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2012年2月

2012年2月28日 (火)

N響アワー もう見ないし聴かない 廃止という愚挙、絶対許さない

色々と考えたし悩んだが、N響アワー、もう見ないし聴かないことにしました。

3回分ほど録画が溜まっていましたが、身ずに消去しました。タイマー予約も当然、解除。

廃止という愚挙、絶対に許さない。NHKが自ら築いてきた伝統を、自らの手で破壊するとは何たるアホをやらかしてくれるのか。

残り2回分には、過去から関わってきた人たちをゲストに迎えるらしい。その前の1回、2012年3月4日は「永遠の名曲たち」の「最終回」だということで、「春の祭典」をやるとのこと。
「ハルサイ」が「名曲たち」の最終回ってことはないだろう。まだまだラインアップが用意されていたはずだ。1年ほどでたった10曲ほどで「名曲たち」を終えてしまうということ自体、不自然極まりない。

まだまだ続けるつもりで昨年、このシリーズを始めたというのが目に見えている。

問い合せを送信し、2回とも回答は来たが、何ら答えになっていない。裾野を拡大したいとか別のジャンルのものもやりたいからと言って、もしそう考えるのであれば、別枠で増設するのでなければスジが通らない。何が「別枠による増設もチャレンジしましたが」だ。
絶対そんなのウソだ。最初に「廃止」ありきだったのであり、増設へのチャレンジなんてしていないとしか思えない。テレビだけでゼイタクにも4つものチャンネルを持っていて、増設できないなんて、あり得ない。もし増設によって何か1つ番組が消えるとして、消えても殆ど影響なさそうな番組、どれとは言わないが幾らでも見かける。

そもそも、こんなことをしてまで「裾野拡大」や、ジャンルの拡大なんてする必要を、私だけでなく多くのブロガーは認めていない。N響アワーのレベルで丁度良いのだ。あれの水準を落としてはならないし、落とす必要は全くない。あの番組こそが、「入門者に分かりやすく、ファンにも満足して頂ける」番組そのものなのだ。あの番組でクラシック音楽の深みなどを知り、レベルアップしてきた、と言う人が多いのだ。

また、あれによって、N響の演奏の内容や水準を知り、良かったと思えば現在BSプレミアムでやっている、コンサート全曲を改めて聴いたり、また曲目は変るが別の機会にN響を聴きに行く、というサイクル出来ていたはず。

「ららら」のNCとして作家の兄さんを前面に出していたNHKが、2回目の回答で突然、加羽沢美濃を強調したのだが、彼女はクラシック畑の本流ではない。

大体想像がつくのだ。
オーケストラの曲をピアノでチョッチョイと即興で弾いてみせたりするのは得意だから、それによって十分に「クラシックに詳しい人にも満足頂ける」とか思っているのだろう。

違うのだ。
うまく説明できないのが自分でももどかしいが、それはクラシックをネタに遊んでいるのに過ぎない。曲の成り立ちや構造、作曲家としてのサウンドの作り方、メロディーの特徴などを説明し繙いて行く、というのとは違う。
しかし、そんな風になってしまうはずだ。やはりこれは決定的に違う。

才能があると言っても、加羽沢美濃のような才能は、こうした番組には向かない。彼女を私は好きだし、評価もしているが、だからこそ向いていないと断言できる。
それも、もし西村氏と組んで、というのであれば別の面白さが生じるかも知れないのだが、少し詳しいとされる作家の兄さんと組んで、どんな説明になるのか、想像しただけでゾッとする。

誰がそんな番組を見るものか。

日曜の夜9時代って、他の局でバラエティやドラマなど、興味を引きそうで楽しそうな番組が目白押しなんだ。そんなことくらい、知らないとは言わさない。そんな時間帯に、リアルタイムであれタイムシフトであれ、わざわざ時間をとって見てやろう、と考えるのは、それこそ従来NHK自身が育ててきた、N響アワーの視聴者に他ならない。
そして、今後も、ゆっくりではあろうが、そうしたファン層は厚くなり続けたはずだ。
こんな「廃止」などという愚挙をやらかさないでいたら!!

そして、こんな時間帯にこうした番組を見ようと思う人は、そうしたファン層を除き、殆ど存在すらしない。
また、もし「ららら」を見る人が少しでもいたとして、また、もしそれだけを見て育つ人がいたとして、どんなレベルのファン層が育つというのか。

そんなこんなで、この話を知ってからの精神的なダメージは甚大で、かなり色々とやる気を失っているのが実情だ。

そして、終ることが分かっているこの番組の録画を見る気には到底ならなくなったのだ。
岩城-阿木時代のVHSをDVD化するという作業も、少し残っているのだが、そんな作業を思い立ったのも、現在に至る、そして将来とも続く番組で、以前、こんな風にやっていたという記録と思い出のためである。番組自体が消滅してしまったら、そんな意味は半減してしまう。もう、この作業を続ける気力も失った。

私は黛敏郎時代の「題名のない音楽会」のビデオをDVD化するのも少しずつ進めている。あれも、あのまま消滅していたらどうなったかと言うと、N響アワーほどのことはなかっただろう。黛敏郎時代の「題名」は、もしあのまま終っていまったのだとしても、もの凄い価値があるからである。文化財といっていいほどの価値があるからである。

繰り返すが、N響アワーの廃止という愚挙、絶対に許さない。

むしろ、怒りを通り越して、ひたすら悲しく、またひたすら寂しいのだ。
そんな形で残された放送を、もう私は見る気がしなくなった。録画する気もなくなった。N響アワーの番組評も、もうやめる。

これで、あの番組のファン、い-ち ぬ-けた、というわけだ。ザマア見ろ。

2012年2月27日 (月)

題名のない音楽会 2012年2月26日 ベートーヴェンの真実

「恋多きドケチ!? これが本当のベートーヴェン」と題し、人々が通常抱いているベートーヴェンのイメージと、実際はどうだったかを対比する内容。

説明されていたことの殆どは、私は既に知っていることだったが、オケを実際に鳴らして幾つかの試みが為されたのは興味深かった。

1つめは、ベートーヴェンが自らメトロノーム記号によるテンポ指定をしたが(メトロノームを発明したメルツェルがベートーヴェンと同時代の人)、それが以下にデタラメだったかという話があり、交響曲第9番の第3楽章を、通常行われているのと近いテンポと、ベートーヴェンのメトロノーム指定による「四分音符=60」で比べてみたもの。
通常行われているテンポの倍近く速いテンポとなるのだが、私は何の違和感も感じなかった。

ゲストとして池辺晉一郎が出たのだが、彼によるとこれは、ベートーヴェンがピアノで作曲したことと関係があるらしい。ピアノで独りで演奏して作った曲を、実際にオーケストラでやると、ピアノのときより遅めにした方が良いと思えることがあるそうだ。池辺自身もそんな経験があるとか。

また、オーケストラにトロンボーンとピッコロを初めて導入した、ということから、実際にそれを使った、交響曲第5番の第4楽章のアタマを、その2つの楽器を入れた形と入れない形で聴き比べをさせてくれた。これも良かった。DTMだとこんなことはたやすいことだが、実際のオケで聴いてみる意味は大きい。

幾つかの交響曲の、各々一部ずつを採り上げ、最後のシメは第7交響曲第1楽章の抜粋となった。

この第7交響曲、なぜか良く聴かれるようになった。標題なしの曲としては異例のことかも知れない。やはり全編を貫いて流れる躍動感やリズムが親しみやすいということなのだろう。

そして私は、この曲を聴くたびに、昔、音楽仲間と「ベートーヴェンはロック、チャイコフスキーは演歌」と言い合っていたことを思い出すのである。

ここ何回か、良い企画が続いている。
穿ちすぎかも知れないが、「N響アワー廃止」の影響ではないだろうか。若干アカデミックなことにまで突っ込んだ解説が為されるのは、番組のレベルアップに繋がるし、少しでも黛敏郎時代の雰囲気を思い起こさせてくれる。
N響アワーが死ぬことになった今、益々頑張ってもらいたい。

2012年2月26日 (日)

特選オーケストララトブ 兵庫芸術文化センター管弦楽団

牛牛(ニュウ・ニュウ)ってピアニスト、結構スゴイのかも。

兵庫芸術文化センター(以下、PAC)の、2011年9月11日の演奏会については2月22日付け記事で既に触れた通り2月19日の「オーケストラの森」で放送されたが、そのコンサートの全てが2012年2月26日に放送された。

ここで、「オーケストラの森」ではカットされていた、牛牛の演奏を聴くこととなった。

実は殆ど期待していなかった。そもそも若くしてデビューしたとかで注目され云々ということについて、私は殆ど信用しない。そんなこと、この分野では「よくある話」だからである。また、中国人であることも、私にとって進んで聴きたいとは思わなかった要素だ。ユジャ・ワンは例外としているが、テクニックだけで内容は空疎、というピアニストが多いからだ。
「題名のない音楽会」の2012年1月15日放送分にも牛牛は登場したので、1月19日付けの記事でも、以上のような主旨のことを書いた

だからこの放送も、「オーケストラの森」で殆ど聴いたことを考えると、録画ならば、即、見ずに消去したはずだ。
処が、行き掛かり上、放送と同時に見ることとなってしまい、結果として半ば強制的に(?)聴くハメとなったのである。

処が、これが結構良かったのだ。
ショスタコーヴィチの協奏曲第1番と、ラフマニノフのパガニーニ・ラプソディを演奏した。ショスタコーヴィチは、上記の「題名のない音楽会」で後半だけ演奏したのを聴いていて、それなりに評価はしたのだが、全曲を改めて聴き、結構いいかも知れないと思った。

パガニーニラプソディは、彼の演奏では初めて聴いた。
これも、期待以上にいいかも、と、途中までは思っていた。
ラフマニノフのこうした曲、プロのピアニストでも最初はどう弾いたらいいのか戸惑う、という話を最近聞いたことがある。そもそも、右手と左手をどう分けて弾くのかということ自体、判断し難いのだそうである。私が考えるに、さらにそれを、指の力の入れ方やタッチの微妙な加減を、10本の指の全てについて注意深く行わないと音楽にならない、ときている。その辺りのテクニックはかなり優れていると見たし、私がこの曲に描くイメージに近いまま進んで行った。

