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2010年12月

2010年12月31日 (金)

記事を休載します

年始の数日間、記事を休載します。
早々に再開する予定です。
良いお年をお迎え下さい。

2010年12月29日 (水)

芸術劇場 2010年11月19日 関連 一瞬一瞬決まっている凄さ

芸術劇場 2010年11月19日で吉田都の「ロミオとジュリエット」を見て以来、2010年12月1日付を皮切りに幾つか記事を書いてきたし、これからも暫く単発的に続きそうだが、とりあえず雑感として。
尚、この記事のため「『題なし』の雑感」をカテゴリーとして追加する。

2010年12月14日付の記事「カーテンコールの意味」に書いた通り、「トリスタンとイゾルデ」と共にDVDに編集するための作業で疲れたのだが、その作業を通じてつくづく大したものだと改めて思ったことがある。

DVDは基本的にプリンタブルのものを使うようにしている。
その画面デザインは、当該番組のホームページ内に適切な画像があれば、それをアレンジして作るが、適切な画像がなかったり、画像はあってもラベル全体のものとしては画質が悪すぎたりする場合は、録画された中から適切なシーンを選び出して作っている。

で、「ロミオとジュリエット」は、二人が踊るシーンから作成することとして、候補とした場面をコマ送りでずっと見ていったのだが、どのコマも素晴しくて、決めるのに時間がかかってしまったのである。

どのコマも素晴しかった。換言すると、一瞬一瞬のポーズが尽(ことごと)く決まっているのである。ある形から別の形に移行するとき、また常に動きが伴っているシーンのとき、何れも、どの瞬間を取ってみても、完璧に決まっているのだ。

これは実に凄いことではないだろうか。他にこうしたことができている踊りなり演技なりパフォーマンスが果たして存在するだろうか。

世界的に有名なバレエ団でプリンシパルを務める人というのは、こうした超人的な踊りができる人なのだ、ということをつくづく感じた。そして、そのポジションをずっと維持してきた人の身体能力と努力のスゴさをも併せて感じたのである。

2010年12月27日 (月)

アレッサンドラ・フェリによる「ロミオとジュリエット」 続き

12月25日付の記事で、「風邪で記事として纏められない」と書いたが、何とか体調も持ち直した。従って、タイトルに「続き」としたが、これが本編となる。

もともと、吉田都の東京での引退公演(2010年12月1日付記事)に触発され、同じ英国ロイヤル・バレエのもので別配役のジュリエットと、別のバレエ団によるものを見比べたいと思い、両方とも取り寄せた。その中で、まずはアレッサンドラ・フェリによるものをやっと視聴したというわけである。

フェリのものは、1984年制作ということで、1963年生れの彼女の21歳か22歳のときの作品である。17歳か18歳かのときに英国ロイヤル・バレエ団に入団し、19歳のときに振り付け師のケネス・マクミランに主役として抜擢され、色々な作品で高い評価を得た。
この映像の翌年にはアメリカン・バレエ・シアターに移籍するので、移籍直前の、ロイヤル・バレエ団との最も充実した時期の作品ということになろうか。

吉田都が「ロミオとジュリエット」を来日引退公演の演目とした今年2010年は、1963年生れの彼女にとって44歳となる年である。

振り付けは双方ともケネス・マクミランなので、踊りは当然殆ど同じなのだが、舞台装置や細部の演出が異なることと、ジュリエット役の容貌と年齢の違いにより、これだけ印象が変るものか、と思った。

フェリの方が明らかに可愛い。若さもあって溌剌として、尚かつ初々しい。これは、バルコニーのシーンで二人が愛を確かめ合う部分までは極めて良いのだが、死を覚悟してニセの毒薬を飲んで一芝居打つという辺りの精神的に成長した女となったジュリエット役としては少し弱い印象を受けた。

吉田都は、容貌こそ若いときのフェリに劣るし、ジュリエットがまだ自分が子どもだと思っている、最初に登場する場面は少しきつい。しかし、ニセの毒薬を飲む辺りの演技は鬼気迫るものがあり、誤解によって死んでしまったロミオを見つけたときの絶望感、そして後を追って自害するまでの演技は、もうこれ以上のものはないとさえ思えるものであった。
そして、バルコニーのシーンは、年齢を殆ど感じさせないほど情熱的な踊りを見せた。

