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2011年11月

2011年11月28日 (月)

N響第1708回定期 ブロムシュテットのブル8

地デジに変って、レコーダの容量は少ないものしか準備できなかったこともあって、また震災後の心境の変化もあって、録画したり、さらにそれを保存したりする番組が大幅に減った。
BS2で放送されている「特選オーケストラライブ」もその1つである。だから、何か凄く期待できそうな演奏会の情報を事前に得ることができたときは録画予約するが、その他は、たまたまテレビを付けていて見ることとなった、ということになる。

今回、2011年11月27日(日)に放送された掲題のものは、後者である。朝早めに起きてテレビをザッピングしていたら行き当たった。シューベルトの7番(未完成)と、ブルックナーの7番というプログラムで、未完成の終りの方から見始め、ブルックナーの第3楽章の途中まで見た。

このときのブルックナーの演奏は2011年11月20日のN響アワーで採り上げられ、11月20日の記事に書いた。
そこにも書いたが、私はこの曲、偉大な曲なのだろうが今一よく分からないというのが率直な処で、全曲を通して聴いたことが殆どない。第2楽章までは聴けても、第3楽章の余りに素朴な音楽にガクッときてしまうのである。

今回もその例に漏れず、第3楽章の途中で・・・トリオが始まった時点でイヤになってしまった。

よく考えて見ると、ブルックナーの交響曲でよく聴かれる曲の殆どのスケルツォ楽章は、かなり質が落ちるのではないだろうか。私が傑作と思えるのは第9番のスケルツォのみである。あれはスゴイとしか言いようがない。しかし、他はどうも頂けない。スケルツォの主部は余りにも素朴であり過ぎるし、トリオに出てくる旋律も・・・ブルックナーの交響曲には殆ど旋律らしきものがない、と私は考えているが、それでも・・・ああ、いいなあと思った事は一度もない。

シューベルトでスケルツォを持つ「ザ・グレイト」だと、スケケルツォ楽章のトリオで、何でもない旋律が、フッと心を解放してくれ、涙を抑えきれなくなった経験がある。この演奏である。レヴァイン指揮シカゴ交響楽団。発売当時から名盤の誉れ高い1枚である。

マーラーともなると、どの曲と言うように限定する必要さえないくらい、そうしたものに満ちあふれている。

ブルックナーのスケルツォは第9番のそれだけが大傑作と思うが、敢えてもう1曲挙げるならば、第8番のスケルツォ。
これも素朴過ぎるスケルツォだが、終楽章の最終部で引用され、そのときは天を仰ぎ見て神を称えるといった趣の、とても崇高な感じのものに変容する。そうして、素朴過ぎるスケルツォが意味を持つと考えれば、まああり得るかも知れない。

さて、先の記事でも触れたが、やはり第2楽章にシンバルは使われていなかった、と見た。ノヴァーク版はシンバルパートがあるはずなのだが・・・。
私はこの曲のスコアの、ドイツ語版を持っているが、その後に改訂が行われているのかも知れないので、最近は日本語版もあるから、ちょっと調べてみたい。
シンバルの入っている盤で私のリファレンスは、別の処でも書いたが、ハイティンク盤である。

2011年11月27日 (日)

題名のない音楽会 2011年11月27日 「30分で分かる」こうもり

2011年7月に西宮でやった「こうもり」の公演と同じメンバーによるもの。
ソプラノは森麻季で、アイゼンシュタタイン家の小間使いであるアデーレ役。
カウンターテノールがヨッヘン・コヴァルスキーで、通常女性(メゾ・ソプラノ)が演じるオルロスキー公爵役をカウンター・テノールで。
ヨッヘン・コヴァルスキーは、この役がハマリ役とのことで、しかし上記の西宮公演を最後に引退とのことだった。
オケは兵庫県立文化センター管弦楽団。指揮はもちろん佐渡裕。

番組ではこれを神田山陽の講談仕立で30分弱にダイジェストした。

講談仕立でストーリーのエッセンスをやるといいうのは大賛成。私はこのオペレッタ、何度も見ているわけではないこともあって、今いち粗筋を掴めないでいたのだが、今回、よく分かった。
まあ、ハッキリ言って下らない内容だが、楽しいものであるには違いない。

さて、やはり30分弱に収めるのは無理があり、序曲も半分ほどしか演奏されなかったり、始めの方に出てくる「私、おいてきぼりにされるのね(So muss allein ich bleiben)」・・・「1人になるのね」と訳されることが多い・・・など愉快な曲が省かれたのは残念。この曲、結構好きなので。

この公演、西宮で行われたとき、私の行動範囲内なので、行く選択はあったが、行っていない。今回の番組が始まったとき、なぜ行かなかったのか、理由を思い出せないでいたのだが、歌が始まったら理由が分かった。全編日本語訳だったのである。
なぜ今どき日本語訳でやる必要があるのか、理解できない。

少なくとも、子どもが見て分かるものではないし、また見せるべきものではない。夫妻それぞれが一夜のアバンチュールを求めて別々に、しかし同じ会場に行き、会場で出会ったそれぞれの相手が、実はダンナであり奥さんだった、という話なのだから。
だから、子どもでも分かるように、というのであればマチガイである。洋画の字幕と同じで、会場の字幕がちゃんと読めるようになる、というのを1つの目安としたらいいのだ。

さて、この公演、実演を見に行かなかった理由として、日本語による演奏というのを理解できない、ということがあったのは上記の通り。ドイツ語の歌詞に合った音楽を作曲しているはずなのだから、日本語では表現に無理がある。

もう1つの理由は、私の持っているクライバーの演奏(レーザーディスク)がベストだと思っていて、それ以上のものにはならないと明確に予想できたからだ。
もちろん、そうは言っても、是非とも実演に接したいという思いが強ければ出かけただろうが、そんな思いを起こさせるような曲ではないのだ。ハッキリ言って下らない作品だと思っている、ということは冒頭に書いた通り。

さて、クライバーによる演奏、現在ではもちろんDVD化されているが、新品は入手困難かも知れない。新品で入手できるCDと併せて挙げておく。

さて、この稿を書いていて気がついたことがある。

銀行家の苗字のアイゼンシュタインだが、ドイツ語で書くとEisenstein。Eisen(アイゼン)は、「鉄」。Stein(シュタイン)は、「石」である。
これって、日本の名前で、カタブツの人を「石部金吉」という架空の名前をつけてからかうのと同じではないのか? 余りこの曲の解説を読んだことがないので100%の確証はないが、かなり、可能性が高いのではないか。

銀行家だから、「石部金吉」、けっこう。
しかし、実はとんでもなく軽い男で、浮気ばかりしている役、というのがミソなのだ。役として与えられた名前と真逆(まぎゃく)。これがもう1つ面白いはずだ。初演当時から、当然ドイツ語を母国語とする人たちが聴衆だったはずだから、名前と役柄の真逆さに、会場は爆笑だったのではないだろうか。

2011年11月25日 (金)

名曲探偵アマデウス 2011年10月1日 展覧会の絵

ムソルグスキー作曲、ラヴェル編曲版による解説が行われた。

クライアントは、自分で店も持つファッションデザイナー。
店の経営が苦しくなり、祖母に援助を求めたら、古いLPが送られてきた。これを売って足しにせよという意味かと思って、売りにきたと言う。
しかし探偵は、このレコードに収録されている「展覧会の絵」に、祖母からのメッセージが隠されていると推理し、曲の解析にかかる。

曲の推移とともに各々の曲の音楽的な特徴や、隠されているかも知れないメッセージを順に説明・推理して行く方法が採られた。ここでは楽曲分析を中心に記載して行く。

曲は、友人だった画家ガルトマンの死に際し、彼の作品の展覧会が催され、それを見にいったムソルグスキーが、400点以上の作品の中から10点を選び、その印象を音楽にしたもの。
曲の間ごとに「プムムナード」という曲が入っていて、1つの絵をみたあと、次の絵に向かって歩いて行く様子を描く。
こうしたものでつないで音楽を構成して行くこと自体、既に西洋音楽の枠を越えて革命的と言ってよい曲づくりである。

冒頭のプロムナード
1小節ごとに5拍子と6拍子が交代する。ヨナ抜き音階で親しみやすい反面、和声の付け方は西洋音楽の理論から逸脱したものである。
ロシアの民謡などで使われる音楽を模していて、これは、ロシアの民衆の側に立つ、という、作曲者の思いを表している、と説明していた。