そして、あの第18変奏になり、引き続き私のイメージは壊されることなく・・・泣かされるほど凄くはなかったが、それは仕方ない・・・第19変奏からコーダへ進んで行ったら、途端に乱れ始めてしまった。で、曲が終ったら「ああ、まだまだやなー」という感想が残ってしまったのだ。

これ、結局は曲の性質そのものと深い関係があるのではないだろうか。

ショスタコーヴィチの協奏曲は、ショスタコーヴィチとしてはかなり明るく無邪気な雰囲気に包まれているにの対し、ラフマニノフのパガニーニ・ラプソディというのは、例の第18変奏で少し明かりが見えはするものの、基本的には決してノー天気な曲というわけではないからだ。
パガニーニラプソディは、結構凝ったつくりの変奏曲であり、第18変奏も、初めは分かりにくいが、歴とした変奏曲のキマリによって作られているのだ。そして、曲全体としては、私には薄暗いイメージが漂う感じに聞こえる。第18変奏も、光を一瞬浴びるようではあるが、晴天とはほど遠い。こうした陰影を表現できるのは、まだ14歳だから無理、ということではなく、才能の一部と言ってよい。それが言い過ぎというのであれば、曲の向き不向きということのなる。
(ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番については、私の「題名のない音楽館」内の「ショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲第1番」の稿を、また「パガニーニラプソディ」については「パガニーニラプソディ」の稿をご参照ください)

早い話が、牛牛にはショスタコーヴィチの協奏曲の方が向いている、ということである。ラフマニノフは、まだまだ。
で、ここでは私のリファレンスとして、上記のページでも挙げたが、アルゲリッチによるショスタコーヴィチのみ挙げておく。ラフマニノフのパガニーニ・ラプソディは、意外と最善のものがないのだ。デュトワ指揮のN響とやったときのユジャ・ワンが今まで聴いた中の最善だったが、マーラー室内管弦楽団と出したCDが、つまらない出来だったのでオススメとしては躊躇するので。

パガニーニ・ラプソディのあとの曲は、ファリャの「三角帽子」。この曲については、上記の2月22日付け記事で書いたことにつけ加えることはないので、ここでは省略する。

プログラム全てを通して聴いて見てみたが、曲の順に従ってオケの規模(人数)が次第に大きくなって行くのが面白かった。
このときの演奏会は、9月に団員のかなりの人数が入れ替わったこともあり、ファンに対して、順に「お披露目」をする、という意味も込めたプログラミングだったのかも知れない。

2012年2月25日 (土)

名曲探偵アマデウス 2012年2月15日 チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番

探偵事務所に就職を希望して来た、就活中の女子大生がクライアント。ミステリー研究部に所属。好きな曲は、チャイコフスキーのこの曲、と言うので、探偵が喜び勇んで「面接試験」と称し、曲の分析を担当させる。

冒頭に出てくるテーマは余りにも有名だが、第1楽章全665小節の内107小節にも及ぶこのテーマ、後には全く出て来ない。言わば、これがこの曲の一番の謎である。

番組内で進められた「謎?解き」と、並行して進められた分析の推移は省略する。
また今回の分に関しては、演奏例がアルゲリッチによる、という贅沢なものであり、初演の至る経緯などの説明など、知っていることが殆どだったので、解説の概要も省略。
第1楽章について、主題が幾つ出てきて、一つ目はウクライナの民謡を思い出させるメロディーだとか、その間の推移部がどうだとかいう説明もあったが、それ以上は敢えて書き留める気にはならなかった。

ただ、最終稿に至るまでにさらに作曲者自身が改訂を加え、出版されるまで14年かかったというのは参考になった。その最も著しい改訂が第1楽章冒頭のピアノが、現状版に比べて狭い音域で、叩きつけるような和音ではなくアルペジオだったという点である。
これを、初版と現在の稿について弾き分けて聴かせてくれたのが、小山実稚恵。そのまま演奏例にも登場して良さそうな布陣で、何ともゼイタクなことである。

第3楽章でも音域の拡大という改訂が一部にあるそうで、これは目で見て分かるようにしてくれていた。

また、小山曰く、この曲によってピアノという楽器の位置づけか、ピアニストにとっても聴衆にとっても一段と大きなものとなった。
確かに、とくにラフマニノフに典型的だが、このチャイコフスキーの曲がなかったら、今の姿で残されてはいないだろうという、その後のピアノ協奏曲が幾つもありそうだ。

さて、アルゲリッチによる演奏例が実に凄かったので、DTMで鳴らすなど、大いに気がひけるのだが、良く知られたと初めに書いた、この曲の冒頭部はこんな感じである。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/tschaikowsky/klavierkonzert%201_1st_opening.mp3

ここに出てくる、最初の一音目の和音の叩きつけからして、アルゲリッチの凄さったらないのである。テレビで見ていても、「腹に響く」感じがした。
東京芸大のオケで指揮はパッパーノ。サスガ芸大のオケだ。なまじの学生オケとはレベルが違った。また、独奏者だけでなく、指揮者もゼタイクな人々を呼んで来れるものだ。

さて、結局この女子学生は、探偵が「是非とも」とOKするのを断り、事務所を後にする。あまり客が来ずにヒマそうだし、テーブルの掃除も行き届いていないなど、将来性がないと見越してしまったためである。

さて、出版までに14年かかったということだが、もう1点、私がかねてから疑問に思っていることがある。
第2楽章冒頭の、フルートが主題を吹き、ピアノがそれに続くという部分である。
この曲を古くから知っている人、こんなふうではなかっただろうか。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/tschaikowsky/klavierkonzert%201_2nd_opening_oldver.mp3

フルートで奏されたのと全く同じメロディーがピアノにも登場するというわけで、ごく自然な流れだ。このメロディーは、この楽章を通じて何度も出てくるが、この形でしか出て来ない。
実際、私はこの形で聴き馴染んだのである。

しかし、何時の頃だったか、ある時点で、最初のフルートだけ、1つだけ音を変えて吹かれるようになった。上に例示したものと、フルートの音1つたけが違う状態だ。(こんなことをシロートがパッと示せるのも、DTMの良さだ)

http://tkdainashi.music.coocan.jp/tschaikowsky/klavierkonzert%201_2nd_opening.mp3

何でこういうことになったのか。以前から持っている音楽の友社のスコアは、フルートが同じメロディーで登場する版。この機会に全音のものを買ってみたが、改訂の詳細は記載されているのに、その改訂に関する説明はなかった。音楽之友社の新版には書いてあるのかも知れないが、2冊も新版を持つほどゼイタクはできないし。

まあ色々とあって、結局は「チャイコフスキーがこう書いたのだから」というのが定説となり、現在演奏されている形になったのだろう。しかし、なぜここだけ違う音にするのか、どう考えても分からない。

さて、この曲というと、やはりアルゲリッチだ。何種類か出ているが、代表的なものを2種類ほど挙げておきたい。
アバト指揮ベルリン・フィルとの、言わば「定番」とされているものと、コンドラシン指揮による、殆ど伝説化されているライブだ。後者は確かレコードで出たとき、オビに「ピアノが燃えた」なんて宣伝文句が書かれていたはずだ(燃やしちゃいかんだろう)。小朝がネタにしていた。新品の入手は困難かも知れないが聴く価値あり。。

2012年2月24日 (金)

名曲探偵アマデウス 2012年2月22日 フランク ヴァイオリンソナタ

記憶喪失した男がクライアント。アタマの中で鳴り続けている曲のメロディーを口ずさむと、探偵が「それは、フランクのヴァイオリンソナタ」だとして、曲を聴き進めながら「謎?解き」を進めて行く、という内容。

その、並行した「謎?解き」のブロセスは省略する。
概ね、下記のような内容が説明された。

  • 第1楽章の始まりは、イ長調だが調性が曖昧で、夢と現実の間を浮遊した感じになる。属九の和音を多用し、調性が次々に変る。
  • 第2楽章の不安な感じは、半音階とシンコペーションの多用による。
  • ここで第2楽章で第1楽章の主題が出るが、次の楽章にも、最終楽章にも出る。「循環形式」で、フランクの作風。楽章どうしを有機的に結びつけ、曲全体に統一感を与える。
  • 第3楽章は、フランク自身によって「レシタティーボとアリア」と名付けられた楽章。ヴァイオリンとピアノが会話するように進んで行く。音楽の切れ目ごとににフェルマータが置かれ、2つの楽器が比較的自由なテンポで演奏する。それは、アウンの呼吸で進めねばならず、二人の奏者の信頼関係が重要となる。
  • 第4楽章は2つの楽器によるカノン形式で始まる。ここで鳴らされる音は、喜びに満ちたものだが、千住真理子曰く、「切なさも感じる」

私がこの曲を通して聴いたのは、そんなに昔のことではない。
しかし今、もしこの曲をまだ聴いていない人がいたら、本当に幸せな人だとさえ思う。こんなに素晴しいメロディーに溢れたヴァイオリンソナタを聴く喜びが、まだ残っているのだから。

演奏例と一部のコメントを担当した千住真理子も良かった。

実は、私は千住真理子ってヘタだなあ、と何度も思ったことがある。
しかし、この曲の演奏例(第1楽章と第4楽章の、それぞれ抜粋)は良かった。彼女が元々ヴァイオリニストになりたい、と思うようなったキッカケとなった曲だそうで、今も大好きな曲だとか。

まあ、そうした思い入れによる部分もあるかと思うが、ひょっとすると曲が余りにも素晴しいので、「百難を隠して」しまったのかも知れない(アラが見つけにくくなる、ということ)。

結局クライアントは、親友と二人でアルプス登山に挑み、途中で事故に遭い、ザイルの上側にクライアント、下側に親友という状態で宙づりになった。そのとき、親友が自分でザイルを切断し、落下していった。呆然となったクライアントは、親友の思いもあり単独で登山を続けて頂上を征服するが、その後意識を失った。その親友が好んでいた曲が、フランクのヴァイオリンソナタというわけだ。
これで終りかと思ったら、征服した山の頂上近くにしか咲いていない花を彼は置き土産にしていて、ひょっとして、彼は実際に生死の境をさまよっていて、さまよっている途中に探偵事務所を訪ねたのか・・・?? というオチになる。

