒ずつ飛ばしながら見ることとなった。久しぶりた。佐渡時代になってからは初めてだ。

で、結局はオリジナル盤を聴きたくなっただけのことだった。他のことをやっていて番組直後に聴いたわけではないが、オリジナルで聴いたことのない人に向けて、一枚挙げておく。
私が上に書いたことの意味、共感頂ける人もあられるだろう。今となっては少し古くさいアレンジも、リズムも、実に心地よく聞けるのを感じられるだろう。

2012年3月18日 (日)

題名のない音楽会 2012年3月18日 世界へありがとう、音楽の祈り

震災から1年が経過し、この1年にわたり番組内で放送してきた「支援コンサート」の一部を振り返るとともに、「スーパーキッズ・オーケストラ」と、復興支援に向けてヨーロッパの幾つかの楽団の有志メンバーで構成・演奏された「ジャポネード・オーケストラ」による新映像が紹介された。

いつ聞いても・・・この場合はオケの演奏家や聴衆だが・・・外国の人から日本に向けた励ましと見舞のメッセージには、グッと来てしまう。

曲目の詳細をここには書かないが、選曲も演奏も、まあまあの出来だったと思う。

但し、スーパーキッズ・オーケストラが演奏した曲目が「G線上のアリア」と紹介されていたのは、何度もここで書いてきた通り、ボツボツやめてもらいたい、悪しき慣習だ。
「バッハの『組曲第3番から アリア』と正しく表記するのと何ほどの違いがあると言うのだろう。

ヴァイオリンのG線だけで弾けるように移調し、ヴァイオリンだけで演奏するようになったのが「G線上のアリア」なのであって、バッハの原曲通りに小編成のオケで演奏するのは「G線上の・・・」ではない。
そもそも、ヴァイオリンという楽器の、弦のチューニングが分かっていないと「G線」って何のこと? と言うことになる。

「ヴァイオリンには4本の弦があり、高い方からE、A、D、Gに合せてチューニングする。一番低いGの弦だけで弾くので『G線上の・・・』と言うのだ」などと、余計な説明をすることとなる。愛称のついている方が親しみやすいのは事実だろうが、間違った内容になってしまう愛称など、邪魔者でしかない。

まあそれはともかく、バーンスタインの「キャンディード」がミュージカルだし「ふるさと」は日本の唱歌だし民謡のパラフレーズもあったが、あくまでもクラシックに軸を置いた内容であり、クラシック音楽の力というのはやはりスゴイものだ、と改めて感じることができた。

2012年3月13日 (火)

名曲探偵アマデウス 本当に終ってしまうのか

この番組、2012年3月で終了する。

寂しくなるなあと思いながら2012年3月7日に放送されたとき、録画情報として入っていたタイトルが「熱情ソナタ」。何か見覚えがあるなあということで番組を見始めると、やはり、以前見たことがある。

この番組、途中で存在に気付き、2009年12月から録画保存を開始していた。その後ずっと続いている間、並行して「セレクション」が始まり、また番組の放送日時がコロコロ変り、加えて途中から連続して書き綴ることとした、の番組の批評もあり、ゴチャゴチャと混乱しつつあった。

「セレクション」で扱う「事件ファイル」が飛び飛びで、また私が書いてきた番組評も事件ファイルの順でもなく、必ずしも放送・録画した順でもなかったので、尚更混乱に拍車がかかった。

そして、「セレクション」が一周し、私が録画を始めた頃に追いついたということになる。

そこで、まだ「アマデウス」のページが残っているうちに、と思い、事件ファイル順に放送・録画した日時と、ブログに書いた日時と、扱った曲目を一覧にして整理してみた。

すると、最終回のセレクションとして予定されている「トルコ行進曲付き」も、既に録画してあることが分かった。しかし、上記の「熱情ソナタ」とともに、ブログには書いていない。

「熱情ソナタ」はしかし、今さらブログに書く気はしなくなった。「動機労作」という用語や、第5交響曲とのつながりなど、知っていることが殆どだったせいもある。
最終回の「トルコ行進曲付き」は、見てから決めることとした。

そして、改めて自分の作った表を見て、結局は見ていないままとなる曲がかなりある、ということを知った。
その中には「ゴルトベルク変奏曲」のように「どう分析するのか」と興味のある曲もあれば、「惑星」のように、大好きな曲もある。「春」と「夏」だけをやった「四季」の「秋」「冬」・・・これは田畑智子の演が楽しみ、という要素が大だが・・・また、「楽器の王様 ピアノの秘密」といった回もある。
また、「セレクション」として再放送したのは、全事件ファイルの、僅か3分の1程度に過ぎない。
これ、N響アワーの廃止と同様、何かトンデモないアホな判断で、急に方針を変えたのではないだろうか。