民衆の、日々の暮しの楽しさを表すのが「リモージュの市場」、苦しさを表すのが「ビドロ」と説明されて行く。

サミュエル・ゴールドベルクとシュミイレ(金持ちのユダヤ人と貧乏なユダヤ人)
ピッコロトランペットと言う珍しい楽器にミュートを付けて演奏するよう指示されている。番組内で、楽器の現物と、ミュートを付けたときと外したときの音色を比べて聴かせてくれた。

キエフの大門
華麗な終曲に付いたタイトルだが、モトになった絵はよくCDなどのジャケットに採り入れられている、ロシア正教の教会風の建物のデザインである。
しかし、作曲された当時、この門は存在していなかった。老朽化によって取り壊され、新しく建て直すにあたってデザインを募集していて、ガルトマンがそれに応募したときの絵であると推定されている。
古い伝統にのっとった中に新しい要素も盛り込んだデザインである。完成の暁には、ここに人々が集まって、感謝の祈りを捧げたい、というメッセージを示しているのではないか、と説明していた。

「展覧会の絵」は、作曲者の生前は殆ど評価されなかったが、色々な作曲家によってオーケストレーションが試みられ、ラヴェルの編曲版が最も成功し、最も有名になった。
ここで、この冒頭部について、ストコフスキー編曲版とラヴェル編曲版を聴き比べさせてくれた。

上記の通り、色々と説明していたが、ひょっとすると深読みし過ぎではないか、というのが私の感想だ。この番組、ときどき推論を暴走させてしまい、どこまでが音楽史としての定説なのか、音楽理論上正しいのか、分からなくなってしまうことがある。

また、ラヴェル編曲版が余りにも精緻にできていて親しみやすさも大きくしているので演奏機会も多いが、私はある時点からは、原曲のピアノ独奏による版の方が遙かに価値の高いものだと考えるようになっている。このことは、このブログ内でも以前触れたことがある。

最近はピアノ版での演奏も増えたようだ。以前の記事でも書いたが、我らが辻井伸行の演奏も悪くないが、やはりアシュケナージの若い頃の演奏にトドメを指すと思う。
両方挙げておく。
アシュケナージ盤のジャケットに使われているのが、「キエフの大門」のモトとなったと推定されている絵である。

これも以前に書いたが、このCDの演奏などを聴くにつれ、アシュケナージは、間違いなく20世紀を代表する超一流のピアニストだったという感慨にふけってしまう。
指揮者としての彼はそこまでは達していない。一流かも知れないが「超」までは付かない。演奏によっては1.5流だったりハッキリ二流だったりする。

番組は、祖母からのメッセージが、祖母が代々営んでいるツムキ゛職人であることから、古い伝統を大切に踏まえた上で、新しいことにチャレンジすべし、ということだと言うことになり、演奏例のあと、心機一転してクライアントが新作のファッションショーを開く、ということで終る。

演奏例はデュトア指揮。
こうした曲を振らせると、現在、彼の右に出る指揮者はいないだろう。

2011年11月24日 (木)

名曲探偵アマデウス 2011年10月19日 続き

(前稿からの続き)

「亡き王女のためのパウ゜ァーヌ」。番組内ではぴあの版を使って分析していて、見識だし私は基本的に賛同する・・・と書いたが、オーケストラ版はこんな感じである。ピアノ版と同じ四分音符=50 で打ち込んでみた。
主旋律を奏でているのは、珍しい「G管」のホルン。
通常、ホルンは殆ど「F管」であって、Finaleの音源にも「F管」と「E♭管」しか用意されていない。仕方ないのでF管で入力してから2度上げた。
本来は、ラヴェルがそれを要求していたのだし、他はごく普通の楽器を使っているので、ホルンだけわざわざ「G管」を指定したのは、「G管」ならではの音色が欲しかったはずなのだが、やむを得ない。

「forblog_short_pavane_ohtr.mp3」をダウンロード

一度にアップできるファイル容量の関係でビアノ版と分かれたページに載せることになった。もし聴き比べて頂けるならば、どう思われるだろうか。
私は、オーケストラの使い方がうまいので、これはこれでいいかも知れない、と思いつつ、それでも、音色が豊かになった分、何か大切なものを失ってしまったように思うのである。ピアノ版の、素朴でありながら何か心の、深い処に入り込んでくるような感じ・・・とでも言おうか。

さて、前稿で、この曲は作曲家や演奏家にとっては価値の低いものとされてきた歴史があり、何よりもラヴェル自身が、後年、批判の急先鋒に立った・・・と書いた。
しかし皮肉なもので、彼自身、この曲を愛してもいて、プライベートな場ではよく弾いて聴かせたそうだ。

そして、番組内で紹介され初めて知ったのだが、晩年、ある処でこの曲が流れているのを耳にして「実に美しい曲だ・・・。ところで誰の作品かね」と言ったそうだ。
こういう話、私は涙なしには聞けない。

晩年、交通事故の後遺症で、頭の中にある曲想を楽譜に書くことができなくなってしまった、という話があるから、そんな時期と重なっていたかも知れない。
また、「人魚姫」の話で、ハッピーエンドとはならないバージョンでは、人間界に来て人間の男と愛し合う関係になった姫が、人魚界に帰らざるを得なくなる。そして、帰ったあとで何年かしてから彼と再会するのだが、愛し合っていた彼であることが分からなかった・・・という話を思い出したりした。

この曲のオーケストラ版の、私のリファレンスはデュトア盤。
ビアノ版は色々と出ていて甲乙つけがたいが、正統的な演奏として、パスカル・ロジェの全集版を騰げておきたい。ちょっとだけ試聴してみたが、上記の、私の感じたテンポよりもさらに遅いように聞こえる。
併せて、我らが辻井伸行の演奏も。これも少しだけ試聴したが、実にきれいな音が出ている。

ただ、日本人の演奏も色々と出ているからと言って、誰でも良いわけではない。それぼとヒドイ演奏もないとは思うが、絶対に買ったら損、というのが1つだけある。フジコ・ヘミングだ。間違ってもこれだけはだけは手を出さないように忠告しておく。

2011年11月23日 (水)

名曲探偵アマデウス 2011年10月19日 亡き王女のためのパヴァーヌ

ラヴェルが1899年にピアノ用に作曲し、1899年に自らオーケストラ用に編曲した曲である。

クライアントは探偵が学生時代にちょっとアヤシイ関係にあったことをほのめかす、ディープ内藤。このクライアントは時折出てきて今後の作品について相談するのだが、余り内容のあるものではないので今回はメモしていない。

楽曲分析では、ピアノ版を使用した。
これは1つの見識だ。私はこの曲、ピアノ用の方が優れていると考えているし、ピアノの方が音楽の骨組みが分かりやすい。

シンプルだし人気もある曲だが、作曲家や演奏家の多くが、価値の低い曲とさげすんできたと言う。
これは知らなかったが、この機会に改めてピアノピースとオーケストラ用のスコアを取り寄せてみると、オーケストラ用のスコアの解説に確かにそのことが書いてあり、しかも・・・番組内でも言及していたはずだが、批判の先鋒に立ったのは、後のラヴェル自身だそうである。

曲の始まりは「空虚五度」(長調か短調かをハッキリさせる3番目の音を欠く和音)で、長調とも短調ともつかない響きを持つ。始まりこそ長調(この曲には♯がひとつ付いているので、ト長調)みたいだが、すぐに短調(ホ短調)とも取れる響きとなる。そこに繋留音(前の音が続いて鳴ること)が時折加わって、不協和音を生ずる反面、響きに陰影が出る。

そうした分析の後、「亡き王女」とは誰のことかという話に移り、ラヴェルを援助していたポリニアック大公夫人という説が濃厚・・・という話になる。現にラヴェルはこの曲を彼女に捧げている。
しかし定説とされるには至っておらず、世の中の女性一般、さらにはラヴェル自身の母親という説も成り立つと言う。

曲をどんな速さで演奏するかというメトロノーム記号だが、一般に四分音符1つを54という速さでラヴェルは指定していて、私が手許に取り寄せた楽譜も、両方ともそう記載されているが、実際にラヴェルが自作自演を録音したものは四分音符=70に近い速度で弾いているそうだ。
このため、出版譜によっては、その速度を指定しているものもあるそうである。