さて、フランクの作風の特徴である「循環形式」だが、かねてから私は、分かりにくく実態を表わしていない用語だと思っている。
これ、前の楽章の主題が戻ってくる、または帰ってくることを言うのだから、「回帰形式」とでも称した方が、分かりやすいし実態に合うと思うのだ。てっきり「誤訳」ではないか、さもなくば、この業界にもある「権威ぶって難しい用語をわざわざ使う」という弊によるものではないか、と思ったこともある。

しかし、手許の辞典によると英語でcyclic formと称し、ドイツ語でもフランス語でも同じ主旨の言葉が書いてある。だから「誤訳」というわけではないようだ。

この曲、私の好きな曲となったが、キッカケは、我らが五嶋みどりの演奏による。そして、今回のコメントと演奏例に敬意を表し、千住真理子の演奏も併せて挙げておく。

2012年2月23日 (木)

「N響アワー廃止」についての2回目の問い合せに対するNHKの回答

本件に関し2回目の問い合せをした旨、2月21日付けの記事に書き、内容も紹介した。
意外と早めに回答が来た。送信した翌日だったと思う。
ページを行き来するのはお手数と思うし、NHKの回答についてどう思われるか考えて頂きたいという主旨もあり、併せて紹介したい。

以下、問い合せした内容。

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NHの廃止」について、再度お尋ね

過日本件に関する問い合せに対して回答メールを頂きましたが、分からないので改めて次の3点、回答願い度。

尚、過日のご回答は、何人もの方がほぼ同文のものを受領されたことが既に分かっています。機械的に処理されたとしか考えられない。そのようなことのない回答をお願いします。

1.     ニーズの多様化云々

仮に「是」だとして、それならば予定中の番組を、別枠で増設するのがスジ。貴局なら増設枠など幾らでもありそうな処、「NH廃止」選択の理由は?

2.クラシック寄りの音楽番組で、素人のMCを据える理由は

こうした番組は、作曲家や指揮者など、音楽全体を見渡せるプロが、専門的な見地から話してくれる「解説」がキモ。素人の「解説?」など何の参考にもならない。

3.新番組の視聴者ターゲットはどんな人を想定?

なぜ、これによって「裾野」が拡大すると見込むのかについても、併せて。

それに対するNHKからの回答。宛先が実名のため削除するが、あとは原文のままである。

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いつもNHKの番組やニュースをご視聴いただき、ありがとうございます。
お問い合わせの件についてご連絡いたします。

ご指摘のとおり専門的な見地からの解説は大切で、司会には作曲家の加羽沢美濃さんをお迎えしています。
また、演奏家をはじめとした音楽家にも随時スタジオにおいでいただき解説してもらいます。
ターゲットについてですが、クラシックファンに納得いただく内容で、しかもクラシックビギナーの方にも分りやすい番組を目指しています。
番組に対するご指摘をどうもありがとうございます。
別枠で増設とのご指摘も頂戴しましたが、現状では「N響アワー」をリニューアルして満足いただける番組となるよう準備をすすめています。

今後とも、NHKをご支援いただきますようお願いいたします。
お便りありがとうございました。

NHKふれあいセンター(放送)

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率直に言って回答になっていません。論点がズレていたり、MCとして加羽沢美濃をイキナリ前面に出したり、N響アワーのリニューアルだなんて称してみたり、番宣とは違うニュアンスを出したりしている。
この回答で納得することはありませんが、今後の攻め方が難しいナと感じています。
他の「廃止反対」の皆様の様子も窺いながら、今後の対応を決める予定です。

現実には、見たくないけどその新番組を1回は見てやって(「もらっといてやる」発言で物議をかました、無礼千万な作家のまね?)、見た直後から抗議メールを送りつける、ということだろうか。

もうNHKとしては規定路線だから、「廃止」の撤回はないでしょうね。

2012年2月22日 (水)

N響 第1714回定期 マーラー4番 他

2011年11月26日好演、放送は2012年1月22日(日)、BSプレミアム。
曲目はマーラーの「リュッケルトによる5つの歌」と、4番。
ダニエル・ハルプヴァクスのソプラノ、指揮が準・メルクル。

私は準・メルクルの指揮に満足したことがない。それでもマーラーということで聴いてみた。

「リュッケルト」は、ちゃんと全曲通じて聴いたことがない。そのせいかも知れないが、改めて聴くと、それなりにマーラーの魅力がタップリ詰まった曲であることを感じることができた。ソプラノも好演だったと言っていい。

ところでこの曲、字幕解説によると、もともと連作歌曲集ではなく、バラバラに作曲されたものであり、歌を支える管弦楽の編成もバラバラ。そして、どんな順に演奏されるかは、演奏者の判断に任されている由。

おかしなことが起こるものだ、なぜマーラーは出版するまでに編成を揃えなかったのか、またマーラーがどんな曲順を考えていたのかなど、マーラーが校訂して出版したものがあれば、その順が正しいのに・・・と思って手許の辞典にあたると、驚いたことに、曲名すら掲載されていない。

私の手許にあるのが旧版だからかも知れないが、この段階で何となく分かったのは、マーラーの死後に発掘された曲なのかも知れない、ということである。であれば、マーラーの曲を埋もれさせたくない、という多くの人の思いによって、現在までに演奏されるようになったのかも知れない。

さて、4番である。

楽章を追っていくうち、準・メルクルの表現が、テンポを触りすぎるし、それも緩急の差を付けすぎだし、次第に気になってきた。
そして第4楽章でソプラノが入ると、これがいけない。この曲としては声が(ついでに、見た目も!)豊かすぎるなあ、と思いながら見始めたのだが・・・その段階では、この人はむしろヴァーグナーなんかの方が似合うのではないか、などとも思ったのだが・・・次第に音程を外し始めたのである。

こうなっては、もうガマンできなくなる。併せて、高い音もちゃんと出なくなっていった。殆ど最後の数小節を残す処まで進んでいたが、途中で切ってしまった。

やはり、準・ルメクルの演奏、今回も不満だらけであった。なぜこの人が評価されるのか、全く分からない。マーラーの4番の演奏としても、ダメ。

私の4番のリファレンスは、永らくバーンスタイン指揮 ニューヨークフィルの演奏。そして最近(と言っても少し前のことになるが)、いいなあと思ったのは我らが森麻季がソプラノを担当した、ベルティーニ指揮 東京都交響楽団の演奏である。
本当のことを言うと、ベルティーニの指揮は余り買わない。しかし3楽章までに積もるだろう不満も、第4楽章のソプラノが素晴しいので、全て吹っ飛ぶ・・・という演奏なのである。森麻季のファンでまだ持っていない人に特にお勧めだ。

この4番について、ソプラノのできで価値が変る、といったことを含めた私の記事は「題名のない音楽館」内の「マーラー 交響曲第4番」を併せてご覧頂けると嬉しいです。

オーケストラの森 2012年1月19日 PAC

2012年1月20日付けの記事で、兵庫芸術文化センター管弦楽団(以下、PAC)のコンサートを聴きに行ったときのことを書いた。
そのまさに同じ日、同じ楽団が「オーケストラの森」で採り上げられていた。

おかしな日にやるものだ。この「オーケストラの森」は、N響アワーの枠で、主として「大の月」で、5週目にあたる日曜に放送されている番組だからである。N響アワーは月に4回と決めているらしく、5回目の代わりに「オーケストラの森」を放送するというわけだ。
番組の案内をプリントしてみたら、1月13日の金曜に放送予定、となっている。そんな日に放送されていたら、通常タイマー予約をかけていない日時だから、危うく見逃す処だった。

何かバタバタしている感じがする。
色々な点から見て、私は、N響アワーの廃止という超・愚挙・暴挙は、かなり唐突に近い形で決まったのではないかと睨んでいるのだが、これもその1つの表れではないだろうか。

で、何とか見ることができる状況にはなっていたが、同じオケをナマで聴いてきたあとにテレビで・・・という気持には中々なれず、ようやく火曜(21日)に見ることになった。

ご存じない方のために付言しておくと、番組中の解説にもあったが、阪神大震災の復興事業の1つとして、また復興のシンボルとして西宮に設立されたのが「兵庫芸術文化センター」で、その専属オケとして「兵庫芸術文化センター管弦楽団」というわけである。
そのオケは、アカデミー的な位置づけ、即ち、このオケでの経験を活かし、各楽団員は3年内に次のステップ(別のオケへの就職など)に進むことになっている。だから毎年のように新しいメンバーが入ってくるということになる。

この楽団の音楽監督を、設立当初から務めているのが佐渡裕。

番組では、昨年9月からのシーズンでメンバーの半数以上が入れ替わったこと、練習を通じてメンバーが次第に打ち解け合って行き、音楽にも変化が出てくる様子を紹介し、その9月11日に演奏されたコンサートの模様を放送するというものだった。

曲目は、ストラヴィンスキーの「プルチネルラ」と、ファリャの「三角帽子」である。前者は全曲、後者は第1部の一部がカットされていたような気がする。

「プルチネルラ」は、2012年1月29日の「題名のない音楽会」で放送したときと同じ組み合わせということになる(1月29日付けの記事)。
そうか、演奏会にかけた曲で、テレビに出るという方法を採ったのかも知れない。
この曲について、上記の記事でも書いたが、私はよく分からない。今回も改めて聴き直したが、全く分からなかった。

処が、「三角帽子」が良かった。名演、いやスゴイという言い方の方が適切かも知れない。
聴きながら、ああ、この曲、大好きだ・・・と思った。
これほど、聴いていてエキサイトする曲も珍しいと思う。

ちなみに私はアンセルメ盤で聴き馴染み、最近ではデュトア盤がリアァレンス。
今ちょっとだけそれぞれ聴き直してみたが、放送されたPACの演奏の方が、より面白かったかも知れない。もちろん、オケの質は別にして。
佐渡は、深刻深遠な曲よりも、こうした曲の方が向いているのかも知れない。