本当に、このまま終る気か??
実に優れた番組だったと思うから、惜しいとしか言いようがない。

出てくるタレントが毎回懲りすぎてカネがかかったのか。タルントとの契約の関係で難しいのか。
それであれば、「事件」にからめたコントなど付けずに、アナリーゼだけを扱う番組としてリニューアルしたらいい。

かつて「ピアノぴあ」という番組があった。歴代のピアノ音楽とその魅力を放送するもので、宮崎あおいがナレーションをしていたので全部録画した。10分程度のミニ番組だったが、それなりに良かった。
そして、2007年に放送したあと、2009年に全てを再放送したのだ。

新しい「事件ファイル」を制作する気もなく、「セレクション」としての再放送も終るのであれば、また、別の構成でアナリーゼ中心の番組を作る気もないのであれば、せめて、全ての「事件ファイル」を再放送する、ということを考えてもらいたい。

これはN響アワーのようにずっと見続けたという番組ではないし、文化として続いてきたものでもないし、クラシックファンを育ててきた番組でもない。だからNHKに抗議する気はない。だいいち、抗議したって官僚的な回答しか返ってこないと想像がつくので疲れるだけだ。

で、またN響アワー廃止の件に、どうしても話が及んでいまう。

いったい、どういう神経をしているのだろう。「オーケストラの森」、また3月11日という妙な日に放送した。急に決めた証拠じゃないか。

また、少しでも検索すれば、熱心だったファンほど怒り、悲しみ、呆れ果てているのが分かるというもの。そんなこともしないで・・・いや、した上でこの方針を撤回しないという神経、私には全く理解できない。

2012年3月11日 (日)

震災の日に演奏したマーラー

本日2012年3月11日は東日本大震災満1周年にあたり、本日も含めて数日前から、テレビ番組の殆どが震災関連一色だ。

関心を持ち続けなければならないことは承知しているが、どうしてもそんな内容ばかりテレビで流され続けていると、陰鬱な気分になってしまう。だから、何か別の番組はないかと、あちこちチャンネルを変えながら流していたら、たまたま、震災当日に新日本フィルがハーディングの指揮でマーラーの5番を演奏していた、という話題に行き当たった。(NHK総合 3月10日23時~ )

ハーディングが新日本フィルの「ミュージック・パートナー」に就任する、その記念のコンサートということで、券は完売していたが、いざ準備にかかろうとしたとき、大震災発生。しかし、会場(すみだトリフォニーホール)の安全が確認されたので予定通り開催を決定。

決定はしたが、交通障碍のため、団員も観客も集まらない。それでも「1人であっても、わざわざ聴きに来て頂けるのであれば、開催する」としていた。最終的には数十人しか集まらなかったが、予定されていたマーラーの5番が演奏された。

葬送行進曲の様相を示す第1楽章を持つこの曲のままでいいか、という論議もあったらしいが、この曲だからこそ、却ってふさわしいとハーディングが考え、予定通り演奏された由だ。
余震の続く中、団員は恐怖と、何人かは親戚知人の安否が不明のままでいたことに不安も感じながら、渾身の演奏を披露。
第1楽章の冒頭を示す(これはDTM)。

http://homepage3.nifty.com/tkoikawa/music/mahler/mahlerSym5_1st.mp3

観客は定期会員の人も多く、交通手段がなくなっていたので徒歩で会場に向かった人もいた。

演奏会が終了したあと、観客の多くは帰宅が困難になり、ハーデング゛をはじめ団員たちと、会場で一夜を明かしたそうである。
あとからハーディングから、会員にはメッセージが届いたとのことで、彼にとっても忘れられない演奏会になり、マーラーの5番を振るたびに、この日のことを思い出すことになるだろうという主旨のことが書かれていた由だ。

その全文が、新日フィルのページに掲載されている。

観客がたまたま演奏会の模様を音声を録画していたことから実現した番組と見受けたが、音楽番組ではないためか、演奏の様子は各楽章とも途切れ途切れにしか聴かせてくれなかった。
しかし、断片的にしか聴けなかったのだが、凄まじい演奏だったことは分かった。こんな時でないと可能とならないような、超名演だったのではないだろうか。

また、ハーディング指揮マーラー室内管弦楽団の演奏会に行ったときの記事に書いたが、ハーディングって結構スゴイ指揮者なのかも知れない、とそのとき思ったのだが、その前にこんなことがあったということは全く知らなかった。
地震のあまりないイギリスの出身であるハーディングにとって、恐怖と驚き、そして不安は、日本人のそれを遙かに上回るものだったはずだ。
それを乗り越えてあのときに演奏会をやったということで、指揮者としても大きなものとなったのかも知れない。
新日フィルのページに載っているメッセージの内容から、彼が1人の人間としても素晴しい人であることが分かる。