それは彼の母親が亡くなってから録音されたものであることから、彼の、女性観が変り、そのことが影響しているのではないか、と番組内では話を進めたが、私はこのことには賛同しない。
作曲家が自作自演したものを絶対的なものとするのは誤りだとおもうからである。実際、作曲家の指定したテンポよりも速くしたり遅くしたりして演奏することによって、却って曲の価値が高くなった曲は、過去にいくらでもあるからだ。

ちなみに、私は聴いたことがないと思うが、自作自演盤も出ている。ただ、新品は入手しにくいようだ。

私はこの曲、楽譜の指定よりももう少し遅くてもいいと思う、ピアノ版の冒頭部分をDTMで打ち込んでみて色々と試したが、四分音符=50 にしてみて落ち着いた。この位のテンポで良いのではないだろうか。
ちなみに、Finaleに付いているGarritan Instruments による演奏で、スタインウェイのピアノということになっているのだが、ペダリングの指定が中々うまく行かず、少し濁ったり途切れがちになっているかも知れない。

「forblog_short_pavane_piano.mp3」をダウンロード

(この稿続く)

2011年11月22日 (火)

N響アワー 2011年11月20日 ブロムシュテットのブル7

この曲は西村曰く、ブルックナーの中で最も好きな曲だそうである。また、よくブルックナーの曲はオルガン的な響きがあると言われるが、転調にもオルガン的な発想が見られると言う。そしてそれは、どちらかと言うとピアノ的な発想に基づくと見ることのできるブラームスとは異なったものであるそうだ。

また、ブルックナーの交響曲の多くが弦のトレモロで始まる「ブルックナー開始」を持っていることでも分かるように、明らかにベートーヴェンの「第九」の影響を受けていて、ベートーヴェンを尊敬もしていた。併せて尊敬していたのがワーグナーで、その死が間近であることを知ったとき、ブルックナーは第2楽章に取りかかっていて、訃報に接したあと、その終結部を書いたと言う。
私はもちろんその辺りのことは知っているが、練習番号Wで壮麗な音楽となり、練習番号Xから第2楽章の終結部となる・・・という話は初めて聞いた。それを、スコアを画面に見せながら説明してくれたのは良かった。

Wとはワーグナーの頭文字であり、Xとは十字架を象徴するものだそうだ。
私もスコアは持っているが、余りジックリと眺めたことがないいせいもあって、全く気付かなかった。

演奏は、解説を途中に入れながら、第1楽章全部と、第2楽章の途中から、そして第4楽章全部という抜粋で行われた。
ブロムシュテットは、こうした曲の演奏には向いている。いや、もっとハッキリ言うと、かつてヴァントや、日本では朝比奈隆が代表的な「ブルックナー振り」と言われたように、現在はブロムシュテットこそが代表的な「ブルックナー振り」かも知れない。年齢を重ねるごとに、ブルックナーに対する姿勢や考え方が確立して行くものなのか。

ブロムシュテット曰く、「時代はブルックナーを求めている」そうで、彼も7番は好きだそうである。

私は率直に言って、この曲、全曲を聴き通したことは殆どない。偉大な曲だと言うが、それは第2楽章までであって、後半はかなり落ちると思う。
第1楽章は静かな歓びに満ちているし、第2楽章は全て通して深いものがあり、とくに上記の、練習番号X以降の哀しみに満ちた音楽は例のないものだと思う。

しかし、第3楽章に入ると余りに素朴な音楽にガクッと来るし、第4楽章の退屈なこと。退屈な上に、余りにも突然に曲が終ってしまう。むしろ第1楽章の終りの方が余程全曲の終わりにふさわしい響きと長さを持っている。
今回の演奏でも(第3楽章は省かれたが)、そのことを再確認するに留まった。
サントリーホールで行われた演奏で、残響が自慢のこのホールでこそ、全休止が多用されているブルックナーの響きがよく分かるというのを改めて実感した。

そんなわけで、私はこの曲、まだ本当の処はよく分からないし、全曲を通して聴くのは稀であって、聴くとしても第2楽章のみということが多い。それでも色々と聴いてきはいて、行き着いたのはハイティンク盤である。これについては、「題名のない音楽館」の「ハイティンク論」にも書いた。

そのページでも触れているが、版の問題と関係して、第7番の第2楽章にシンバルを入れるかどうか、というのが結構問題となった時期がある。現在では多くの指揮者がノヴァーク版を採用しているはずで、その場合はシンバルを入れるのが普通。
けど、ブロムシュテットの演奏ではシンバルがなかったように思う。
ハース版の信奉者の生き残りなのか、それとも、ノヴァーク版でありながらシンバルを省略したのか。

私はシンバルは絶対に入れるべきと考えていて、それもあってハイティンク盤に行き着いたのである。
また、関連して8番も名演。
7番も全曲盤も新品は入手しづらいようだが、両方挙げておく。

2011年11月21日 (月)

名曲探偵アマデウス 2011年11月16日 マーラー5 続き 

(前稿からの続き)

マーラーの5番で、半ば予想通りに第4楽章を中心に解説・分析が行われたのだが、途中でテンポを微妙に変えるよう作曲者自身が指定していたり、G線ならG線、D線ならD線でと、ヴァイオリンで弦を指定してポルタメントの効果を出すようにしている、という辺りは、私には既知のこと。
何れも、この5番に限らず、マーラーの交響曲の多くで見られることである。弦を指定して弾かせるのは、ポルタメントの効果と併せて、ヴィオラでもなくヴァイオリンで弱音器を付けて演奏するのとも異なった、独特の「くぐもった音」を求めた、ということもあるはずだが、番組中、そこは触れなかった。

マーラーのページに演奏例を入れるにあたり、少なくとも「G線指定」やポルタメントは付けたかった。「G線指定」は、ヴィオラだけで演奏してみたり、ヴィオラとヴァイオリンの音と混ぜてみたりたが、期待ほどの効果が得られず、ポルタメントについては、Fimaleにそのためのツールも備わっているので色々と試したが、品のない音になってしまったので採用しなかった。

で、この曲の第4楽章の後半部分で、冒頭のメロディーが戻ってくる箇所で、冒頭よりも和音がスッキリし、音の長さは倍になって・・・という説明がありナルホドと思ったので、演奏例を作ってみた。
冒頭にポルタメントを入れてみた。成否は分からない。やはり品のない音になってしまったかも知れないが、こんな感じの演奏を聴いたことがあるようにも思う。
この演奏例は、マーラーのページ中の「5番」には入れていない。
前回11月20日付けの記事で挿入した冒頭部に比べて、ファイル容量の関係で僅かに圧縮率を大きくした。従って、僅かに音質は悪いはずだ。

「forblog2_short_mahlerSym5_4th_RN301.mp3」をダウンロード

また、マーラーのページ中の「5番」には、マーラーの交響曲の楽章としては短い方なので、第1部の全てを演奏例として入れている。

さて番組内で演奏例の後のエピソードでは、スパイがCDを忘れて行ったのに気付いた探偵がそのCDをよく見てみると(ドイツ語で書いてあったから探偵しか読めなかったのか??)ターゲットの製薬会社の所長に宛てた奥さんからのラブ・メッセージで、併せて「この水虫薬」で早く水虫を治してね」と書いてあった・・・ということで終った。

マーラーの5番ということで、上記のページでも触れているが、ここでも私のリファリンス盤を挙げておきたい。
併せて、映画「ベニスに死す」も。

2011年11月20日 (日)

名曲探偵アマデウス 2011年11月16日 マーラー5番

宅配ピザ屋に変装している産業スパイがクライアント。
首尾良く、ある製薬会社の研究所から新薬のサンプルらしき物を盗み出した。そのサンプルにマーラーの交響曲第5番のCDが同梱されていたのだが、この音楽で何か薬の効能が暗示されていると思われる・・・という相談。

探偵及びアシスタントと共に曲の全体を聴き進めながら謎解きをして行き、この曲の第4楽章で、2度目にテーマが出てくる処で、深く沈静化された気分が醸し出されることから、「究極の精神安定剤」ではないか、という結論となる。

曲の全体を聴き進める・・・といっても第1楽章から順に第3楽章までは冒頭部分をザッピングしていただけで、詳しく分析したのは第4楽章のみ。また、第5楽章(終楽章)には全く触れなかった。
途中まで、「この曲は支離滅裂な処がある」と探偵が言ったので、ひょっとすると第5楽章で、統合的な要素があるならば、どう統合されているのか、教えてくれるのかと思ったのだが、結局それはなかった。