処で、この楽団のあり方は、「育成を兼ねる」という方式で、素晴しい。海外から来ている団員も、佐渡裕に指導してもらうのを楽しみとして現地のオーディションに応募して合格し来日しているそうだし、リハーサルにタップり時間をとるので、凄く勉強になると言っていた。
しかし、在籍期間が3年と区切られ、その後は各自別のオケのオーディションを受ける、というのは、首尾良く受かる人はいいが、落ちてしまったらどうなるのだろう、と心配になった。

日本だけでなく海外も含めてオケは数あれど、団員の数なんて限られたものだし、空きがしょっちゅう出るはずもない。ベルリンフィルやウィーンフィルクラスならいざ知らず、財政状況も厳しいはずだ。
僅かな援助金でさえカットしてしまう、文化音痴の市長も、どこぞやにいるし。

2012年2月21日 (火)

「N響アワーの廃止」について2回目の問い合せ

「N響アワーの廃止」について、JIROさんによると、2回目の問い合せを出したがナシのつぶてで、それでも収まらず3回目を出された由。
私も1回目の、機械的に、予め用意されていたものをそのまま返してきたような「回答らしきもの」には到底承服しがたいので、2回目を送ることにした。

こんな内容である。400字以下という制限に収まるようワードで文字数を数えて調整したが、ワードとは違う制限があるかも知れないので、また、コピペしているうちに改善点が見つかるかも知れないので、実際の問い合せとしては、若干文面が変る可能性もある。

以下、問い合せ用として書いたものをコピペしたもの。
-----------------------------------------

NHの廃止」について、再度お尋ね

過日本件に関する問い合せに対して回答メールを頂きましたが、分からないので改めて次の3点、回答願い度。

尚、過日のご回答は、何人もの方がほぼ同文のものを受領されたことが既に分かっています。機械的に処理されたとしか考えられない。そのようなことのない回答をお願いします。

  1. ニーズの多様化云々
    仮に「是」だとして、それならば予定中の番組を、別枠で増設するのがスジ。貴局なら増設枠など幾らでもありそうな処、「NH廃止」選択の理由は?
  2. ラシック寄りの音楽番組で、素人のMCを据える理由は?
    こうした番組は、作曲家や指揮者など、音楽全体を見渡せるプロが、専門的な見地から話してくれる「解説」がキモ。素人の「解説?」など何の参考にもならない。
  3. 新番組の視聴者ターゲットはどんな人を想定?
    なぜ、これによって「裾野」が拡大すると見込むのかについても、併せて。


2012年2月20日 (月)

兵庫芸術文化センター管弦楽団 第49回定期 カムのシベリウス

オッコ・カムという指揮者は、「終った人」だと思っていた。

久しぶりにコンサートに行くことにして予約していたのは、しかもそれが兵庫芸術文化センター管弦楽団(以下PACと略す)の定期だったのは、3年前の2009年7月19日、リントゥ指揮PACでシベリウスの5番を聴き、中々良かったからである。
しかも今回は7番と2番ということなので、指揮者は率直に言って誰でも良かった。同じオケでシベリウスの実演を、また聴いてみたかったという要素の方が大きかった。
少しは期待もあったが、同時に、カムの指揮だと言うことで、むしろ不安の方が大きかった。冒頭に書いたように、「終った人」だと思っていたためである。

この人は1969年の「第1回カラヤン・コンクール」で独学で指揮を学んだという経歴ながら優勝してしまい、その勢いに乗って(優勝者のための特典だったらしい)、翌1970年、ベルリン・フィルでシベリウスの2番を振ってDGG(ドイツ・グラモフォン)からデビューした。
この録音(当時はLP)、私はCDになってから聴いたのだが、どうも今一だったのである。むしろ失望した、というのが近い。

「レコード芸術」などという雑誌を読んでいるわけではないので情報は限られるのだが、その後の活動も、少なくとも華々しい活動は、よく知らないでいた。
会場で貰ったパンフレットによると、フィンランドの幾つかのオケを中心として常任だか音楽監督だかを勤め、日本のオケにも客演したことがあるらしい。N響での客演が挙がっていないので、私が知らないはずだ。

私の情報源のメインはN響アワーに他ならなかったのだから!!!
誰だ、N響アワーを廃止するなんて決めたのは!!!
情報源の多くをN響アワーに頼っていたという人、私以外にも相当おられるはずだ。これは文化だ。
NHKたる者が、こうした文化破壊をやって平気でいる、という神経がもはや信じがたい。時たま良い番組があるし、何よりも現在であれば災害情報などは一番だから仕方ないが、そうでなければスグにでも受信契約を解除したい処だ。

・・・と、また怒りと哀しみが沸き起ってくるのだが、それはさておき・・・

N響にゲストとして招聘されないということ、それはN響の見識というものだと大きく評価してきた(今後はどうか知らないので、過去形)。話題になりそうであれば、あのド素人同然のF・Hなどという輩でも呼んでしまう「題名のない音楽会」との、大きな違いだ。

その意味でも、つまりN響に客演したことは挙げられていなかったので、パンフレットを見ても不安は解消されないでいた。

ところが、である。

プログラムの1曲目は「組曲 カレリア」で、これはまあこんなものだろうと思って聴いていたのだが、2曲目の「7番」で、「ああ、聴きに来て良かった」と思うに至ったのである。この曲って、こんなにいい曲だったのか・・・。

シベリウスの交響曲を集中して聴いた時期があったので、「全集」として、またはバラ売りで何種類か持っているし、当然「7番」も何種類か手許にあるが、カム指揮のものは、冒頭に書いたように「終った人」だと思っていたので対象外にしていたのだ。
手許にある演奏のどれよりも素晴しいというわけではない。しかし、良い曲だとは思いながら、私にはまだ何となく、曖昧模糊としてメリハリが少ない、という印象が残っていたこの曲、ひょっとしたらシベリウスの交響曲で一番の傑作かも知れない、と思わせてくれたのである。

曖昧模糊とした雰囲気は残るがメリハリもあり、起伏もあり、ああ、これこそがシベリウスの到達した境地なんだ、とも思わせてくれたのだ。ひょっとしたら、本来彼が描きたかったのはこちらの系統の曲なのであって、初期の「2番」あたりは愛国者的な作曲家として持ち上げられ、本人も結構その気になって熱情に燃えて書いてしまった、いわば気の至りの曲、というのが正しい見方なのかも知れない、とも感じた。

そんな気持になったあとに他ならぬ「2番」が演奏されたので、いつもとは違って、曲が始まってから、中々乗れなかった。

ようやく気を取り直して第3楽章から真剣に聴きだした。短めの第3楽章が、やがて第4楽章に繋がる、不思議だがダイナミックな推移部に入り、そして第4楽章の冒頭へ・・・。冒頭主題のテンポは・・・・。
これが、私の感じているテンポ感に殆どピッタリだったのである。

シベリウスの「2番」の第4楽章の第1主題。音階では「ド-レ-ミ-シ-ド-レ-ド」という、およそメロディーとも何ともつかないような音型である。シからミまで4度の範囲内でうごめくだけの音型。これが感動的に響くようにするには、後で何度も出てくるのを待つまでもなく、最初に出てくるときから存在感を持たせているべきだ、というのが私の感じなのだが、それがピッタリの入り方だったのである。
ここが巧く行ったら、あとはもう成功したと言っていいはずだ。
事実、この演奏もそうだった。

どっこい、オッコ・カムは「終っていた人」ではなかった。

若い時にデビューしているのでもっと年齢が進んでいるかと思っていたのだが・・・それも「終った人」だと思っていた原因の1つだが・・・1946年生れということだから65歳か66歳だ。指揮者としてはまだまだこれから。

会場でよくCDショップが出て、そのときの演奏者のCDを売っている。私は殆どそうしたコーナーに立ち寄ったことはないのだが、今回は立ち寄ってみた。
まあ、私は最近ネットで買うのが殆どなので、会場では手を出さずにきた。
で、改めて2番または7番の入ったものを探したのだが、新品はデビュー盤しか見あたらない(会場で売っていたのもそれだったのか??)。代わりに、私がよく聴くコリン・デイヴィス盤を挙げておく。

尚、定期でアンコールをやらないN響のような楽団もあるが、PACはアンコールをやる。フィンランドの指揮者だから「フィンランディア」をやらないと収まらないかも、と思っていたら、外れた。演奏したアンコールは、多分「悲しきワルツ」だったと思う。曲と曲名が一致しないので「多分」ということで。

2012年2月17日 (金)

名曲探偵アマデウス 2012年2月8日(水) 五重奏曲 ます

駅弁づくりの3代目当主がクライアント。田舎の駅で細々とやってきたが、売り上げ拡大を目指し、東京で一旗揚げたいと考えている。試みに東京駅のデパ地下に出してみたら、サッパリ売れない。
そんなとき、亡くなった祖父が夢枕に立ち、この曲を聴いて修行をやり直せと言う。その曲が、シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」というわけである。

「ます」(サカナの鱒)がテーマだから鱒ずしの弁当か・・・と思ったらそうう単純なものではなかった。しかしプロセスを書いても必要以上に冗長となるので、「謎(?)解き」の進行と、それに並行して進む楽曲分析の推移は省略する。
概ね次の点が説明された。

  • ピアノ五重奏の標準編成は、ピアノの他にヴァイオリン2挺とヴィオラ1挺、そしてチェロである。しかしこの曲はヴァイオリンを1挺として、コントラバス1挺を入れている。大変ユニークな編成である。
  • そうして、音楽の中で低音部をコントラバスに任せることにより、チェロは低音部を受け持たずに済み、メロディーを弾きに行ける。ピアノも同様。
  • 第4楽章の原曲は、シューベルトが以前に作曲した、歌曲「ます」である(このために、この五重奏曲も「ます」と名付けられた)。
  • しかし、原曲は変ニ長調だが、五重奏曲はニ長調。半音上げているだけだが、ニ長調は弦楽器、とくにヴァイオリンがよく鳴る調である。この一工夫によって演奏効果を上げている。
  • 「ます」の主題は親しみやすい。それは、その主題が主和音の構成音(ド、ミ、ソ)でできていることと、続きを含めても1オクターブ内に収まっていることにも起因している。
  • 主題と5つの変奏、そして最後に再度主題が出るという構成になっているが、変奏ごとに主役たる楽器を変えている。とくに最後の第5変奏はチェロが主役であり、アマチュアチェロ奏者である友人に「華」を持たせたのではないか。
  • 最後の主題回帰では、ヴァイオリンを歌手と見立てたかのように、ピアノが歌曲「ます」と同じ伴奏型を採る。