マーラー室内管弦楽団の大阪公演のとき、いつまでもいつまでも拍手が鳴りやまなかったのは、こうした経緯を知っていたファンが大阪にも多数いた、ということであれば説明もつきそうだ。

ただ、残念なのは、観客の一人の証言によると、当日こうした演奏会に行ったということを口外するのが憚られる月日が続いたとのこと。居るんだよねぇ、こういう人。
当日の観客だった人たちが、ようやく発言する気になり、こうした番組か成立したのだろう。

だって、マーラーの5番って、確かに葬送行進曲で始まるが、哀しみだけでなく、怒りとか寂しさとか慰めとか、色々な要素が詰め込まれているのだ(マーラー全般に言えることでもあるが)。
楽しい音楽の演奏会ならともかく(私はそれでもいいと考えるが)、哀しみも怒りも詰め込まれた曲である。

そして、有名なアダージットの楽章(もちろん、これもDTM)

http://homepage3.nifty.com/tkoikawa/music/mahler/mahlerSym5_4thMvt.mp3

で慰められたあと、喜びが優勢となる最終楽章に至るのだ。

震災の本当の深刻さを観客も団員もハーディングも本当に知ることになるのは翌日以降ということになるが、当日、あんな状況であの曲を聴いた、演奏した、という経験は、震災被害の深刻さに向き合うとき、大きな支えになったのではないだろうか。

と、ここまで書いたが、この曲が、こうした時にも、むしろふさわしい曲だというのは、全く気付かなかった。
上記のDTMを引用した私のページに書いた通り、マーラーの中では少し落ちると私は思っていて、余り何度も聴いてはいないが、過去に1年で2回も名演に接したことがある(若杉弘がケルンを引き連れて凱旋公演した年、テンシュテットによるレコードが出た)。
今回も、断片的だがそんな経験ができた。どういうわけか、聴くときには名演にあたる確率が高いかも。

とは言え、私のリファレンスはバーンスタイン指揮ニューヨークフィルのもの。

ただ、今回放送された秘蔵?音源によるものがもし出たら、リファレンスとは異なった意味を持つ、特別なものとして手許に置くことになるだろう。

(追記)
番組内でも紹介してていたような気がするし、上掲のハーディングのメッセージにも書かれているのだが、当日会場に来れなかった人たちのため、チャリティコンサートとして、同じマーラーの5番を中心としたコンサートが催された。それが6月20日のこと。
上記に引用した、マーラー室内管弦楽団大阪公演の8日後のことだと気が付いた(気付くのが遅い・・・)。8日しか経っていない。

その、20日のコンーサトに行かれた方の、素晴しいレポートを見つけた。

nailsweetさんのLangsamer Satsというブログに書かれている。昨年の記事だが、紹介しておきたい。

2012年3月 9日 (金)

名曲探偵アマデウス 2012年2月22日 フランク ヴァイオリンソナタ 続き

2月24日付けの記事で、「アマデウス」でフランクのヴァイオリンソナタを採り上げたことに関して、「もしこの曲をまだ聴いたことがないのであれば、本当に幸せな人だと思う。こんなに素晴しいメロディーに溢れた曲を聴く楽しみがまだ残っているから」と書いた。

関連し、DTMで2つ作ってみたので披露したい。

まず、第1楽章の第1主題。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/franck/ViolinSonata1stMvt_opening.mp3

これは、後続の楽章全てに出てくる。「循環形式」である。

そして、第4楽章の第1主題。喜びに満ちているようでもあり、切なさもありという、一筋縄では行かず一言では説明し難い感じがフランクの魅力でもある。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/franck/ViolinSonata4thMvt_opening.mp3

さて、楽しみにしてきた「名曲探偵アマデウス」だが、本放送は既に終っていて、今年にかけて放送していたのは「セレクション」として、放送済みのものからピックアップして再放送していたものである。
私は本放送自体、かなり後になってから知ったこともあり、毎回録画してはこの欄に採り上げてきた。
しかし、いよいよ3月で終ると言う。

これほど、色々と教えられる番組もなかった。「N響アワー廃止」ほどには唐突でないので、ある意味仕方ないとも思うが、N響アワーのアト番組が何の期待も持てないものである以上、楽曲分析に力を入れたこうした番組は、何かの形で早々に復活してもらいたいものだ。

2012年3月 7日 (水)