やっぱり、そうなるんだろうなぁ・・・とは思っていた。
私はこの曲、マーラーの交響曲の中では駄作の部類に属する、と長い間思っていた。今でこそ少しは考え方を改めているが、この曲を「名曲」と評する人が多いのが未だに分からないのも確かだ。

演奏例も第4楽章のみ。指揮はスヴェトラーノフ。
この演奏は中々良かった。
N響アワーで2010年12月12日に彼が「7番」を振ったのを放送したことがあり、どうしようもない演奏だと思ったが(2010年12月15日付けの記事)彼の演奏スタイルとマーラーの曲のどういう部分がフィットし、どういう部分が合わないのか。私はまだうまく説明できない。

ちなみにその箇所の冒頭は・・・ご存じの方も多いと思うが・・・こんな感じで始まる。「forblog_short_mahlerSym5_4th_op.mp3」をダウンロード

今でこそ、この楽章がこの位置にあり、この長さであることの意味が少しは分かった気になっているが、それは、続く第5楽章まで聴き通して初めて何となく分かった気になるだけのことだ。
番組内で紹介されていたが、この第4楽章は、マーラーから新妻のアルマに対するラブレターのようなものと解されているとのこと。
しかし、アルマに対しては、この曲の後の「第6番」で、もっとハッキリした、「第2主題」として示されるし、「第7番」でも、その第2主題は、「もう1つの、アルマの主題」と称されることもある。

それらの方が、どれだけ豊かで多様であるか、私の関連ページで音を聴いて頂けるとすぐ分かるはずだ。
新妻に対する甘い感情はむしろ、それらの曲において著しく、この第5番の第4楽章は、番組内でも言っていたが、もっと精神的な、内面に深く入って行くような感じをもたらす曲と言った方が良いと思う。
だから「究極の精神安定剤」と探偵は判断したのであり、そうした位置づけは結構適切な、イイ線を行っている、と思った。

(この稿続く)

2011年11月19日 (土)

名曲探偵アマデウス 2011年10月26日 くるみ割り人形

クライアントは、以前クルマのデザインをしていたデザイナー。今はヘッドハンティングされて、クルマはクルマでも「ベビーカー」の会社でデザインを担当してている由。
最近スランプに陥っていて、モトの会社の上司に相談したら、くるみ割り人形を送ってきた。これはモト上司のイヤミか? という相談。

この曲の中の何曲かはCMでも使われることが多い、ということで幾つかの曲を流してみる。クライアントとアシスタントが「ああ、それそれ」と言い、私もそれらが使われていたことは知っているが、何のCMだったか・・・NHKだからだろう、会社名を出さなかったので不満が残った。

この曲は子どもにも分かりやすい曲だし、舞台の設定がクリスマスのプレゼントということもあり、クリスマス前後によく演じられる曲である。
分かりやすい、ということから「行進曲」を例に挙げ、音階を多用したメロディーと、冒頭に出てくる3連符の数が絶妙であることなどが説明される。

クライアントが現在スランプだということで、それは「白鳥の湖」の初演で大失敗したあとのチャイコフスキーと同じ状況であること、「雪のワルツ」を鳴らし、「もっと想像力を働かせて伸び伸びとデザインせよ」という忠告か? などと話は巡り、そうは言ってもクルマと異なってベビーカーなどは制約事項が大きすぎて・・・と悩むクライアントに、チャイコフスキーもこの曲を大きな制約の中で作曲した・・・という説明が続く。

演出と振り付けを行ったプティパはこと細かな内容を指示する「作曲注文書」なるものをチャイコフスキーに渡していて、例えば「金平糖の踊り」は、「噴水の音がハネルように」と書いてあった。悩んだチャイコフスキーはパリで、当時出始めた頃のチェレスタを見つけ、その音色にたちまち惚れ込んで、その楽器を使うことでプティパの注文に応えてみせた、という。
番組中、チェレスタの中味を見せ、鉄琴との音色の違いなども聴かせた。また「金平糖の踊り」は減七の和音を続けて使っていて、いつまでも和音として「解決」しない浮遊感を醸し出していることなども説明された。

また、一見明るい「花のワルツ」も、中間部では暗い影が出てくる。これは、メック夫人からの援助が突然打ち切られたことと、妹の死という哀しみの中にあって作曲つれたことが影響しているのでは?ということだった。

演奏例は「花のワルツ」。
演奏後のエピソードとしては、無事立ち直ったクライアントから、お礼として「花のワルツ」のオルゴールを組み込んだくるみ割り人形が贈られてきたシーンで終る。

私はこの曲こそチャイコフスキーの3大バレエの中で最も優れた作品だと思っている。

MacでDTMをやっていたとき、音源に付いていたソフトのチュートリアルとして、「花のワルツ」の第1部が付いていた。やっているうちに面白くなり、スコアを見ながら結局「花のワルツ」を全部打ち込むことになり、さらに続けて、この組曲の全曲を打ち込んでしまったものである。打ち込んで行くことによって、チャイコフスキーの「ワザ」の一端に触れることができたように思う。

チェレスタの中味を見せたり鉄琴との音色比較など興味深いものだったし、「花のワルツ」の中間部に感じる影が、メック夫人からの援助中止や妹の死と関係あることは知らなかった。
付言すると「金平糖の踊り」で多用されていると説明された「減七の和音」というのは、コードネーム方式で言うとdim7のこと。ルート音の上に短三度で音を積んで行く和音である。

組曲の録音が多数出ているが、私は、新品の入手が困難なようだが、手に入るならば、是非ともクナッパーツブッシュの演奏を奨めたい。この曲がこんな名曲だったか・・・と再認識させられるはずだ。

また、バレエの映像なしでも音楽的に充実しているので、CDによって全曲に接するのもいいと思う。意外? なことにゲルギエフが中々いいと思っている。

2011年11月18日 (金)

題名のない音楽会 2011年11月13日 ベト3 続々々

(前稿からの続き)

さて3日間にわたって演奏例を交えながら2011年11月13日の「題名のない音楽会」の内容について書いてきた。
しかし、各々の演奏例は互いに関連したものであるため、本来なら同じ日の記事に纏めて載せたかった。
1つの記事についてアップロードできるファイル容量が1MB未満という規制があるため変則的な形を採らざるを得なかった。

WAVファイルからMP3にエンコードし、第4楽章の主題が714KB、プロメテウスの主題が最初に出る第3変奏が624KB、そのプロメテウスの主題が大きな高みと広がりに達する第7変奏が0.98MBとなった。
圧縮率を高くして容量をもっと小さくする方法はあるが、上記の通り、これでは何れにせよ3つのファイルを同時にアップすることはできない。
何とかしてもらいたいものだ。

さて、今回の番組、青島広志が久しぶりに作曲家の扮装で・・・今回は即ちベートーヴェンの扮装で・・・登場し、若干の解説を行った。
しかし、いつも思うだが、こんな演出、必要だとは全く思わない。
佐渡裕と青島広志ができの悪いコントを演じているヒマがあったら、もっともっと解説や演奏例を増やすのがいい。

先に書いたように、しょーもない「3ツキーワード」なんてものを軸にして説明するよりも、プロメテウスの主題そのものについての説明をもっとふくらませたりできたはずだ。

「プロメテウスの主題」が朗々と鳴る第7変奏を聴いて、ベートーヴェンのイマジネーションの広がりを再確認しスゴイと思い、なぜそう思うのかを説明するために、第7変奏に加えてあと2つの部分の演奏例も交えながら書きたいと考え、11月13日の放送以来11月15日まで、演奏例をDTMで鳴らすためにひたすら打ち込みをやっていた。
「プロメテウスの主題」が出てくる箇所を再掲しておく。

「beethoven_sym3_4th_var3_2.mp3」をダウンロード

11月12日は外出して疲れたので書く気が失せて休載したのだが、13日と14日は(15日の半分までは)DTMで時間を要したので休載したのである。

実はこの曲のスコアは何十年も前に購入したのでボロボロになっている。さらに、Macを使っていた頃に面白さを知って始めたDTMで、殆ど全曲を完成していたこともあり、小節番号をはじめ、実に書き込みが多い。当時のDTMファイルは行方不明となってしまったが、スコアを眺めながら懐かしく思った。

解説や評論の中にDTMを取り込むという使い方ができると気付いてマーラー論などで再開したわけだが、早くも容量の問題に直面して悩んでいる、というのは以前にも書いた通りである。