まあ「ます」の楽曲分析と言っても、どうしても第4楽章を中心としたものになるのは、時間の関係もあって仕方のない処か。
それに、私は思うのだが、やはりこの第4楽章がなかったら、この曲の魅力は半減するだろう。

全ての楽章が魅力的だし価値も高いと思うが、第3楽章まで聴き進めてきたあとに、第4楽章でこれが鳴り出したときの幸福感たるや、中々比べるものはない。ここには主題から第1変奏までを入れているのだが、ピアノが登場するのは第1変奏からで、ここで更に視界が開ける感じがする。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/schubert/klavierquintettOp114_4thMvt_opening.mp3

さて、番組の内容について一言だめ出し。
歌曲の「ます」は、こんな曲・・・と言って少しだけ鳴らしていたが、よりによって日本語で歌ったものを使った。今どきこんなことをやっていてはいけない。ちゃんとドイツ語で歌っている映像、NHKなら売るほど(!?)保有しているだろうに。

次に曲そのものについてだが、この曲を、楽しく明るい曲・・・と番組内でも言っていたし手許の総譜の解説にもそう書いてあるのだが本当にそうだろうか、と少し疑っている。

というのも、歌曲の「ます」には、ピアノ五重奏曲の「ます」で使われている明るい(と言われている)メロディーの次に、釣られてしまった「ます」が嘆いている歌詞のついた部分が出てくるのである。

後者はピアノ五重奏曲では登場しない。登場しないから分かりづらいのは確かだが、五重奏曲を作曲した当時、既に歌曲の「ます」は幅広く知られていたはずだし、だからこそこの曲を五重奏曲に入れて、上記の、アマチュアのチェリストも交えた親しい友人たちで・・・ピアノはシューベルトが弾いて・・・楽しんだのであるはずだ。
サカナの「ます」にやつして無常観みたいなものを歌っている、歌曲の「ます」と二重写しとなって、友人たちとの楽しい一時が、一期一会のものであり、もう二度とは戻ってこないかも知れない時間だ・・・という気持も表わしている、と考えても不思議はないと思うのだが・・・。
それともこれって、どうしてもウラを読みながら聴いてしまう、マーラーの聴きすぎだろうか。

ことの当否はともかく、私は、mp3ファイルをリンクさせた辺りでは「幸福感」とか「視野がさらに開く」などと書きはしたが、演奏によっては涙が溢れてくることだってあるのだ。
いや、マーラーの曲で、ある場合にに感じる哀しさとは異なるのであって、日本語の古語で、「かなし」は「いとおしい」という意味も含むが、ちょうどそんな感じなのである。

さて、番組内での演奏例は小山実稚恵とN響のメンバーによるもので、第4楽章のみ。それなりに良かった。

私はこの曲、しょっちゅう聴くわけではないので、余り比べることができるほどにはCDも持っていない。このため、名盤とされていて私も持っている盤を1つだけ挙げておく。ただ、新品の入手は困難かも知れない。

2012年2月16日 (木)

名曲探偵アマデウス 2012年1月25日 ツィゴイネルワイゼン 続き

2012年1月27日付の記事で上記の曲について、私は妙に艶(つや)っぽい雰囲気を感じる・・・と書いた。

その補足として、私がとくにそのことを感じる部分=中間部について、DTMサウンドができたのでご披露しておきたい。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/sarasate/zigeunerweisen_2ndPart.mp3

2012年2月15日 (水)

名曲探偵アマデウス 2011年9月24日 ラプソディ・イン・ブルー

事業団野球チームの監督がクライアント。
最近実績が上がらず、監督をクビになりそうだとのこと。会社の外国人オーナーがチームのテーマ曲を変えた。この曲を聞いたら勝てるようになるのか?という相談。

相談と、曲の推移につれて語られる「解決(?)」プロセスは省略する。
説明されたポイントは概略次のようなことだった。

  • ラグタイムのリズム(「後打ちが主体。ジャズの前身)を効果的に使用している。アメリカ ニューヨークの活気と多様性を表わしているように聞こえる。
  • フルーノートを使用。元々底辺で生活する労働者の歌っていた音階によるもので、労働の苦しさ、哀しさ、明日への希望などを感じることができる。
  • ポール・ホワイトマンがガーシュウィンと出会ってできた曲である。これにより、アメリカが誇る、アメリカの音楽が1つ加わることとなった。
  • 中間部のメロディーについて、ガーシュウィンは後に、「鍵盤に指を触れたとたん、メロディーが上から降りてきた」と友人に語ったと言う。(演奏例の途中、字幕解説で)
  • ピアノのカデンツァを、ジャズ的な即興演奏で弾くことも多く、それによって、益々名曲として定着していった。中間部のメロディーが、内声部が変って行くことに注目したい(演奏例で登場した、小曽根真による)

まあ、小曽根が言及していることは、近現代の作曲技法としては当たり前のことだ。
ブルーノートが労働者の云々は、そうなのかも知れないが、現在この曲を聴くにあたっては大した問題ではないだろう。考えすぎだ。

中間部のメロディーについてガーシュウィンが語ったとされる言葉、天才というものは大したものだと、このことについても感慨を新たにせさせるを得ない。
私はむしろ、この曲が名曲たり得たのは、この中間部の存在が最も大きいと思っている。
こんな音楽だ。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/gershwin/rhapsody_in_blueRR28.mp3

この部分だけを採り上げてジャズ風にアレンジして自分のバンドのテーマ曲とした楽団もあったし(何という楽団だったか・・)、曲名の「ブルー」というのを(ブルーノートという用語とは必ずしも関係なく)最も感じさせてくれる、素晴しいテーマである。
ピアノソロの終りの部分から、テーマの提示、そして少し落ち着いた感じの部分まで。ピアノソロ、そしてテーマの途中、独奏ヴァイオリンの音、終りの、いったん静かになる部分、何れも言葉では説明し難い素晴らしさだ。最も私がこの曲の中で好きな箇所である。

番組内の説明で、私がどうしても賛同できないのは、ジャズピアニストがピアノパートを即興演奏で弾くことによって益々名曲として定着した、というクダリである。

この曲は、ガーシュウィンが何とかクラシック音楽の分野でも一旗揚げたいと願って作曲したものであり、私は、純然たるクラシック音楽だと思う。ジャズの曲ではない。
ジャズピアノのように弾くのは勝手だが、その奏法で弾くのであれば、それはジャズでしかない。上原ひろみがこの曲を弾いているのをテレビで聴いたことがあるが、あくまでもジャズである。

クラシック音楽の場合、作曲者がカデンツァを書いているのであれば、作曲者が書いた通りに弾くべきものなのだ。
そして、ガーシュウィンの書いたピアノパートが実に素晴しいのである。余程のセンスがないと、それを凌駕するピアノソロなんて、出来るわけがないのだ。

ジャズ的に即興演奏したときに思いがけない名演となることもある。それは否定しない。しかし、多くの場合は、ガッカリするだけだ。作曲者が書いた通りに弾いているものを聴き慣れているから、途中で妙な脱線をされると・・・しかも、長く長く脱線するケースもある。・・・殆どの場合イヤになるだけである。

尚、番組での演奏例は小曽根真のビアノ、大植英次指揮の大フィルによるもの。小曽根もイヤな予想通りジャズ的な脱線をしたが、まあまあ許せる範囲で止めたので、まあ良しとしよう。

さて、ガーシュウィンはこの曲を作った当時、自分でオーケストレーションをする自信がだ持てず、グロフェ(組曲「大峡谷」の作曲者)のオーケストレーションによってこの曲を世に出すことができた。
その他に、ピアノ独奏だけで演奏する形、そしてジャズバンドと少数のオーケストラで演奏する形で残っている。

処が、その何れの形においても、聴き慣れたものとは妙に異なる、部分部分をカットした演奏があるのだ。
これを不思議に思っていたのだが、手許にグロフェの編曲のスコアを取り寄せてみると、「場合によっては、カットしてよい」と指定されている箇所が、合計4箇所、合せて169小節分存在することが分かった。全曲で、繰り返しの部分を除いて510小節なので、最大で33パーセントほどのカットが容認されていることになる。
(尚、このスコアはまだ国内版が出ていないようなので、ここには紹介しない)

しかし、これはグロフェが指定したのかガーシュウィンが指定したのか分からないが、なるべく短くして聴衆を飽きさせないようにするため、または、当時は確かまだ「ピアノロール」の形での録音のため、ロールの本数を減らして(つまり、できるだけ少しでも安くあがるようにして)、売りやすくまた買いやすくするための配慮だったのではないか・・・と私は考えている。
だからできるだけ510小節全てを演奏している盤を選びたいものだが、省略について何も記載されていない場合が殆どなので、買って、聴いてみて判断するしかないだろう。

その中で、バーンスタイン指揮ニューヨークフィルで、バーンスタインの弾き振りによるものは、確か全部やっていたはずだ。バーンスタインのものでも、渡欧してからの盤は、カットがあった。

併せて、ティルソン・トーマスによる、ジャズ編成を主体としたもの。そしてガーシュウィン自身が残したピアノロールを復元した演奏にティルソン・トーマスが合せた演奏を挙げておく。

尚、少し調べただけだがアマゾンでは見つけられなかったので挙げないでおくが、ガーシュウィン自身がピアノ独奏で弾いているバージョンも、どこかにあるはずなので入手できれば是非とも手許に置くことをオススメする。
私は、その演奏を自宅のピアノの自動演奏装置で成らすことができる状態にあり、ガーシュウィンの自作自演のピアノで一杯やるのを極上の楽しみとしている。
いや、楽しむというよりは、ガーシュウィンのピアノテクニックって、結構スゴイのではないだろうか。鍵盤の動きに、いつも圧倒されているのだ。

