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2012年1月23日 (月)

名曲探偵アマデウス 2012年1月18日 モーツァルト41番

将棋の現役8段がクライアント。ライバルとの一戦の途中、抜け出して来たと言う。どうしても負けられない一戦なのに、絶体絶命のピンチに陥った。かつてはいつも負かしてして来た相手なのに、どうも最近相手が強くなってしまい、そのきっかけが、彼が「KV511」と書かれたCDを聴くようになってからだとのこと。その曲に、ライバルが強くなった秘密が隠されているのではないか、それを知れば自分もまた彼に勝てるのではないか、という相談。
「KV.511」とは、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」だというわけで、曲の「謎解き?」にからませた、楽曲分析に入る。

「謎解き?」の過程は省略し、番組内で、この曲に関して言われていたことを何点か挙げておく。

第1楽章 冒頭のテーマ。力強く始まるが、優しいメロディーが続き、それが交互に出る。様々な旋律や音型が短い間に次々と登場し、輪郭をクッキリさせる。
曲の冒頭から23小節目までは、こんな感じである。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/mozalt/mozart_sym41_1stMvt_opening.mp3

第2楽章 優しく始まり、そのまま続くと思っていると、突然19小節目から雰囲気が一変する。ハ長調からハ短調に転調するのである。
これは当時の作曲としては異例なことで、聴衆に媚びることのない曲を作り、新たな道を拓こうとしたものと考えられる。
この、突然に影がさす部分の挿入は、モーツァルトの天才のなせるワザで、自然とスムーズに書いたのだろうと従来言われていたが、自筆譜の発見により、必ずしもそうではないことが分かってきた、とのことで、自筆譜の写しを見せてくれた。この部分、実は何度も書き直した跡があるのだ。
千住明は、ここについて、「自分は、サッサと書き飛ばすような作曲家ではない、との自己主張を感じる」と言っていた。サッサと書き飛ばして売れっ子作曲家になるのは簡単だが、もう自分はその道は追わない、というわけである。これ、番組内では示されていなかったが、ロッシーニあたりのことを言っているのかも知れない。そして、モーツァルト自身、かつては売れっ子作曲家だったし、千住が言及したことの当否はともかく、芸術的に深みを増してくると、聴衆がついて行けなくなることがあるのは事実だろう。

第2楽章の冒頭から、ハ短調に転調し、27小節目まで。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/mozalt/mozart_sym41_2ndMvt_opening.mp3

第3楽章。この楽章は「メヌエット」となっているが、ただのメヌエットではない。踊ることのできるメヌエット(もともと、踊りのための曲であるメヌエットが、色々な経過を経て交響曲の中の1つの楽章となっていった)ではなく、モーツァルトが初めて挑んだ、「踊ることのできないメヌエット」である。そもそも初めの2小節の間は、リズムが刻まれていないので拍子が分からず、また、半音ずつ下がって行く音型のため、調性も曖昧。
札響?の誰だったか、コメントしていたのは、「もう、これは交響曲の一部なのだと分かってもらいたい、と思ったのではないか、と言うことだった。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/mozalt/mozart_sym41_3rdMvt_opening.mp3

そして第4楽章。
冒頭に登場する「ドーレーファーミー」という音型は「ジュピター音型」と名付けられているそうで、これが色々と変化したり別の要素が加わったりして、音楽に力を与えている、といったことが述べられていた。
冒頭から35小節目までは、こんな音楽だ。「ジュピター音型が2回繰り返され、別の、「ドッドドーシラソファミレド」と聞こえる音型が続く。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/mozalt/mozart_sym41_4thMvt_opening.mp3

そして、これはこの楽章の間ずっと、そして最終部でも、大きな役割を果たすのである。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/mozalt/mozart_sym41_4thMvt_coda_bars399to_end.mp3

色々な旋律や音型が次々に出てくるのに、最後には大きく纏まって行く。番組内では、5つの音型の要素があり、最後に進むうちに、それが一体となって行く・・・と説明していた。私には「5つ」と数える必要などないと思える(上掲の部分では、もはや5つの音型は出ない)。
解説書によっては、フーガ風の・・・とか、フガート形式・・・と解説しているが、聴いて受ける印象は、その方が近いだろう。

フーガ風の曲を交響曲に採り入れるのは、やがてベートーヴェンに繋がって行ったのだろうと思う。
そして、第3楽章の「メヌエット」が、ここで初めて踊りの要素を排除したものとされているのだが、これもやがてベートーヴェンによって、メヌエットという楽章の代わりに「スケルツォ」を置くという方法が採られ、純粋に集中して聴くための音楽としての「交響曲」が成立するわけだ。

番組内の演奏例は、第4楽章だった。
これは見識だ。

私がこの曲の価値が分かったように思ったのは、まだ10年ほど前のことに過ぎない。それも、第4楽章の凄さに気付いてからである。モーツァルトが何となく分かりかけていた中でも、後の方になる。

価値が分からなかった理由の1つとして、初めに挙げた、第1楽章のアタマからして、ティンパニーが常に鳴っている感じで、耳障りで仕方なかった。どうしても、ベートーヴェン以降の、曲を盛り上げて行く箇所に限定的に使う、というのを聴き慣れてしまったので、アクセントを付けるために数多くティンパニーが叩く、というモーツァルトのこの書法は、馴染めなかったのだ。いや、今でもまだ馴染めないでいる。