さて、最後に「英雄」交響曲と、この曲が有名になったため「エロイカ変奏曲」と呼ばれるようになった曲の、私のリファレンスを。
交響曲は若い頃のベームがベルリン・フィルを振ったものと、フルトヴェングラーの伝説の名盤。
「エロイカ変奏曲」は、聴いてみてもよい、という程度の音楽なので誰でもいいと思うが、聴いたことがないなら一度は聴いてみて欲しい。交響曲第3番の原型がそこにある。ここでは、我らが仲道郁代の盤を挙げておきたい。

2011年11月17日 (木)

題名のない音楽会 2011年11月13日 ベト3 続々

(前稿から続く)

この日の放送の最後に、このベートーヴェンの第3交響曲から第4楽章の抜粋をやった。その中で、「第何変奏」という字幕が付いた。これは大変良いことだと思った。第4楽章を採り上げたのも良い。

しかし、字幕で「第3変奏」と出て、関連して「この主題は」云々で、ベートーヴェンが自分をプロメテウスになぞらえて、「自分は犠牲になっても民衆のために働く決意を示した」と流れたのには、「おいおい、本当かよ」とツッコミたくなった。

そこで、改めてこの「プロメテウスの主題」が他にどのような曲に使われて来たかを調べ、作曲年順に並べてみた。尚、作曲年と作品番号の順序が合わないのは、出版順の関係である。先に出版された曲の方が若い作品番号となる。

  1. 八重奏曲 Op.103  作曲年・・・1793年より前
  2. バレエ音楽「プロメテウスの創造物」Op.43 作曲年・・・1800年から1801年
  3. ピアノ曲「プロメテウスの主題による15の変奏曲」Op.35  作曲年・・・1802年  この曲は、次の「英雄交響曲」が有名になったことから、現在では「エロイカ変奏曲」と呼ばれることの方が多い
  4. 交響曲第3番Op.55  の第4楽章  作曲年・・・1803年から1804年

まあ、作曲順から見て、あながち間違いではないことも分かった。しかし、それならもっと番組内でも演奏例などを交えながら説明しておいて良かったと思うし、最初に出てくる単純な音型の主題と、この「プロメテウスの主題」の関連も説明しておくべきである。
クラシック作品の分析に重点を置く「名曲探偵アマデウス」とまでは行かなくても、「N響アワー」だとしても、それ位の説明はするのではないか。(やがて「永遠の名曲たち」の中で採り上げると思うが、どうするだろうか。)

単純な音型が低音で鳴っている上に中音域と高音域で別の主題などを載せて行くという、古くからの様式を「パッサカリア」と称する。
ベートーヴェンの後ではブラームスがこの様式を本格的に交響曲に採り入れた。第4交響曲の第4楽章がまさにそれである。

ベートーヴェンの、この第3交響曲の第4楽章では、ブラームスほどは徹底していないし、むしろソナタ形式の様相を持つので「パッサカリア」とは言えないだろう。しかし、少なくとも初めて「プロメテウスの主題」が出てくる第3変奏では、あの、単純な音型がホルンなどによって奏されている。
下に引用した演奏例では、楽器間のバランスが難しく、どこまで再現できたか分からないが、耳をすませて頂けば聞こえるはずだ。

「beethoven_sym3_4th_var3.mp3」をダウンロード

こうして、ブラームスが後に彼の交響曲第4番で採り入れた「パッサカリア」形式の、交響曲における「ハシリ」のような要素も持っていると、私は考える。

(この稿さらに続く)

2011年11月16日 (水)

題名のない音楽会 2011年11月13日 ベト3 続き

(前稿より続く)

ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の第4楽章は、特異な形の変奏曲であり、もともとは単純な音型の主題から始まっている。

こんな主題だ。

「beethoven_sym3_4th_theme.mp3」をダウンロード

この主題をもとに第1変奏と第2変奏を繰り広げ、第3変奏に至って、最後の第7変奏で高らかに奏されることとなる主題が加わる。

この新しく加わる主題は、ベートーヴェンが過去にバレエ音楽「プロメテウスの創造者」の中で使ったものである。
プロメテウスとは、ギリシャ神話に出てくる神の一人である。主神ゼウスに逆らって人間に「火」を与え、罰として決して死ぬことのない体を与えられ、山の上に放置されて、生きながらにして肉食の鳥に体を喰われ続けることとなった。

自分は犠牲になっても、人類に「火」という恵みをもたらしたことから、ベートーヴェンは自分をプロメテウスになぞらえて、「民衆のために作曲する」という決意を、この英雄交響曲の第4楽章に使ったのではないか、という説明が、演奏中に字幕で流れた。

えー? 本当かなあ。
調べてみると、解説書の中にはそう書いてあるものもあった。

しかし、この「プロメテウスの主題」については、もっと説明すべきことがある。番組内では一切触れられなかったので、私自身の「復習」もかねて付言しておきたい。

(この稿さらに続く)

2011年11月15日 (火)

題名のない音楽会 2011年11月13日 ベト3

この日の「題名のない音楽会」は、名曲百選のシリーズで、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を採り上げた。

この曲に限らず、ベートーヴェンの曲が現在に至るまで多くの人々に愛され続けてきている理由として、①常に新しい試みを続けていたこと ②サプライズで引きつける ③市民のために音楽を書いていた
3点を挙げ、さらにベートーヴェン自身がつけた「英雄」という題名について解説が行われた。

クラシックを少しでも聴いている人であれば、この曲は元々ナポレオンに心酔していたベートーヴェンが、「ボナパルト」という題名を付けた曲として作曲したものであり、ナポレオンが皇帝に就任したというニュースを耳にしたベートーヴェンが「彼も単なる俗物だった  ! 」と怒り狂い、献呈も予定したのを取りやめ、「ある英雄の思い出のために」と出版した・・・ということになっているのは承知の通りである。
さらに、結局この「英雄」とはベートーヴェン自身のことではないか、とする説があるのも、承知の通り。

この辺りまで見ていて、今回は余り大したことは書けないな、と思っていたのだが、最後に演奏例として第4楽章の抜粋をやり出し、とくに第7変奏に差し掛かった処で、何と素晴しいイマジネーションの広がりだろうと改めて感服したのである。

この箇所である。

「beethoven_sym3_4th_var7.mp3」をダウンロード

「イマジネーションの広がり」という点で、私はこの曲をベートーヴェンの最高傑作と考えているのだが、この第4楽章にしても、元々は単純な音型から始まる特異な形の変奏曲で、「展開部」などソナタ形式の要素も採り入れながら、どんどん空間が広がり、さらに高まって行く感じが素晴しい。
そして、それが頂点に達したとき、この第7変奏が高らかに奏され、ここに挙げた演奏例のあと、コーダの部分に進むのである。

(この稿続く)

2011年11月11日 (金)

名曲探偵アマデウス 2011年11月2日(水) モーツァルト クラリネット五重奏曲

ピエロをやりたくてサーカスに入団した女性が、6年たってもやらせてもらえず、象の世話ばかりさせらせている。現在のピエロ役である親方から許しが出ない。やらせて欲しいと訴えると、まずこれを理解せよ、として渡されたのがこのレコード・・・と言って持ち込んだのが、掲題の曲のレコードという相談である。

ここまで見て私は、モーツァルトの曲は一見明るく聞こえるが、同時に憂(うれ)いを持った曲が多い。だからピエロも、お客を楽しませるだけでなく、憂いを感じさせる演技をすべき、という主旨なのだろうと思った。

結論として、全く正解だった。
とは言え、私が余りよく聴いていなかったせいなのだが、この曲に哀しみや憂いを感じることはなかった。
番組で順を追って説明され聴かされているうちに、ようやく次第に分かってきたというのが率直な処である。

この曲は、モーツァルトが、スタドラーというクラリネット奏者が奏でる音とその演奏に惚れ込み、スタドラーのアドバイスを得ながら作曲したと言う。これは知っていたし、番組内でもそのことは触れられていた。
しかし、それ故に、当時使われ始めていたこの楽器の性能をフルに引き出し得たのだということは、部分部分の解説が付くことにより、ようやく、かなり具体的に知ることができた。