2012年2月14日 (火)

名曲探偵アマデウス 2011年11月23日 バッハ 無伴奏チェロ組曲

クライアントは、真打ちを目前にした二つ目の落語家。新作落語を中心に演じてきたが、師匠から「真打ちになりたいのなら、古典落語をちゃんと勉強いろ」と言われてしまった。師匠から「餞別代わりに」と渡されたのがバッハの無伴奏チェロ組曲。破門されてしまったのか、破門されたとしたら、この曲に理由が隠されているのか、という相談。

「謎(?)」の「解決(?)」プロセスと、並行して進められる楽曲分析の推移は省略する。
説明された概要は次の通り。

  • 1番のプレリュード。CMに使われたりして最も有名(私からの注。記憶に残っている処としては、サントリーオールドがそうだった)3つの旋律が含まれている。1つの楽器でそれが可能かどうか、バッハが試したかったのではないか。
  • 重音の使用は、曲の起伏を付け、もともと「舞曲」の組み合わせとして成立した「組曲」の中の1曲として、舞曲としてのメリハリを付けるのに奏功。
  • 開放弦(指で弦を押さえずに鳴らす奏法)の多用により、大きな本体を持つチェロの特色を活かしている(大きいからよく響く)。
  • また開放弦は、3番のプレリュードでは低音で「ソ」が鳴り続けているように聞こえる効果をもたらす。オルゲルプンクト(同じ音の低音を鳴らし続ける演奏法)の効果により、緊張感を持続させる。
  • 元々この曲は永い間忘れられていた。パプロ・カザルスが、13歳のときにスペインのある楽譜店で発見し感激。これを世に知らせるのを生涯の目標とした。

1番の「プレリュード」で、3つの旋律が鳴っている・・・という箇所は、別々に3つの旋律を鳴らして見せてくれた。しかし私には分からなかった。以前からも、この曲を聴くときには幾つかの要素が入っていると気がついてはいたのだが、結局聞きわけることができずに現在に至っている。今回も然りというわけだ。

カザルスが発見して、という話は知っていたが、13歳のときに、と聞かされると、やはりスゴイとしか言いようがない。
バッハの再発見の話としては、メンデルスゾーンが「マタイ受難曲」を再発見し上演にまで持っていった話が有名だが、それと並ぶ快挙と言ってよいだろう。番組内では、往年のカザルスがこの組曲を演奏している様子を映像付きで紹介していた。

番組は、演奏例のあと、クライアントに招待された落語会に行ってきた探偵と助手が話しをしていて、助手が「でも変ですよね。何で饅頭が大好きなのに『饅頭が怖い』なんて言っていたのでしょう」と聞き、オチとなるエピソードが付いた。
(何の噺で、何でこのエピソードが愉快なのか、殆どの人、分かりますよね?)

実はこの曲、上記にも一部書いた通り、私にはまだ本当の処よく分からないでいる処がある。6曲から成るが、まず全曲通して聴くことはない。
そんな中ではあるが・・・だからリファレンスということではないが・・・何枚か持っているものを紹介しておきたい。マイスキーと、ヨー・ヨー・マとカザルスの演奏だ。マイスキー盤は、ここに挙げた、3曲だけを収録したもの以降私は買い足していない。どうしても買い足したいと思うほどではないので。但しそれは曲についてであって、演奏は一番だろう。
あと2種類は何れも全6曲が入っている。

2012年2月13日 (月)

名曲探偵アマデウス 2011年12月7日 牧神の午後への前奏曲

倒産した外資系証券会社の、元・証券マンがクライアント。
今後の生活をどうしようかと考えていたら、他界した父が残してくれていた宝箱があったのを思い出した。生前、「困ったことがあったら、これを開けるように」と言い残していた。また、生前に父が趣味で描いていた絵もあった。

しかし、宝箱を開けても中は空っぽで、楽譜が1つ入っているだけ。宝のありかを示す地図でもなさそうだ。絵にも、そんなことは描かれていない。宝箱に入っていた楽譜が、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」というわけである。

「謎(?)解き」と「解決(?)」に至るプロセスと、並行して語られる楽曲分析の推移は省略するが、主として次のようなことが説明されていた。

  • 冒頭の旋律に出てくるド♯からソに下がる音程は、中世から「悪魔の音程」と称されていたもので、音程が取りにくく、従って歌いづらい。
  • そしてその、最初のド♯の音はフルートで奏されるが、フルートとしては出しづらい音である。これは牧神がまどろんでいる様子を表しているように思える。
  • 半音が多用されていて曖昧な感じとなっていて、独自の世界に引き込む力がある。同じ旋律を6回繰り返すが、そのたびに和声が変り、リズムも変る。色彩感を伴い、「五感で感じる音楽」となっている。
  • 全110小節の中ほどの55小節目で初めて調性がハッキリする。これは、ニンフ(ギリシャ神話で、森や湖などに住む、少女神)たちにからかわれていた牧神が、やっとの思いでその1人を捕まえた喜びを表しているようだ。それは、「『音楽』を模索し続けた作曲家=ドビュッシー の音楽そのものである。

概要は以上でありフルートでは出しにくい音から始まる・・・という辺りは参考になったが、後は知っていることが殆どだった。ただ、全体としてはどうも深読みしすぎの解説だと思った。この曲の始まりは、こんな感じ。20小節分で、最初のテーマ提示である。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/debussy/a_lapres_midi_dun_faune_opening.mp3

この曲、私が聴き始めた頃、退屈で、眠たくて仕方がなかった。起承転結が全然見えないし、曖昧な感じの音が続くだけで、余り盛り上がりもない。名曲だと分かってきたのは、ドビュッシーのピアノ曲の面白さが何となく分かったような気になった後である。

番組内でも、この曲の分析というのは困ったのではないだろうか。この曲に振り付けを施したバレエのシーンに基づいた解説が中心となっていた。しかし、この方法、基本的に賛成できないし、従って、それに基づくと思われる解説は、上掲の全てに賛同できないことになる。

そもそも、この曲は、バレエ音楽として作曲されたものではない。バレエのシーンに準拠した説明は、邪道であるだけでなく、音楽的に誤りである。ニンフと牧神の戯れがテーマであることは間違いないのだろうが、音楽の移りゆきと合せてシーンを合せ、それを解説のベースとするのは本末転倒でもある。「分析」の名に値しない。

もっと、ドビュッシー特有の音階とか、和声感の不思議な魅力について語らねばならないはずだ。

手許のスコアによると、ドビュッシーのこの曲は、同時代の詩人であったマラルメの「牧神の午後」に触発されたもので、元々は「前奏曲」の後に2曲ばかり作曲して、「組曲」または「交響詩」として仕上げる予定だったのだが、「前奏曲」だけで十分に音楽として完結していると感じた作曲者が、続く曲を作る必要がないと判断したのだと推定されるそうだ。

マラルメとドビュッシーは交流もあり、完成した「前奏曲」を、ドビュッシー自身がピアノでマラルメに聴かせたことがあったらしい。しかし、マラルメは困惑するばかりで、すぐにはこの曲を認めようとしなかった由。
自分の詩が、こんなふうに音楽にされることに抵抗があったらしい。音楽を必ずしも想定していない詩というものは、それだけで読者のイマジネーションを引き起こさせたいはずだし、反面、音楽もそれだけでイマジネーションを喚起かるものだからである。

さて番組は、演奏例のあと、クライアントが忘れていった、ご父君の絵があり、誤ってその上にお茶をこぼしてしまい、助手が大慌て。
ところが、水に濡れたその絵から浮かび上がってきたのは・・・宝のありかを示しているらしい、地図! というオチがついて終った。

この曲、良さが分かり始めたのがだいぶ後になってから、ということもあり、つまり好きとか嫌いとか思ったこともなかったので、リファレンス盤というものは挙げることができない。
代わりに、ドビュッシーのピアノ曲の面白さを分からせてもらう手掛かりとなった、冨田勲のシンセによる盤と、ベロフによる「子どもの領分」、そしてアルゲリッチも師事したことのあるミケランジェリ盤を2枚挙げておく。何れも名盤。

2012年2月 6日 (月)

名曲探偵アマデウス 2011年12月14日 ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら

今回のクライアントは、探偵が一目惚れして半ば無理矢理に事務所に連れてきた、シングルマザーのキャビンアテンダント。息子と共に来訪。シングルマザーであるため、意識して厳しくしつけてきたが、息子のいたずらが止まらない、という相談。
それではこの曲を・・・ということで、確か探偵が奨めたのがR・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」というわけである

「事件(?)」の「謎(?)解き」と、それに並行して進められる楽曲分析の推移は省略する。

私は、本当は、この曲、まだ聴いたことがないのであれば、解説など何も読まずにまず聴く、ということを奨めたい。
冒頭の優しい序奏に続いてホルンで奏される処から、たちまち聴き入ってしまうはずだ。ホルンで奏されるのが「ティル・オイレンシュピーゲル(以下、ティルと略)のテーマなのだが、手許のスコアの解説によると、「ヴァーグナーの『指環』の、ジークフリートの動機とともに、ドイツで最も知られた、ホルンによるテーマ」だそうだ。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/R_strauss/till_opening.mp3

上掲の演奏は、曲の冒頭から12小節目まで。
ホルンによるテーマが「ティルの主題」というわけだ。とても捻(ひね)った節回しなのに、とても親しみやすく、また耳に残るテーマだ。
この「ティルの主題」が形を変えながら次々に登場しては、事件を引き起こして行くのだが、何も解説など見なくても、なにやら大騒ぎになったり、偉そぶったり、終り近くでは恐ろしげな曲調になったりするのが分かると思う。解説などは、後からみたらいい。

番組の中では、この、ティルが形を変えて繰り返し出てくる形式は「ロンド形式」だが、よく使われる「ソナタ形式」に対する、ティルまたはR・シュトラウス自身の反骨精神の現れだとか、譜面ヅラを見ると、どんな場面を描いているのか分かる、とかの説明があった。