二人の踊りと演技は、こういうことで、全く甲乙つけがたいものだ。ジュレエットに何を求めて見るか、ということだろう。

2010年12月25日 (土)

アレッサンドラ・フェリによる「ロミオとジュリエット」

DVDを入手し、時間を作ってようやく視聴しました。

色々と書くつもりで材料を集めていましたが、急に風邪をひいてしまい、纏まりません。追って書きます。

2010年12月23日 (木)

芸術劇場 2010年12月3日 トリスタンとイゾルデ

2010年12月14日の記事に書いたが、芸術劇場で大物があり、何れも録画したまま見るのが億劫で放置したいたのだが、HDDを空ける必要に迫られて視聴し、編集も行い、大いに疲れた。

「ロミオとジュリエット」と「トリスタンとイゾルデ」である。
「ロミオとジュリエット」はチャプターを切るのが手間だったことによるが、作品自体は好きだし音楽と吉田都の踊りに酔うことができた(2010年12月1日の記事を参照ください)。
しかし、「トリスタンとイゾルデ」は格別に好きというわけではなく、日本人が主体の公演ということもあり、よほど聴かないで消去しようかと思ったほどである。

しかし、ウェブで調べていると偶々絶賛しているページがあったので、意を決して見てみることにしたのであった。

見て良かった。録画しておいて良かった。
舞台装置が、ワーグナーの楽劇で行われがちな、奇妙なものではなく比較的簡素なもので音楽を邪魔しないのも良かった。

余り好きではないと書いたが、前奏曲、愛の死、そして何よりも第1幕の終りの方で、トリスタンとイゾルデが共に毒薬を飲んで死んでしまおうとして・・・実は侍女が媚薬に取替えていて・・・自分が死んでいないことに気付き、相手も死んでいないことに気付き、それどころか、抑えていた感情が一気に爆発して熱烈に抱擁を交わす場面と、そこに流れる音楽は、いつもゾクゾクする。

トリスタンだけが外人だが他は全て日本人によるもので、これほど良い演奏ができるようになったのか、と感心したのは事実だ。

難点を一つだけ。
「愛の死」の部分、もう少し深みが欲しかった。途中からただ叫んでいるようになってしまった。

私が推す、この部分だけのベストは、カラヤンの指揮でジェシー・ノーマンが歌ったもの。ザルツブルクにおけるライブ録音である。

2010年12月21日 (火)

N響アワー 2010年12月19日

「クリスマスに聴きたい名曲の対決」ということで、幾つかの曲をペアにして聴いて、岩槻アナだったらどちらを聴きたいかを判定してもらおうという企画。台本としてどこまで書かれていたのか分からないが、クラシック音楽にある程度造詣のある岩槻アナの長所を活かし、当人がその場で判定していたと、私は見た。

この中で「ヘンゼルとグレーテルの前奏曲」と「くるみ割り人形から情景と雪のワルツ」の対戦があり、これは好みの問題以前に作品の価値がったく違うのではないか、と思った。岩槻アナの判定も、くるみ割り人形。まあ、当然の選択だろう。前者は2007年12月、下野竜也の指揮。後者は2000年10月、スヴェトラーノフの指揮。

だいたい、「ヘンゼルとグレーテル」なんて、どれくらい聴かれているのだろうか。

ドイツの作曲家フンパーディンクによる歌劇で、手元の辞典によると、1893年に初演されている。子供に聴かせるオペラとして世界的に親しまれているとのことだが、ドイツ以外の国で、どれだけ聴かれているのか。
私は何時だったか、テレビで1回だけ通して聴いたことがあるが、全然いいと思わなかった。今回の番組では前奏曲だけの演奏だったが、やはりつまらない曲だと確信した。子供向けだからと作曲された作品は、得てしてこんなことになってしまうのではないか。

それに対し、「くるみ割り人形」は、子供向けとは言いながら、また、メロディーは当然美しく、それだけで無条件に楽しめるのだが、それに留まらず、深い陰影があり、大人の鑑賞にも堪えるものである。