また、クラリネットをやってている人なら周知のことなのだろうが、この楽器の低音域は「シャリュモー音域」、高音域は「クラリーノ音域」と称し、かなり異なった印象の響きをもたらすこと、それで、もともと音域の広い楽器であることも相俟って、作曲家の求めに応じ、色々な表情を創り出すことができる、ということは初めて知った。

演奏例のあとのエピソードは、クライアントがようやくピエロとしてデビューするというチラシを探偵と助手が眺めている、というシーンだった。

私は余りこの分野は聴かないのでリファレンスと言ってもたまたま選んだものだが、必要にして十分な内容だと思う。

この盤はモーツァルトしか入っていないが、ブラームスのクラリネット五重奏曲とカップリングされた盤も面白いかも知れない。
ただ、私はこうした盤で聴き比べたりすると、モーツァルトとブラームスの才能の、余りにレベルの違うことを感じ、結局モーツァルトしか聴かなくなってしまうのだ。

2011年11月10日 (木)

名曲探偵アマデウス 2011年11月9日 「第九」

ベートーヴェンの「第九」がテーマ。

さびれた商店街の活性化を図るためのイベントとして、この曲を歌うことになったが、リーダーに祭りあげられた八百屋のおかみさんが、メンバーがどうしても集まらない、という相談。

例の合唱部分しか知らないとのことで、曲の全体像を知ってもらうため、第1楽章から順に抜粋して聴かせ、第4楽章の導入部分の意味、そして歌詞として付けられたシラーの詩の意味などを説いて聞かせる。

第4楽章の導入部、低音弦で「レシタティーボのように」と指定された部分に、原案で付いていた歌詞を示したり、クライマックスで2つのメロディーが同時に歌われる部分の技法を、実際に国立音楽大学の声学部の合唱団を使って実演して見せた辺りは、この番組ならではのゼイタクな構成だった。

相談の流れと、曲の中のその他の分析については、私にとっては既知のことが殆どであり、詳しくは触れない。

ただ、一言付言するならば、演奏例は実につまらないものだった。余りにも速く、あまりにも浅い。
さして、この演奏例をはじめ日本人による多くの演奏がそうだが、合唱団の人数が余りにも多すぎる。なぜあんなに沢山の人数で歌わなければならないのか。

そして、相談内容だが、合唱の部分しか知らないような人たち=素人が集まって、本当にちゃんとしたものになるのだろうか。ありがちな設定ではあるが、ロクなものにはならないと思う。

また、最近は「第九」というとベートーヴェンの交響曲第9番の代名詞みたいに使われると番組内で言っていたし、確かにそんな扱いをされているが、交響曲を9番まで作曲した人は他にもいる。「第九」がベートーヴェンの曲の代名詞になってしまうのは間違っているように思う。

別の機会に触れたことがあるはずだが、私のリファレンスはフルトヴェングラー指揮、バイロイト祝祭管弦楽団の演奏である。

2011年11月 9日 (水)

サンクトペテルブルクアカデミーバレエのロミオとジュリエット

2010年10月23日(日)、兵庫県伊丹市にある「いたみホール」で、掲題の公演があった。
娘から、都合が悪くなったので・・・と差し出されたチケットを、好きな作品だしナマでは観たことがないのでホイホイと貰ったのだが、パンフレットを見ると、オケはナマではなく、録音を使うとのこと。S席で6500円だったし(安い)、また「アカデミー」と入った団体だったので、まあそんなとこか、と納得した。

開演前に、ファジェーエフという芸術監督のプレトークがあり、新しい演出による日本初演だと言う。ここでちょっとイヤな予感がした。パンフレットを改めてよく見ると、確かにその旨の記載があった。
とは言え、余り新しいものを拒否してばかりといいうのも良くないと思い、お手並み拝見、という心づもりで臨んだ。

始まると、この新演出のキモだとのことで、「時の女神」なるキャラクターがまず姿を現し、早速面食らったのだが、次いで肉襦袢(にくじゅばん=肌にピッタリと付けて着る、肉色のじゅばん)をまとった男女が何組も現れ、その中にロミオとジュリエットが登場するに及び、拒否反応を覚えざるを得なくなった。
余りにもワイセツな感じだし、ロミオとジュリエットが・・・死後の世界で、とのことだが・・・最初から出会ってしまっているようになり、本編中での劇的かつ運命的な出会いの意味が薄れてしまうではないか。

そして、この肉襦袢の男女数組は、このあとも時折登場するのである。

余り多くはない人数で演じたようで・・・予算の関係? ・・・例の最も有名な音楽が鳴る「騎士たちの踊り」は華やかさがなく、そのシーンで最後に鳴らされるガヴォット(古典交響曲の第3楽章と同じもの)は省略された。そしてバルコニーのシーンも、バルコニーなしで演じられた。

録音による演奏とのことだったので、劇場の音響システムがどのようなものかと思っていたのだが、到底オケを鳴らすにはふさわしくないレベルの音。
プロコの曲では、こんな作品でも時折耳をつんざくような不協和音が大音響で鳴らされることがある。ナマの音ならガマンできるが、レベルの低い再生音だと、ただやかましいだけで、とても聴けたものではない。

時間を追うにつれて違和感がつのり、2幕構成だったのだが、1幕が終った時点で1度も拍手する気になれず、ここで帰ってしまおうか、とかなり迷った。

まあ何とか残って観続けたのだが、「時の女神」が相変わらず妙な処に出てくるし、二人だけの結婚式を挙げさせる修道僧は出てこないし、殺し合いのシーンで本来は怒りの余り我を忘れて剣をとってしまうロミオに剣を渡すのが「時の女神」だったり、かなりイヤになった。

それでも、最後近く、ジュリエットが、ロミオの死んだ姿を見て嘆き悲しむシーンだけは、迫真の演技と言えるもので、思わず心を動かされてしまった。ここだけは拍手した。ただ、ここは音楽の持っている力が余りにも大きいことが、イヤでも心を動かされることに繋がる、ということはあるだろう。

まあ、自分ではまず買わないチケットだっただけに、良い経験をさせてもらった、ということだ。

それにしても、全体として大したことのない演技だったし、新しい演出で違和感があったし、こういうものを観ていると・・・会場で観ながらその思いを強くしていったのだが・・・どうしても、オーソドックスな演出で踊りのレベルも高い第一級の公演が、いかにスゴイものであるか、ということを改めて感じざるを得なかった。

会場には、地もとの会場ということもあってだろうが、いかにも「バレエを習わしてます」「習ってます」然とした母子連れが目立った。
もしかすると既にオーソドックスなものを観ているのかも知れないが、もしこれを最初に観ているのだとすると、どう思ったのだろうか。
やはり最初にDVDなどでオーソドックスなものを見せておくべきだろう。

2011年11月 8日 (火)

プレミアムシアター2011年11月5日(土) グルジア国立バレエの「ロミオとジュリエット」

BSプレミアムシアターで表題の日に放送。公演は2010年3月14日、東京・五反田のゆうぽうとホール。ムケリア指揮、東京ニューシティ管弦楽団の演奏。

バレエの「ロミオとジュリエット」については、昨年2010年12月1日付けの記事を皮切りに、12月27日付けの記事まで、何本か書いたので、ほぼ1年ぶりに別な内容で書くことになる。

あのときは、英国ロイヤルバレエの公演で、中でもアレッサンドラ・フェリと吉田都の演技などについて書き、フェリの若い頃のDVDも紹介した。

バレエの公演というものを、放送も実演も少ししか観ていないので、どうしてもこの二人による演技、そして演出が自分の中の基準となってしまうのは避けられない。そのことを承知の上で書くのだが、やはりグルジア国立バレエ団のは、1段も2段も落ちるのではないだろうか。

演出の問題としては、あの有名なバルコニーのシーンを、バルコニーなしで演じたのだが、やはり外してはいけないのではないか。
上に紹介した、フェリによるこの作品のDVDのジャケットになっているシーンである。
このシーンが外せないと思ったからこそ、この作品の現代版(1950年代当時の)として作られた「ウェスト・サイド・ストーリー」の映画版でも、同様のシーンを盛り込んだのではないか。
また、最近、何の商品だったか忘れたが、パロディーとしてCMに使われたこともあるシーンだ。

上に「ウェストサイドストーリー」のDVDとサントラ盤CDを挙げた。何れも、何度も再発売されてきたのだが、発売年月によっては、バルコニーのシーンをジャケットデザインにしたものがある。
ちなみに、そのシーンで歌われるのがTonightである。
作曲したバーンスタインとしてはSomewhereがイチ押しだっという話があるが、Tonightの方がより親しまれるようになったのは皮肉としか言いようがない。
プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」で最も美しく、また心を打つ曲は、まさに、このバルコニーのシーンだからである。