譜面ヅラ云々は、手許にスコアがある場合には見るので、私にとっては分かりきったことだ。

しかし、「ロンド形式を採用したのは反骨精神」といった説明は、深読みし過ぎだ。

もともとティルが何度も出てくるには、ロンド形式が最もふさわしいのかも知れないし、何よりも、R・シュトラウスという人が、ソナタ形式などというものに関心がなかったのかも知れない。または、その形式に合う作曲技法については才能がなかったのかも知れない。
事実、交響曲というジャンルではソナタ形式を使うのが殆どだが、彼の「交響曲」=アルプス交響曲など は、ソナタ形式とは無縁と言って良い(これに関する私の関連ページはこちら)。

参考になったのは、この曲にはクラリネットでD管が使われていることに関してである。通常使われるクラリネットはB♭管なのだが、D管はそれより小型であり、コミカルな感じが出せるとのこと。実際に同じフシを両方の管で吹いて聞かせてくれて、違いが分かってナルホドと思った。
私から補足しておくと、この曲、B♭のクラリネットも使われている。キャラクターの違いを出すために、D管も使ったのだろう。
また、上掲の演奏例では、D管は一箇所しか出てこないし、ソフトシンセの制約から、D管の音は出していない。

さて、相談が一応「解決」したあと、勤務時間の関係でキャビンアテンダントは、息子を事務所に預けて退出する。
演奏例を挟んでエピソードでは、探偵が息子に「君のお父さんになってもいいかな」と聞いたのに対し、息子が「弟子になら、なってやってもいい。この仕事、面白そうだから」と答えてオチとなった。

番組内での演奏例はアツモン指揮によるもの。それなりに良かった。

しかし、この演奏を含めて色々な人の指揮による演奏を聴いてきたが、私はどうしてもこの曲を「名曲」とすることができない。
面白い曲であることは認める。しかし、後に何も残らない。これほど何も残らない曲というのも珍しいと考える。しかし、ドイツ人って、この曲が大好きみたいなのだ。私も嫌いではないが、鳴っていたら聞くという程度で、本当の処は、どうでもいい感じさえある。

だいたい、「子どものいたずら」から「ティル」を題材にするというベタな設定ではあるが、ティルの「いたずら」は、我々の感覚では「悪ふざけ」以外の何物でもない。いや、「いたずら」のレベルではない、犯罪的なものも含む。だから、最後は死刑になってしまうのだ(手許のスコアの解説によると、実在したティルは、安らかにベッドで死んだらしい。死刑のシーンを導入したのはR・シュトラウスのアイデアらしく、それがこの曲を劇的なものとした)

そんな、私に言わせるとしょうもない話を、豪華絢爛なオーケストレーションで面白く仕立てて聴かせるのだ。R・シュトラウスの曲って、そんな傾向が多いのではないか。
私に言わせるとこれは、「才能の浪費」に他ならない。

そんなわけで、とくにオススメという盤もないが、これまで聴いて来た中から、3枚ばかり挙げておく。
ドラティ、ショルティ、カラヤンによる演奏である。

2012年2月 4日 (土)

N響アワーの終了 って これは暴挙だ 許せん!!!!! さらに続き

1月30日から2月1日にかけての記事で、掲題の記事を立て続けに書いた。これで終るつもりだったが、たまたまJIROさんの記事を見ていると、私にNHKが寄越した回答メールと、JIROさんが抗議してその回答として寄越されたメールの内容が酷似しているのを知り、また怒りの気持が再燃してしまった。考えれば考えるほど分からないし、腹が立つのだ。

JIROさんの記事を読んでいると、私よりも長い間N響アワーをご覧になっているようだ。芥川也寸志時代のことにも触れられている。対して私は、芥川也寸志時代のことは、ウッスラとしか覚えていない。

ハッキリ覚えているし、丁度ハイファイビデオが家庭に入り始めていた頃だったので、殆ど毎週見ながら録画し、または録画したものを後で見る、というようにしていた。最近それらをDVD化すめために殆どを見返したのだが・・・黛時代の「題名のない音楽会」と並行して・・・これは「文化財」だと、つくづく思ったものである。

私が録って、保存し、見返したのは岩城宏之と阿木耀子の2人で司会していた頃に遡る。両名とも忙しかった頃だと思う。見続けていると、どうやら阿木耀子はクラシック音楽には余り関心がない、というのが透けて見え始めたし、岩城宏之も多弁とは言えないので、若干の不満は残ったが、ベストの組み合わせの1つだった。

中村紘子時代は、解説もさることながら、放送の最後に彼女が短い曲を弾くのが楽しみだった。

そして池辺晉一郎時代となり、長く続く。
しかし、相方として団ふみが出ていた間は楽しく充実していたのだが、その次に相方として2人の女優が出た時代は、最低の時期だった。池辺の話とかみ合わないし、女優の2人とも、クラシック音楽に関心がない、ということがモロに分かったためでもある。
続けて田中アナが起用されたが、話のかみ合わないことでは同じ。

もうこれで見る理由はなくなったか、と思っていたら、相方に岩槻アナが登場し、何とか見る理由ができた。しかし反面、池辺の解説に、突き放したようなものを感じるようになった。

そして、岩槻アナがそのままに、西村朗が解説として登場。
私はこの期間がベストの布陣だったと思う。岩槻アナがヴァィオリンをやっていた時期があるとのことで、西村の熱心で分かりやすく、そして素人の私が気付かなかった「曲の魅力」「作曲技法」について多くのことを学ばせてくれた解説が、何物にも代え難い魅力となった。
黒崎アナに代わって少々落ちたが、快調に続いていたことはマチガイないだろう。

そして、「幅広い視聴者のニーズに応えるため」という目的のために、このN響アワーでは、何がいけないのか、ということ。どうヒネクラかしたら、そんな考え方が出てくるのか、サッパリ分からないのである。

入門用の番組を狙うということであれば、全く誤りだ。

ホンモノの演奏と、ホンモノの解説こそ、入門者の最適なガイドとなる。いや、ホンモノしかガイドにはなり得ない。
前にも触れたが、大フィルがやっている「青少年のためのコンサート」。会場の殆どを埋めるのはブラスバンドなどをやっている中高生と思われる人たちだ。ブラスバンドとオーケストラはかなり違うものであり、実際のオーケストラの音楽に接して(ホンモノに接して)今後もっとオーケストラ音楽を聴いて見ようと思ったり、将来は大学のオケで、とか、音楽の専門の道を行こうとか、改めて思っているはずだ。
もちろん、もともと音楽が好きでブラスバンドを・・・という人たちもいるだろう。そして、会場に来たそうした人たちの背後や周囲には、表には出てこないがクラシック音楽が好き、という人たちもいるわけだ。

無理矢理伝統の番組・・・多くのクラシックファンにとっての「公共財」を潰してまで、「ファン層を拡大・・・」と構える必要があるとは到底思えないのである。
存在していない視聴者に向けたアホな番組を新設し、伝統の番組を壊そうというのが、今回の発表だ。

間口を拡大しようとする番組、やりたければ勝手にやったらいい。但しあくまでも別に時間枠を増設してやるべきだ。
N響アワーと同じ時間帯でやることによって、多くの従来からのファンは離れ、新しい時間帯は誰も見ないものが存在する・・・という最悪の状況が見えそうだ。

書いているうちに、益々不愉快になってしまうので、本当にもうこのことを書くのは止めようと思う。
しかし、再びこの怒りが再燃するようなことがあったり、そんな記事を見つけてしまったに、その限りではない。

2012年2月 3日 (金)

名曲探偵アマデウス 2012年2月1日 ジークフリート牧歌

クライアントは、誘拐事件を極秘に捜査していると言う刑事。犯人の残した唯一の手掛かりとしてレコード(古い!)が残っていたが、何度聴いてもサッパリ手掛かりがつかめない、との相談。
その曲がワーグナーの「ジークフリート牧歌」というわけである。

話を聞いているうちに、極秘としている理由が、誘拐されたのは、クライアントの奥さんと子どもで、現役の刑事として恥ずかしいので、とのこと。
相談と推理の推移は省略して、即、ネタばらしをしてしまえば、結局は奥さんの自作自演だったという推理により、「解決」となる。まあ、この曲が作曲された背景を知っているならば、自ずから想像もつくわけだ。

妻とした(ワーグナーを尊敬していた、ハンス・フォン・ビューローからの「略奪婚」)コジマに長男が生れたあと、妻の誕生日プレゼントとして作られた曲で、誕生日の朝、静かに始まるこの曲で寝ている妻が音楽に気付いて起き、感激する・・・という趣向だったというのだから。

「指環」に使われている動機を様々に組み合わせて作曲したもので、年代を手許の辞典で確認すると、「ジークフリート」の初演が終り、「神々の黄昏(たそがれ)」の準備をしている時期のものだった。

で、「指環」の主人公である「ジークフリート」の名を息子に与え、さらにこんな曲まで作曲し・・・というわけで、作曲家自身、公私ともに充実していた時期でもあっただろう。

番組内では、それぞれの動機と、楽劇中で使われているときの動機の関連付けや、その動機が持っている意味付け、そして名前などが紹介された。
確かに、意味付けをしてもらいながら聴くと、この曲の構造、少しは分かった気になった。しかし・・・。

正直言って私はこの曲、苦手だ。そして、そうした解説を聞いても、苦手であることは変わりない。退屈で退屈で仕方がないのだ。ワーグナーとしては駄作に入るのではないか、とも思っている。

そもそも、「指環」に使われている「動機」だが、音楽用語では「示導動機(ライトモチーフ)」などという用語を使い、辞典を見てもシチメンドクサイ説明が為されている。

こんなの、何の役にも立たないどころか、ワーグナーの音楽を聴衆から遠ざけるだけのことだ。また、さも「高尚」であるが如き装いをさせるだけのものでしかない。

だいたい、オペラの中でも、またワーグナーの中でも、「指環」ほど「高尚」という言葉から遠いものはない。また、一般的に、余りこうしたものを聴いたり見たりしない人からは「クラシック音楽=高尚」、さらに特に「オペラ=高尚」と思うようだが、一部を除いて、オペラなんて背徳や裏切りに満ちた世界が描かれているものが多い。
ブルックナーが「ヴァルキューレ」を理解できなかったという話があるが、ブルックナーの感性が鈍いとか、世間知らずだとか言うのではなく、私は、少なくとも「ワルキューレ」に関しては、ブルックナーの方が正常だと考えている(私の「題名のない音楽館」内の「ブルックナーとワーグナー」をご参照ください)。