N響特別演奏会2012年2月27日 ラフマニノフ2番とラプソディ

2月27日の掲題のコンサートは、N響の大阪スペシャル公演で、NHK大阪ホールでなく、ザ・シンフォニーホールで行われた。みずほ銀行の協賛によるもの。
曲目がラフマニノフの交響曲第2番とパガニーニ・ラプソディということと、N響がNHK大阪ホールで演奏したのは聴いたことがあるが、ザ・シンフォニーホールでは聴いたことがなかったので出かけたのである。指揮は尾高忠明。

実は不安が半分ほどあった。パガニーニ・ラプソディは大好きな曲でホームページにも載せているほどなのだが(「題名のない音楽館」内の「パガニーニ・ラプソディ」のページ)、それだけに思い入れも強く、なかなか「これ」という演奏に廻り逢えないでいる。
まして、ピアノが小曽根真というので・・・。まあ、交響曲第2番をナマで聴いたことがない、というのでなければ、パスしたかも知れない。

小曽根真はジャズを軸足に置き、クラシックのコンサートにも出演する機会が増えつつある人で、N響アワーなんかで聴いたことがあると記憶するし、最近では「名曲探偵アマデウス 2011年9月24日放送」で、「ラプソディ・イン・ブルー」を演奏したのを聴いたことがある。
その記事にも書いたが、「ラプソディ・イン・ブルー」はガーシュウィンがクラシック音楽の入り口に立つために書いた曲であり、自分でもピアノが弾けたから、とくにピアノパートはかなり書き込んである。そしてクラシック音楽として書いたのだから、ジャズピアニストが勝手に料理するのは間違っていると私は考えている。まあそれでも「アマデウス」の演奏例として弾いたときのものは、ジャズのアドリブへの脱線は最小限に留まったので「まし」だったのだが。

それで、まさかラフマニノフでは脱線するまいなーと不安だったのである。

そして、不安は、不幸にも的中してしまった。初めのうちほどおとなしくしていて「おっ、まともに演奏する気でいるのか」と見守っていたら、曲が進むにつれて少しずつ脱線して行き、脱線の度合いが大きくなり、遂には例の第18変奏を、キッチリと終らずに要らないアドリブを付け加えて長く引っ張るという愚挙をやらかした。
あの第18変奏は、いつまでもメロディーの素晴らしさに浸っていたい処を断固として打ち切って次に進むからこそ価値が大きいのだ。しかも、全体にわたって然りなのだが、とくにその後の部分から終りにかけて、全然弾けていないのである! 音の粒立ちがなく、隣の音どうしが繋がってしまっているのだ。

こんな演奏は絶対に認めない。ラフマニノフこそ、ジャズではなくクラシック音楽だ。ちゃんと弾けもしないのにアドリブで遊ばんでほしい。オモチャにしないでもらいたい。
また、こんな演奏で拍手する人がいるんだ、これが。この演奏が気に入らなかった人は私だけではないはず(周りから聞こえてくるヒソヒソ話しで分かる)。なのに殆どの人が拍手する。私は断固拍手を拒否した。

アンコールとして1曲披露した。
何を演奏しているのか初めは分からなかったが、協奏曲第2番の第2テーマを、ジャズ風にしたものだと気がついた。まあ、これは許せんでもない。一応これは拍手しておいてやった

不満が残ったまま前半を終え、後半が一番聴きたかった第2交響曲。

この曲、ピアノ協奏曲の2番とか3番のあとに聴き始めたこともあり、何か二つの協奏曲の影を引きずるというか、ピアノ協奏曲だったらもっと巧く書けただろうに、という思いのすることが多かった。
しかしその後何度か聴いているうちに、これはこれで、独特の魅力のあることが分かってきたのである。一種、ハマる要素がある。

そして、ナマで聴いて良かったと思ったのは、この曲が・・・当たり前のことなのだが・・・大編成のオケを駆使し、チャイコフスキーを彷彿とさせる凄まじい音響を伴う曲だった、ということである。音響だけではない。チャィコフスキーの曲に多く出て来そうな音型も処々に登場する。

ラフマニノフは20世紀の作曲家としては古風な作風を採っていったが、反面、チャイコフスキーという偉大な先達の影に脅かされ続けた人だった、と言うこともできそうだ、と改めて思った。
尾高の指揮も中々良かった。というか、最近安心して聴ける指揮者の1人だと私は考えていて、その期待を裏切らない出来だったと思う。

さて、「ラプソディ」については先に挙げたページに詳しく書いてあるので、ここでは交響曲の、私のリファレンス盤について。
余り幅広く聴いては来なかったのだが、プレヴィン盤を挙げておく。

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