しかし、そんな不満を吹き飛ばすほどの価値があると気付いたのは、第4楽章の凄さに気がついてからだ。
番組内で、R・シュトラウスがこの曲、とくに第4楽章を激賞していた、という話をしていたが、サスガと言うべきか。R・シュトラウスのややこしい、何段もある総譜に比べて、モーツァルトのこの曲、10段余りに過ぎない簡素なオーケストレーションである。そうした簡素なオーケストレーションでありながら、ときには複雑な響きを醸し出すワザは・・・やはり別格の天才としか言いようがない。

さて、第4楽章の「ジュピター」主題だが、番組内では触れられなかったが、実は第3楽章の中間部(トリオ)で、その前触れが登場するのである。その箇所を。

http://tkdainashi.music.coocan.jp/mozalt/mozart_sym41_3rdMvt_bars68to75.mp3

第4楽章の価値が分かった気になってきて、今回また改めて何度か聴き、DTM化してみると、ひょっとしてこの曲、私の造語である「終楽章交響曲」の先駆けでもあるのでは?とも思うようになった。終楽章に最も重点が置かれた交響曲、というほどの意味なのだが、ベートーヴェンが始めたのは確かだが、モーツァルトのこの曲も、それ、またはそれの先駆けではないか。
実際、演奏時間の長い、短いはあるし、そもそも拍子が違う(第1楽章は4分の4拍子、第4楽章は2分の2拍子。同じテンポでやっても、第4楽章の方が2倍速い)のだから比較するのに少し無理はあるが、楽章内の小節の数は、第4楽章の方が多いのである。

さて、「第4楽章の価値が」云々と書いたが、それに気付かされたのが、クレンペラーの演奏だった。
あと、標準的な処として、ベームあたり。
クレンペラーがとくに顕著だが、ゆったり目のテンポで進んで行く。しかし、ゆったり目のテンポであればこそ、とくに第4楽章の「構造」が聴き取りやすい。だからこそ私は、クレンペラーによって、この楽章の価値も分かった気になり、ひいてはこの曲も分かった気にようやくなったのだ。

カラヤンは、モーツァルトが得意だとされているが、私は奨めない。彼のモーツァルトは、「影」がなさすぎる。私は決してカラヤンを軽視するものではないが、それでも時々、「この人、音楽が分かってないんじゃないか」と思うことがある。モーツァルトはその例だと思っている。

そして、絶対にやめておくべきなのは、アーノンクールの演奏。全く私は評価しない。バッハの演奏などをファミリーでやっていた頃は良かったが、モーツァルトとなるとカラキシ駄目。ベームが生前、自分が生きている間は、絶対にステージに立たせない、と言っていたとのエピソードがある。
この分野だから、人間関係や派閥なども理由の1つかも知れないが、音楽的に認めないという要素が大きかったのだろう。
私が思い、感じるのは、アーノンクールは、モーツァルトの曲に含まれる喜怒哀楽を強調し過ぎなのだ。そんなことをしなくても、聴衆はモーツァルトの曲に十分喜怒哀楽、とくに、曲の途中でサッと影がさす部分の恐ろしさや寂しさなど、ちゃんと感じるはずなのだ。その要素を強調しすぎると、殆ど戯画的ないしパロディックなものとなってしまう。アーノンクールのモーツァルトを初めて聴いたとき、「これ、冗談だろ?」とまず思い、すぐにハラが立ってきた。なぜウィーンフィルの常連になってしまったのか、よく分からない。ウィーンの聴衆のレベル、そんなに落ちたのか??

少し関連した話に脱線するが、モーツァルトの曲は明るい、とか、胎教にいい、などと無責任に言い募る、知ったカブリの人たちがいる。こうした人たち、ちゃんとモーツァルトの曲を聴いたことがあるのだろうかと思う。少しでも感性というものがあるのなら、聴けば聴くほど、殆どのモーツァルトの曲にある「影」に気づき、寂しさを共感し、やがてそれが恐ろしくなってくるはずだ。

モーツァルトの曲に存在する、突然の転調は、同じ頃に排出した二人の巨匠とも異なるものである。同じように、途中で短調に転調する音楽でも、ハイドンだと何か「いかめしく、威張ったフリをして見せている」ように聞こえるし、ベートーヴェンだと、暗さと同時に「不屈の精神」みたいなのを感じる。しかし、モーツァルトだと何か深い処に突き落とされるような感じさえするのだ。こんな音楽、恐ろしくて胎教なんかに使えるかっ、ちゅうの。

しかし、私も、この曲の第2楽章の「影」には殆ど気付かないでいた。ただヒタスラ明るい、ガッチリした曲、という印象が強かった。
第2楽章の「影」に改めて気付いたのは、今回のこの番組のオカゲと言っていい。

さて、「謎解き?」の途中経過を書くのは省略したが、結論またはオチとしては、クライアントの服の帯に、桂馬が1つ挟まっていた、というものである。自分の持ち駒を、1つ見失っていたわけである。そして、その桂馬が1つあれば、絶体絶命の場面だが、即詰めの手順があるのだ。
クライアントが相談の際に並べていた、抜けてきた、という対局の盤面で、桂馬を1つ打つことによって大逆転となるのを、順に動かして見せていた。これは探偵が動かしていて、探偵も一応のレベルまで指せる、ということにようだった。

私はここでの探偵には遙かに及ばない程度しか分からないので、パッと見ても分からなかったが、多分正しいのだろう。プロの人にでも確認してもらったのだろうか。だとすると、結構丁寧に演出している、ということになる。

最後のオチ。面白かったので書いておく。
探偵とアシスタントが将棋を指している。遂に探偵が彼女に将棋の手引きをするように・・・? と思いきや、二人が遊んでいたのは、「崩し将棋」だった・・・。

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