グルジアバレエの公演の演出の話に戻り、私が問題点だと思う箇所をもう1点挙げれば、ジュリエットが仮死状態なのに、本当に死んでしまったと勘違いしたロミオが後を追って死んでしまうシーン。それに続いて、死んだロミオを見てジュリエットが本当に死んでしまうというシーン。

ここは、二人とも、事態がよく飲み込めずに戸惑い、やがて嘆きに代わり、ためらいつつも自分も死ぬことを選ぶわけで(私はそう理解している)ある程度の時間をかけて演技してゆくべきだと思っている。
それが、今回のグルジアバレエ団の演出では、二人ともイヤにアッサリと死んでしまうという印象だった。

そうそう、書いていて思い出したが、二人の子の死を目の前にして、敵対していた両家が和解するという部分。ここも、子どもの死を前に嘆き悲しんで・・・という段取りがあるはずだが、イヤにアッサリと当主どうしが握手してしまうのだ。これならいっそ、両家が和解したのだろう、と暗示しただけで終った方がマシだ。

折角高画質のデジタル放送だったので、観る前は、良い内容ならBDに焼いて保存することも考えていたが、見終ったあと、保存には値しないと思った。
翌週もロミオとジュリエットを放送すると番宣していたので、少しだけ期待して内容を再確認すると、グノー作曲による作品だそうだ。
観たことも聴いたひともないが、恐らく観ないだろう。

2011年11月 7日 (月)

マーラーをDTMで鳴らす (11) 「ビデオ共有」サービス中止

オーケストラによる、DTMによる演奏例をもっと追加する方法を色々と調べ、ニフティの「ビデオ共有」を使えば行けそうだと分かり、載せるべく、音楽ファイルをビデオファイル化し、さて、載せようか・・・と登録ページを見たら、何と!
2011年6月に、このサービスは終了しているとの告知が書いてあるだけ。

音楽ファイルをビデオ化する作業や、事前に色々と調べた時間が全て無駄になってしまった。

そもそも、何でこんなことを考えたかと言うと、音楽ファイルはmp3にエンコードしても1MBを下回る容量になどできない。音質をガマンしてmidiにでもすれば可能なのだろうが、見て頂く方に対して、余りにもヒドイ音を聴いて頂くのは申し訳ない。自分としても、折角かなり聴けるものができたと思っているのに、その気持が伝わらないことになって面白くない。

いまどき1MBを越える容量の添付ファイルなんて幾らでもあり得ることなのではないか。何で、コースを変えてでも、そんなサービスを提供しないのだろう。

また、ホームページの方も、現状の最大容量は300MBに過ぎない。
それ以上のものを利用するには、ということで提携のページを紹介しているが、何でそんな面倒なことをせねばならないのか。ニフティのコースの中に、もっと容量の大きいものを用意したらよさそうなものなのに。

上記2点につき、早急に改善して欲しいものだ。

とくに、FAQだと思うが、「1MBを越える音声ファイルは、映像としてアップしたらいい」と書いてあるページがあったからその作業をしたわけである。ビデオ共有というサービスがなくなってしまった以上、そんな回答ページは即刻廃止するべきではないか。
もちろん、何か別の形でサービスが提供される予定があるのなら、その予告なり案内なりを掲載するのが良い。

しかし、この「ビデオ共有」のサービス中止によって慌てた人たちのページばかり目立つので、そんな予定もないのだろうか。

せめて、上記2点は何とかして欲しい。
せっかくマーラーの交響曲全曲に演奏例を付けて、これからもできる限り演奏例つきの文を載せて行こうと張り切っていたのに、マーラーの10曲だけで使用可能容量の半分を越えてしまった状況では、オソルオソル進めるしかなくなる。かなり気分が萎えてしまった。

2011年11月 6日 (日)

地図を見ながらでも迷います

ブログネタ: 初めての場所へ行くとき、迷わずに行ける?参加数

以前東京に住んでいたとき、電車で秋葉原に行き、秋葉原の駅の中で出口が分からなくなり、駅の中を何度もグルグル回っていつまでも出られなかったことがあります。初めてではなく、何度も行っていた駅なんですよ。

そんなことがあって、自分は方向音痴だと改めて認識してしまいました。

で、最近は、初めて行く場所はグーグルの地図をプリントして、それを見ながら歩くようにしていますが、それでもだいたい迷います。
ついこの間も、初めて行くコンサート会場に、中々たどりつけずに焦ったことがありました。

マーラーをDTMで鳴らす (10) 演奏例追加

(9)までで終了するつもりだったが、やはり自分なりに「成果」として報告させて頂くには、10月30日付けの記事に載せた、単音だけの演奏例だけではダメだと考え、ちゃんとオーケストラとして鳴っているものを追加して紹介したいと思うようになった。

単音だけの演奏例となってしまったのは、通常の方法だとココログでは、音声ファイルの上限は1MBまでという制限があったためである。
改めて、作成済のmp3ファイルをツラツラと眺めていたのだが、オーケストラとして鳴っているファイルで、1MBを切る容量のものは1個しかなかった。

マーラーの交響曲第1番の第2楽章の終りの部分である。
題名のない音楽館」の「マーラーの交響曲第1番」にも記載したが、マーラーの曲の聴き始めは、この曲のこの部分だった。ある会社のCMの音楽として使われていたのである。

ハナ肇とクレージーキャッツがデビュー仕立ての頃、毎週月曜から土曜、昼の時間帯で10分間、「おとなの漫画」という番組をやっていて、そこでやっていたCMである。
夏期休暇などに毎日のように見ていたから、耳馴染んだわけである。

耳馴染んだからもあるが、それ以上に、何となく気になる音楽だということもあった。後でこの曲のこの部分だと知ったのだが、この曲全体の雰囲気から見ても、またこの後のマーラーの曲全体を覆う要素から見ても結構屈託がない感じで、「つくり」も比較的単純だし、それでいて近代的な響き(=和声と管弦楽法)が印象的だった。

「mahler_sym1_2rdMvt_last.mp3」をダウンロード

そのことはこの演奏例でも十分に伝わるはずだ。
さらに関心を持って頂いたなら、「題名のない音楽館」にお越し頂けばありがたいです。

2011年11月 5日 (土)

マーラーをDTMで鳴らす (9)

(前稿からの続き)

さて、「マーラーをDTMで鳴らす」の、当面の最終稿として、どのように入力したか、また何ができて何ができていない(できない)のかについて、付言しておくこととする。

マーラーの総譜は、実に細かな強弱変化やその他の演奏指示が書き込まれている。
この殆どは、そのまま入力するだけで、十分に「らしい」音が出るようになっている。あとはfinaleなりPrintMusicなりに付属しているミキサー機能を使って楽器どうしのバランスを整えて行けばいい。

私の場合、ミキサーを使っても十分にバランスが取れない場合は、譜面に書かれていない強弱記号を追廃した。

できていないと言うべきか、もともと無理があるのか分からないのだが、マーラーの場合、ヴァイオリンがずっとG線だけで演奏するように指示しているケースがある。
これは、ヴァイオリンの代わりにヴィオラに、のたはヴィオラを混ぜて演奏させると良いのかも知れないが、現在の処は採用していない。

また、弦楽器に逐一弓のアップ、ダウンを指示している箇所がある。
これは、アップ・ダウンの演奏指示を書いただけでは十分には再現できていないようである。別の方法を検討すめつもりでいる。

もう1点は、弦のポルタメントを多用していること。
これは、ギター用のポルタメント記号などを使うことができるようで、幾つか試してみたのだが、中々キレイに再現されないので、現状は断念している。

こんな状態だが、余り手を加えなくてもここまではできる、ということで聴いて頂くと嬉しいです。

(本稿終り)

2011年11月 4日 (金)

マーラーをDTMで鳴らす (8)

(前稿からの続き)

何とかサーバにアップして一旦公開したのだが、まだ問題があった。

ホームページビルダで作成していて、これに付属しているプレビュー機能では動いたので問題ないと思ったのだが、私のPCで見ると、演奏に移行せず、音声ファイルをクリックすると、「このファイルを保存しますか」と出るのである。通常出る「このファイルを保存または実行しますか」なら、実行すればいいので問題は少しマシだが、「保存」されるのは困る。
私の見解は、演奏例のファイルの著作権は私にあるはずなので、ムヤミに、しかも無償でどんどんアチコチで「保存」されては困る。

