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2011年1月27日 (木)

名曲探偵アマデウス 2011年1月23日 葬式にふさわしくないレクイエム

BS2で2011年1月23日(日)に放送された「名曲探偵アマデウス」は、ヴェルデイのレクイエムが採り上げられた。

ずっと喧嘩ばかりしていた亡父の葬儀に、この曲をかけるように遺言があったという息子が、「こんな曲をかけたら俺が恥をかく」と言って、代わりの曲を選ぶように依頼してくる、というストーリーである。
依頼者が「恥をかいてしまう」と嫌がったのは、よく知られている「怒りの日」の部分である。

結局は曲全体の流れ、構成などを説明され、またヴェルディがこの曲に込めた願いの深さを教えられ、遺言通りにこの曲をかけることを納得して帰るのだが、今回ほど依頼者の願いに強く賛同したいと思うことはなかった。いくら説明されても、またチョン・ミュンフンなども加わった楽曲分析を聞いても、その気持が変ることはなかった。

よく言われることだが、この曲の、とくにあの「怒りの日」の部分が流されると、驚きの余り死者が飛び起きてしまうのではないか。
まさか死者が蘇ることはないにしても、参列者が驚いてしまうのは間違いないはずだ。いくら曲全体の流れとか構成について説明されたところで、「怒りの日」そのもののインパクトが余りに強すぎ、音楽としては威圧的すぎ、おどろおどろし過ぎる。葬儀に鳴らすのには不適切だ。

モーツァルトと、確かフォーレと、このヴェルディのレクイエムを総称して「3大レクイエム」と称するのだが、曲自体の価値はともかく、ヴェルディの曲は、絶対に葬儀にはふさわしくない。

私は自分の葬式を仏式でやってもらいたくないと以前から思っており、無宗教でやるとしたら、モーツァルトかフォーレのレクイエムをかけて欲しいと思うようになってきている。

若い頃はマーラーの9番と思っていたのだが、余りにも切実すぎ、絶望の淵に堕とさせてしまうような処があり、参列者の中にこうした曲をよく聴く人がいたら、居ても立ってもいられなくなるのではないかと思うようになっていった(マーラーの9番については、私のホームページの「題名のない音楽館」の「マーラー」の「9番」をご参照ください)。

モーツァルトをずっと聴いていた時期、モーツァルトのレクイエムがいいか、と考えた時期もあったが、モーツァルトもやがて辛くなってきた。モーツァルトの音楽に込められたどうしようもない暗さが分かってくると、とくにこの曲などは聴くこと自体がチャレンジングなこととなってしまう。「モーツァルトの音楽は心を癒す」などとたわけたことを言うのが一時流行ったが、そんなことを言う人は、クラシック音楽を聴くのに必要な、何か徹底的なものが欠けている(これ、吉田秀和風の言い回し)。

結局現在は、フォーレの作品、ということに落ち着いている。ヴェルディのは嫌いだし、モーツァルトは優れているが(「3大レクイエム」の中で一番優れていると思っているが・・・本人が途中までし書けず、弟子が補筆完成させたというマンディを負っていても尚・・・作品として聴くのはいいにしても葬儀の参列者にとっては辛く、そして激しい。

フォーレのレクイエムは、涙にくれるだけでなく、和(なご)みをももたらす曲である。私は、これで送って欲しい。

ヴェルディのは嫌いだから持っていないが、モーツァルトとフォーレの演奏で私が持っている盤(その中でベストと考えている盤)を挙げておく。

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