また、「示導動機」なんて名称、私は上記の理由で嫌いだから、なるべく使わないようにしているのだが、何てことはない。「ある人物や情景、または気持などに、決まった音楽を付けたもの」・・・と言うだけのことだ。

この作曲技法は、しかし、後世に大きな影響を与えた。
私に言わせれば、「ドラクエ」の音楽なんて、典型中の典型だ。この関係については「語り部多くしてオペラ敬遠さる・・・ドラクエにはまる人ならワーグナーにもはまる」をご参照ください。

さて、番組の内容から脱線するが、「嫁さんにプレゼントした、またはプレゼントするつもりで作曲した」と言う例。私はすぐ次の2曲を思い出す。

  • エルガーの「愛の挨拶」
  • グレン・ミラーの「真珠の首飾り

前者は確か、ワーグナーと同様に誕生日のプレゼント。
後者は、実際の処は分からないが、映画「グレン・ミラー物語」では、「貧しくてホンモノの真珠の指輪が買えなかったとき、『いつかホンモノを買うから』と言ってマガイモノの真珠の指輪を贈って結婚したが、成功してホンモノが買えるようになり、それをプレゼントする日の朝、この新曲の、自宅での演奏とともに起こした、ということだったと記憶する。

こうした曲に比べて「ジークフリート牧歌」って、全然良いと思わないし好きになれないのだ。長すぎるし起伏に乏しい。

「愛の挨拶」について、エルガーは、小さな管弦楽団用のバージョンも作っているし、ヴァィオリンで演奏されることもある。しかし、上記の「作品名辞典」によると、原曲はピアノ曲だそうだ。だから、この曲の入っている、仲道郁代のCDを。これ、仲道の演奏が良いためでもあろうが、ピアノバージョンを聴くと、管弦楽団バージョンなんて聴けたものではない。色々な曲が入った盤だが、この曲だけでも手許に置く価値がある。

併せて、「グレン・ミラー物語」のDVDを挙げておく。

2012年2月 2日 (木)

N響アワー 2012年1月29日 ブラームスV協

正直言って、ブラームスは苦手な方だ。

交響曲の2番は比較的好きだし、4番は苦手意識を突き抜けてしまうほど凄い曲だと思う。しかし1番は、持って回ったような仰々しさが鼻に付きだしてから嫌いになったし、3番は未だに分からない。いや、3番の第3楽章は大嫌いだ。

2曲のピアノ協奏曲も、ヴァイオリン協奏曲も、嫌いとまでは行かないし曲の価値は分かるが、余り進んで聴こうとは思わない。重々しすぎるのだ。

だから、今回のプログラム、録画してから見始めるまで若干のためらいがあり、時間を費やした。
結論としては、いい演奏だったし、ようやく自分も、この曲の良さが分かりつつあるのかなあ、と思わせてくれるものだった。ヴァイオリンのソロはリサ・パディアシュヴィリというグルジア出身の人。
彼女によると、この曲は3つの楽章の対比が際立っていて、それぞれに違う表情を見せる。それが魅力・・・ということだった。
さらに、第2楽章は愛に満ちた曲、第3楽章はブラームスらしさを損なわない程度に、思いっきりハネていいと思っている、とも。

西村も第2楽章を「愛」というキーワードで語っていたのだが、私はよく分からない。もしそうだとしても、ブラームス流の「愛」の表現というのものには、私は未だに馴染めない、としか言いようがない。心に染みいる感じはするが、「愛」なんて言葉で表せるものだろうか。

さて、ブラームスの前に、彼女が2009年1月の定期でやったと言う、ショスタコーヴィチのV協第1番の、第4楽章が紹介された。
むしろ私は、この方が良かったと思う。
ただ、本当のことを言うと、この曲の演奏の善し悪しは、全曲聴かないと評価はできないのである。
私の「題名のない音楽館」の「この曲に関する記事」に書いた通り、この曲は作曲されてから初演までに7年を費やし、スターリンの死後にようやく「お蔵入り」から陽の目を見ることとなった、いわく付きの曲なのだ。第4楽章で弾けるが、それまでは暗く重苦しい雰囲気が覆っているのである。だから、それらと第4楽章のコントラストをどう弾き分けるのか、または分けないのか、によって演奏の価値が決まると思っている。

そんなわけで、ブラームスのV協は、私が持っている唯一の盤・・・だから、リファレンス、とまでは行かない・・・そしてショスタコーヴィチのV協の1番はリファレンスと言ってもよい盤を挙げておきたい。
前者はムターの若い頃、そして後者は五島みどりの、今よりは少し若い頃のものである。
そして、ついでに見つけた、パディアシュヴィリのもの、そして庄司紗矢香のも。後者2枚は、私は持っていないが期待できそうだ、ということで。

2012年2月 1日 (水)

N響アワーの終了 ってこれは暴挙だ 許せん!!!!! 続々

本件、1月30日の記事1月31日の記事にも書いたし、1月31日付けの記事で、「もうこれ以上は書きたくない」とまで言ったのだが、一晩寝て改めてPCに向かうと、まだまだ書きたいことが残っていることに気がついた。このため、気は進まないのだが追加する。

1月31日付の記事で、NHKから早々に回答が来たことと、その主旨を書いたが、NHKの言い分は、基本的に間違っている。丁寧な回答ではあるが、論旨が一貫していない。

まず、幅広い視聴者に向けてクラシック音楽の楽しみ方を伝えるため・・・ということだが、もしそうならば、新しく始めようとするその番組、別枠で増やせばいいだけのことだ。どうでもいいような番組、私に言わせるとEテレ内に限っても、まだまだ山とある。
伝統ある、従って固定客(?)のシッカリついている番組を止めて、それと置き換えるような方法を採るべきではない。伝統あり、固定ファンもついている、となればこれは一種の公共財だとも言える。NHKの私物でも何でもない。もともとNHKに受信料を払っているのは我々なのだ。絶対数は少なめかも知れないが、その分、こうしたニーズに応えてくれるためだと思えばこそ、受信料を払っているのだし、払ってもらっているのだ。

もう1点。
そもそも、新しく始めることになっている、そんな番組で、クラシックファンの底上げができるか、ということがある。
いや、そもそも「底上げ」なんてする必要があるのだろうか。

私が大フィルの「青少年のためのコンサート」を観に行ったり、また各地で行われる吹奏楽コンクールの類をテレビなどで時々観たりしている限り、少なくとも吹奏楽に親しむ若い人たちは、私がクラシック音楽を聴き始めた頃よりは、遙かに層が厚くなっているように見える。「題名のない音楽会」で時々やる、若い音楽家にスポットを当てた内容のときなども、層の厚さを感じて頼もしく思え、楽しませてもらっている。

そうした層・・・吹奏楽を自分でも楽しんでいる人たちが、管弦楽に親しむようになるのは、殆ど成り行きと言っていい。
自分で楽器をやるような人が、音楽に興味がないとは考えにくいし、その「音楽」の中から、クラシック音楽に親しむ人も出てくる。聴く時間が増えてきたとき、そのときガイドとなるべき番組は、現在だと「題名のない音楽会」と「N響アワー」だ。
私もこの2つによって育ってきた。N響アワーは、まだなく、当初は「題名のない音楽会」だけだった。「題名」は、黛敏郎時代は、現在のものよりもレベルが高い内容で、私の音楽体験の幅も奥行きも拡大してくれた。

かつては、もっとこうした番組があったが、現在はこの2つ。そして、この2つだけで十分だとも言える。しかし、もし1つだけしか残れないとしても、N響アワーは絶対に残る側であるべきだ。

N響アワーは、私が聴いても時々新しい発見をさせてくれる解説が付いている。ということは、初心者にとっては難しい・・・などと判断する向きがあるのかも知れない。しかし、それでいいのだ。なまじっか初心者に媚びるようにレベルを落としても、ロクなことはない。

そして、百歩譲って「底上げ」が必要だと考え、そのための番組がもし必要なのだとして、それは本流の音楽家または批評家がMCとしてガイドする形でなければならない。
石田某については、殆ど期待しないし見たくもない、と散々書いた。加羽沢美濃は、面白いセンスをしたピアニスト兼作曲家だと思うし何よりカワイイからいいのだが、しかし、クラシックの本流を行く人ではない。MCの2人とも、本流から外れている。そんな人たちに、「入門」番組をやらせるべきではない。

以上、どう見ても、今回のNHKの判断は奇妙奇天烈摩訶不思議なものとしか言いようがない。大いなる勘違いから、多くのファンを、また多くの大切なものを、伝統を、失なおうとしている。
社内でちゃんと論議されたのか。勿論されたと思うが、それでこんな企画が通るなんて、どうにかしている。

良く言うでしょ。伝統って、築き、守っていくのには大変な努力が必要だが、壊してしまうのは極めて簡単だ、と。

この、「N響アワー終了」に関する1月31日付の「続き」の記事で、「証拠として、この、「N響アワー終了」という話、どれほど多くの人にとって衝撃だったか、少し検索してみたら、すぐ分かる」と書いたが、ブログの記事として・・・ツイッターの類のように短いつぶやきではなく長めの記事の中で・・・私の記事の内容に共感頂いた方の中で「てんしな?日々」さん」のページを見つけた。他にも大勢おられるものと想像している。こうした声が澎湃(ほうはい)として起こるのは、NHKだって分かっていたと思うのだが・・・。

いや、ひょっとすると、分かっていなかったのかも知れない。
むしろ、分かっていなかった、というのが真実のような気がしないでもない。だとすると想像力の欠如に他ならない。

「教育テレビ」の内容が段々とプアになって行き、どうでもいいような番組ばかり増えていったあと、あげく「Eテレ」なんて、実にふざけたチャンネル名になり、遂にここまで来たか、と思うと情けない限りだ。

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