(著作権に関する私の見解はこちら。併せて、なぜ市販のCD等から演奏例を引っ張らずに、DTMで鳴らすという面倒なことをやったか、という点についても書いています)

ここからまた時間が掛かったのだが、結論としては、wavファイルをmp3に圧縮・変換するのに、iTunesを使った(わざわざダウンロードした)のが悪さをしたようだ、ということが分かった。iTunesをアンインストールしてみると、解決するに至った。
そこで、私が中々分からなかったことで、他にも同様のトラブルが発生する場合があるのではないか、と考え、このトラブルシュートも含めた注書きも加え、再度オープンしたというわけである。

wavファイルをmp3に圧縮・変換するソフトは、色々と公開されている。しかし、何と言ってもAppleに勝る、信頼できるベンダーはないだろう。
それでAppleのページでiTunesが公開されていたので、それを使用したわけである。
実際、iTunesとWindowsMediaPlayerが共存ではないという問題のトラブルシューティングを見つけたのは、他ならぬAppleのページだったのである。

(この稿続く)

2011年11月 3日 (木)

マーラーをDTMで鳴らす (7)

(前稿からの続き)

ようやく、当初考えていたのと、やっているうちに追加したくなったのとを合せて演奏例のファイルが完成し、アップしようとしたら、サーバから撥(は)ねられてしまった。
全く予想していなかったわけではない。かなり大きなサイズのファイルになっていることは分かっていたから。

そこで、使用権限のあるサーバの容量を見ると、100Mしかない。300Mを使えるコースが用意されていたので、早速契約して更新した。
それでも、全く受け付けない。
いよいよ、レンタルサーバなど準備せねばならないか・・・と思って調べていると、そもそもの間違いを知ることとなった。

finaleでは、オーディオファイルへの書き出しが、wav形式とmp3形式で行うことができる。
初期の段階でやってみた結果、どちらでも同程度のサイズだったので、wavの方が一般的だろうと考え、それで作成していた。

ところが、別にfinaleで作成し書き出したmp3ファイル自体が、嫁さんのPCで鳴らず、不思議に思っていたのでやっと分かったのだが、finaleで作成されたmp3は何か特殊なコード方式らしい。
で、別のソフトでwav形式のファィルをmp3に変換すると、十分に小さなファイルとなった。
これで、何とかアップすることができた。

ところが、完成したページで確認すると、ページを開いてから演奏ができるようになるまで、ガマンできないほど時間がかかるのだ。これでは見てもらうことはできない。

ここからまたまた時間を要することとなったのだが、マーラーの1番で最初に簡易な演奏例を載せたとき、音声ファイルを「プラグインとして貼り付け」という方法で行っていて、今回もそれでやってみたのだが、どうもそれが原因ではないか、とにらみ、別の方法を試してみた。

すると、何とかガマンできるだけの時間しか要しないことが分かった。
それが、現在載せている形である。

ところが、まだ問題があった。

(この稿続く)

2011年11月 2日 (水)

マーラーをDTMで鳴らす (6)

さて、解説書つきのfinaleを手許に置くことになった。しかし、一通りのことは分かるのだが、マーラーの中期の作品のように複雑な譜面を入力するにはもっと詳しい解説本が必要だということがすぐに分かり、下記の本もすぐに入手することとなった。

これでかなりのことが分かるようになったのだが、購入の動機の1つであったGarritan Instrumentsの使い方が、上記の本でもまだよく分からなかった。これについては色々なウェブページを参考にさせてもらった。

経過と方法は煩雑になるので割愛するが、結果、Garritan Instrumentsが使えるようになって、逆にGarritan Instrumentsの欠点というか、限界も見えてきた。
弦楽器の音は文句なしに素晴しいが、他の楽器についてはさほど優れているとは言えないこと。これが1点だ。換言すると、もともとfinaleにもPrintMusicにも搭載されているソフトシンセ SmartMusic SoftSynth が結構良い音を出す、ということでもある。

もう1点は、Garritan Instrumentsが備えている楽器の種類が少ないこと。例を挙げると、金管楽器はB♭管しかない。また、打楽器も比較的種類が少なく、マーラーの4番に使われている鈴の音などは、どうしてもリストに見あたらなかった。こういう曲は、SmartMusic SoftSynth を使うしかないことになる(演奏例は該当ページご参照)。

このためGarritan Instrumentsで鳴らす曲とSmartMusic SoftSynth で鳴らす曲とを仕分けして決めて行く作業が必要となった。

そして本格的に、中期の曲の入力にかかったのだが、困ったことに、ある程度以上のファイルサイズになると、私のPCでは鳴らなくなってしまったのである。
そんなときも、内蔵されているmidi音源であれば鳴るので当面それで鳴らしながら入力を進めて行った。

しかし、midi音源の場合、かなり音質が落ちる。
で、試しに嫁さんのPCで動かしてみると、キッチリ動くのである。同じWindowsVistaなのだが、嫁さんのPCの方が比較的新しく、CPUも速いようだ。(ちなみにfinaleは2台のPCまでのイントスールを許可している)

で、曲の仕上げは嫁さんのPCを使うことにした。
finaleで使える音源は3種類あるが、midiは使わず、Garritan InstrumentsとSmartMusic SoftSynthを使い分けることにしたのである。(この辺りの経過は、関連ページをご参照)

この段階では、当初考えていた内容の8割程度に抑えてでも、できたものから順にアップして行こうかと、再度考えてもいた。従って、9月11日付けの記事を最後に記事の更新を休んだときは、数日で復帰するつもりだった。
しかし、やっているうちに欲が出てきた。

当初は予定していなかった演奏例を加えてみたくなったのだ。
総譜の中で、1小節で1ページを要するという、とんでもなく音符の数が多い部分が、マーラーの曲には存在する。
ここで、交響曲第4番の第3楽章の終りの部分と、交響曲第6番の「月光のエピソード」の演奏例を入れたくなり、どちらを先に入力したのか忘れたが、我慢強く入力してみると、これが絶大な効果をもたらしたのである。

また、何度か聴き直し、可能な限り入力ミスを修正しているうちに、何日も経過してしまったわけである。

こうしたことを経て、いよいよ完成し、アップしようとしたら、とんでもないことに気がついたのである。

(この稿続く)

2011年11月 1日 (火)

マーラーをDTMで鳴らす (5)

マーラーを鳴らすには、限界があることを知ってからもしばらくはPrintMusicを使い続けていた。とりあえずはPrintMusicで入力可能な曲だけをアップし、そのあとで他の曲について考えて見ようとも思った。

ちょうどその頃のことを書いたのが、2011年8月25日8月29日の記事である。現役世代の頃であれば、即刻手を出していたはずだ。

それでも、結局手許に置くことにした。
できたものから少しずつアップすると言っても、ページごとのリンクの手間を考えると却って面倒にも思えたし、第一、結局は「ここまでやりたい」という目標があるので、中途半端な状態にしていると不完全な達成感しか残らず、気になって仕方ないだろうと思ったからである。

当初、譜例を追加する目的だけで始めたのだが、こうして、本格的なソフトを備えて「昔取った杵柄(きねづか)であるDTMの分野に再び足を踏み入れることとなった。
以前DTMをやっていた頃は、譜面を見て入力して楽しむこと自体が目的だったが、評論(らしきもの)に入れている譜面について、音を鳴らすということが今回の目的ということになり、紙に書いたものでは困難な「音の出る評論(らしきもの)と言うものを実現するということになったわけである。

ソフトの価格も、業務用としても使われているようだが、それにしては決して高いものではない。画像や映像のソフトなど、もっと高価なものは幾らでも存在する。よく知られているフォトショップもイラストレーターも、finaleより少しではあるが高価だ。
まあ、フォトショップについては、現在であれば、個人で使うには簡易版で十分だと思っているが。

現役時代であれば即刻注文したはずだが、そうではなくなったのが、しばらく迷った理由である。
で、「やはり全曲を一度に仕上げてアップしたい」という思いが強くなったのと、メーカーのページでfinaleだけに付属している、Garritan Instrumentsと称する、サンプリング技術を使った音源による音がブッ飛ぶほど凄かったので、購入するに至ったのである。

(この稿さらに続く)

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