N響アワー 2011年11月27日 幻想交響曲
チョン・ミュン・フンの指揮による幻想交響曲を、「オーケストラ音色革命」というテーマで放送した。
番組内で「革命」としてあげたのは、次の5点であった。
- 「恋人」の旋律を「発明」・・・後にワーグナーが「固定動機」として確立する方式の原型となるもの
- 交響曲にワルツを導入・・・後の作曲家に影響。番組内では紹介していなかったが、チャイコフスキーの第5交響曲など
- ティンパニーを4名に増員。関連して、ティンパニー4名と絡み合う第3楽章の場面で印象的な、イングリッシュ・ホルンも初めて導入
- 音楽でギロチンの斬首を表現・・・第4楽章
- 「死」の表現・・・終楽章
「死」の表現の箇所で、印刷稿ではチューバが奏する「怒りの日」のテーマが、元の案では「オフィクレイド」という楽器で奏されることになっていたとかで、その実物を見せて鳴らして見せてくれたり、鐘の音を出すときの実物の鐘を見せてくれたり、参考になる点はあった。
オフィクレイドを楽語辞典で調べると、1821年に発明された楽器で、現在では殆どチューバにとって代わったが、イタリアやフランスの軍楽隊では最近まで使われていた由。
番組内では、教会で歌を歌うときの伴奏用として使われていたので、「怒りの日」のテーマを出すのにふさわしいとベルリオーズが考えたのだろうと言っていたが、発明された年代から見て、幻想交響曲が作曲されたのが1830年だから、新しい楽器で新しい音色を出したいという欲求もあったのではないか。
また教会の鐘をイメージさせる「鐘」だが、通常の演奏ではチャイム(チューブラーベルとも言う。玄関に付けるチャイムではなく、「のど自慢」の放送で使っているカネ)を使っている。チョンが選択したのか最近はこうなのか、敢えてホンモノの鐘を使ったということの説明はなかった。
ちなみに、手許のスコアに、これらの楽器に関する特段の注書きは見あたらない。
さて、演奏は中々良いもので、「名演」と称してよいと思うレベルだったが、オケが少し乱れているように聞こえた。
そして、何と言っても気に入らないのは、全曲を鳴らさず、第1楽章、第2楽章のあと、「第3楽章の後半」から終楽章まで・・・という、妙な省略をしたことである。
「第3楽章の後半」と言うからどこからかと思って聴いていると、後半どころか、殆ど第3楽章の終りの部分である。第3楽章のテーマ最初のテーマが戻ってくる処だった。
「forblog_berlioz_sym_fanta_3rd_bar175.mp3」をダウンロード
実際には、この5小節前からで、170小節めから。この楽章は199小節なので、あと30小節を残すだけの箇所からだったのである。
「音色革命」だとか、珍しい楽器を見せるとか、解説に時間を費やしすぎて、肝心の音楽そのものを削ってしまうなど、本末転倒も甚だしいと言わねばならない。折角の名演なのに。
これにはもう1つ理由がある。前稿で引用した演奏例は、イングリッシュホルンが途切れ途切れに鳴る箇所・・・そのため、スコアではスタッカートが多用されていて、そのままDTM化した・・・で、雷鳴を思わせる4人のティンパニーとの掛け合いが絶妙なのだが、元々この楽章の最初の部分では、イングリッシュホルンとオーボエの掛け合いとなっているのである。
「forblog_berlioz_sym_fanta_3rd_opng.mp3」をダウンロード
平和だがどこか寂しげな楽句だと思うが、中間部を経て先ほどの箇所に来たときはイングリシュホルンだけとなっていて、寂しさがさらに募り、聴きようによっては孤独感、さらには恐怖を感じることさえある雰囲気となる。
そうして孤独感にさいなまれた処で、遂に憧れの恋人を殺してしまい、「断頭台への行進」という第4楽章に突入するのである。
だから、この楽章は、最初から流さないと、孤独感が増してくる感じが薄れてしまい、第4楽章以降の狂気の世界につながりにくいのだ。
1時間でなく57分の放送時間になった影響か? と思って手許のCDで演奏時間を調べると、ミュンシュ指揮ボストン交響楽団では、48分48秒、同じくミュンシュが指揮するパリ管の演奏が49分04秒だった。約50分弱ということになる。
チュン指揮による今回の演奏時間を計ったわけではないが、57分もあれば何とかなったのではないだろうか。或いは、解説をタップり行うのであれば、思い切って第2楽章を省いてしまうなど、音楽的な意味が薄れにくい省略の仕方もあったのではないか。
もう1つ書いておきたいのは、終楽章の「怒りの日」についてである。
ここは、「縮小カノン」となっていて、厳(おごそ)かな雰囲気の「怒りの日」が徹底的にパロディックにされて解体されて行く感じを表している。その説明がなかった。西村が「コミカルな感じにもなって」と言っていたのがそれに近いが、もっと言うと、茶化してパカにする、というのに近いはずだ。
「縮小カノン」というのは、ある旋律を、音の長さを半分にしたものとして続けて行くやり方だ。
ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の、第1幕への前奏曲。冒頭に鳴らされる「マイスタージンガーのテーマ」が、曲の途中で茶化してバカにしたような感じで出てくる箇所がある。そこで使われている書き方は「縮小カノン」ではないが、長い音で演奏されるべき箇所を短い音が鳴らすと、どうしても矮小化された感じを伴うものとなるようだ。「マイスタージンガー」の中では、主人公に対する「敵方」の役であるベックメッサーをいじりまくるシーンの音楽として使われている(このベックメッサーは、反・ワーグナーの論陣を張った、音楽評論家のハンスリックを茶化したキャラクター)。
さて、幻想交響曲の私のリファリンスだが、別の処でも書いたが、上記の、ミュンシュ指揮の中、ボストン交響楽団盤である。エゲツなさや熱に浮かされたような切迫感など、中々この上を行く演奏には巡り合えない
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