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2011年7月25日 (月)

N響フワー 2011年7月24日 ミュージック・トゥモロー

2011年7月24日のN響アワーは、日本の現代音楽作曲家の作品を集めた「ミュージック・トゥモロー」から、西村朗の作品を中心に放送された。
西村朗の作品は、「オーケストラのための『蘇莫者(そまくしゃ)』」から、第3楽章以降。他に3名だったか4名だったかの、これまでに「尾高賞」を受賞した作曲家の曲の一部が紹介された。

西村の作品は、四天王寺に伝わる「蘇莫者(そまくしゃ)」という舞楽を元にしたもので、大阪出身の彼が前々からオーケストラ曲にしたいと思っていて2009年に作曲したもの。舞楽も、伝統は踏まえつつ西村作品の合うように新しく構成されたものが使われる。

実はこの作品、以前何かの番組で見聞きしたことがある。大阪センチュリー交響楽団だったかの委嘱による作品ということだったから、「オーケストラの森」か何かで見たのだったかも知れない。舞楽も含め、面白い作品だと思った。

他の人の作品の中では、新美徳英という人の作品が、バッハのマタイ受難曲のコラールが引用されているという解説の後で紹介されたのが印象に残った。
ただ、印象に残ったというのは、作品自体についてではない。受難曲のコラールの引用はすぐに聴き取れるものだったのだが、一旦それが出て来てしまうと、バッハの曲の力が余りにも大きくて、ただの引用ではなく、それの方が耳に残ってしまう、という意味である。「庇(ひさし)を貸して母屋を取られる」という状態になってしまったのだ。

クラシック畑の現代音楽の作曲家というのは実に因果な商売だと思う。18世紀と19世紀に余りにも多くの偉大な西洋音楽が登場し、偉大な価値とともに永年の演奏史も積み重ねてきていて、人気もあるのに、それとは別の世界を自分なりに構成して世に問おうというのだから。同じ作曲家という肩書きの商売でも、大衆音楽畑であれば、ヒットということになれば大きく稼げるチャンスもあり得るが、クラシック畑では中々そうは行かないだろう。よく演奏されるようになったとしても、稼げる金額が違い過ぎる。

バッハを引用するというのは、後世に残り得る要素を担保しようとしたと見えなくもない。しかし、引用した曲の方がどう考えても大きすぎるのだ。
こんな矛盾を感じながら聴いた。

ミュージック・シゥモローという場は、数少ない「現代日本のクラシック畑の作曲家の作品を紹介する演奏会」として貴重な存在だと思う。N響でないと中々出来ないことだろう。
率直に言って、私はこうした演奏会に、カネを払って聴きに行くことは今後ともない、という聴き手である。古典派やロマン派の音楽の方が遙かに近い存在だ。
けど、N響アワーなどの番組で採り上げられるときは、なるだけ聴いておこうと思うのだ。

ところで、7月23日付の記事で、西村の作品が紹介されることと、7月17日の番組で、番組オープニングの曲が異例の早さで紹介されたことから、「ひょっとして西村が交代?」と心配したのだが、そういうことではなかったようだ。めでたし、めでたし。

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