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2011年12月24日 (土)

N響アワー 2011年11月13日 ドイツレクイエム

ブラームスの「ドイツレクイエム」の抜粋。採り上げたのは第1部と、第5部から第7部まで。

指揮がプレヴィンということで、異色の取り合わせだと思ったが、彼はドイツ生れであり、この曲が大好きだということだった。
何となく彼をアメリカ人だと思い込んでいた自分に気が付いた。ジャズやミュージカル畑で活躍していたシメージが強いためである。

プレヴィンは、第1部のオーケストレーションでヴアイオリンが使われておらず暗い響きを出すが、その美しさを「例えようもない」としていた。
また、ソブラノの中島彰子は「死者を共に悼むというよりは、生きている人たちに希望を、天から与える曲」だとして、黒い服でなく赤い服を敢えて選んでステージに立つ、といったことを言っていた。

私はこの分野には比較的疎いので、こうした解説と併せて聴かされると、中々良い曲だと思ったし、演奏も良かったと思う。

また、曲の途中の解説で、西村が「この曲のあと大きな交響曲を次々に書いて行くことになるが、その中核となる立ち位置を確定することとなる曲として位置づけることができるということを言った。
また、プレヴィンは、「ブラームスの意図は、『大丈夫、みな救われるのだ』ということにあると考える」と述べていた。

続いて曲を聴きながら思ったのは、西村の言の通りなら、なぜブラームスはこの曲で達成したような作風のまま交響曲に取り組まなかったのか、ということである。第2番はまだしも、他の3曲は・・・とくに第1番は・・・余りにも力みすぎている、といつも思っているからだ。

改めて手許の辞典にあたると、「ドイツレクイエム」の作曲は1857年から1868年。第5部を除く初演が1868年。全曲初演は1869年。
交響曲第1番の作曲は、中断を挟みながら、トータルでは1855年から1876年(21年!)で、初演が1876年である。
交響曲第1番の構想の一部が流用されたと言われるピアノ協奏曲第1番は、1854年から1858年で、初演が1859年である。

ベートーヴェンに匹敵する交響曲を書きたいとの思いが強い余り、いかに長い年月を要したことか。私は、この年月を「浪費した」とは思わないが、もっと早く最初の交響曲を世に問うていたら、どれだけ気が楽たせったろうに、と同情を禁じ得ないし、そうしたらどれだけあと多くの交響曲を我々に残してくれただろうか、との思いに囚われるのである。

尚、番組内では触れていなかったと思うが、この曲、師であり友人だったシューマン(1810年~1856年)の死を悼んで作曲を始めたとのことである。そうすると、このレクイエムの持つ優しい表情は、実はクララに対する呼びかけでもあったのでは・・・と私には思えるのだ。

そしてあと一言。
プレヴィンの言っていた「大丈夫、みな救われる」というメッセージが込められている、というのは少し疑問がある。
そうしたメッセージは、後にマーラーが交響曲第2番(全曲初演1895年)で扱ったテーマだが、ブラームスの活躍していた当時、キリスト教としては間違った考え方とされていたのではないか、と思う。「大丈夫、みな救われる」というメッセージは、日本人に自然信仰(及び、それと結びつく神道)や鎌倉仏教の底流があるから我々には殆ど自然に受けとることができるが、ブラームスの頃のドイツでねえ・・・。親日家であるプレヴィンには、日本人の持つ信仰なり考え方が大きな影響を与えるに至っているのでは?とも思った。

さて、初めに「この分野には疎い」と書いたことに表れているように、私はこの曲の盤を持っていない。
プレヴィン盤が見あたらないので、手許に置くとすれば、カラヤンあたりか。

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