手元の参考書によると、今回演奏された「情景」は第8曲、そして「雪のワルツ」は、第9曲にあたる。
第1幕でクララが、魔法を解かれて王子の姿を現したくるみ割り人形と、お菓子の国に旅立つこととなり、旅の途中で第2場となって流れるのが「情景」、そして切れ目なく「雪のワルツ」となって幕が下りるという場面で演奏される。

「雪のワルツ」は、少年コーラスの響きが素晴しい効果を上げている。この2曲を聴くだけでも、単に楽しくて分かりやすいだけでなく、いかに陰影溢れる音楽となっているか、チャイコフスキーがいかに凄いか、分かるというものだ。

西村によると、チヤイコフスキーは初め、子供っぽすぎるとして作曲に乗り気ではなかったが、「雪のワルツ」が出来たあと、俄然やる気になったそうである。

この場面でもそうなのだが、また、演出にもよるし録画の際のカメラワークにもよるのだろうが、私は、「くるみ割り人形」で、隠されたテーマというか、メッセージが込められているように見えて、「実は結構深い音楽だったのだ」と思い直したことがあったのである。

この曲は第2幕で「金平糖の精」であるお菓子の国の女王が、侍女たちに自慢の踊りをさせてクララを楽しませるという趣向なのだが、踊りが進んで、かの余りにも有名な「花のワルツ」、そして続けて演奏される(踊られる)「パ・ド・ドゥ」で、金平糖の精である女王が、クララに、クララの若さを羨(うらや)み、くるみ割り人形の王子とクララが愛し合っているように見えるのを妬(ねた)み、本当は自分こそくるみ割り人形の王子を愛していたのに・・・と慨嘆し、
「でもね。分かってちようだい、クララ。今あなたが見ているのは、みんな夢の中の出来事なのよ。朝になってあなたの目が覚めたら、みんななかったことになってしまうの」とでも言っているような感じの踊りと表情に見えたことがあったのである。

読みすぎかも知れないが、大きく外れてはいないと思っている。このバレエの主役はクララとくるみ割り人形だが、もう一人の主役というか、本当の主役は金平糖の女王だという説を、何かで見聞きした記憶があるような、ないような。

しかし、そんなバレエの演出とは関わりなく音楽だけで十分楽しめるという点、曲そのものが持っている価値がそもそも違うのだ。私はゲルギエフ盤で聴いている。

さて、今回の演奏はスヴェトラーノフ指揮によるもの。
2010年12月15日付の記事で、彼の指揮による「マーラー 7番」の演奏をこき下ろしたが、スヴェトラーノフの演奏全てを否定するものではない。
それどころか、彼の指揮で曲の価値を再認識させられたものがある。「題名のない音楽館」内の「作品を中心に」にも書いたが、「チヤイコフスキー 交響曲第1番」が、それである。

こうした経験をさせてもらった演奏家を否定することはできない。「マーラーはやっぱりダメだった」というだけの話である。今回のくるみ割り人形」は良かった。

さて、番組の終りの方で、「形のない、しかし心のこもった贈り物」と、「絢爛豪華な宝物」の何れがいいか、というテーマで、曲同士の対決ではなく前者として「ジークフリート牧歌」を聴かせた。今や世界的大指揮者の仲間入りを果たした大野和士による1991年2月の演奏。番組内でもちゃんとその旨を紹介していて、適切だった。

しかし、私は未だにこの「ジークフリート牧歌」が苦手だ。退屈で退屈で、聴いていると眠くなって仕方がないのである。妻のために新たに作曲した曲を突然聴かせて喜んでもらう、という主旨の曲としては他に「愛の挨拶」(エルガー)が思い出されるが、それに比べても長すぎる。そかもくどい。

そうそう、同じ主旨の曲とされている曲がもう1つ。
グレン・ミラーの「真珠の首飾り」である。映画でのその場面の演出は素晴しかった。

2010年12月19日 (日)

題名のない音楽会 2010年12月19日

「第6回振ってみまSHOW ! 」の1回目ということで、事前の応募者4名と会場飛び入りの2名、そしてゲスト審査員を兼ねた柴田理恵が東京シティフィルを指揮。

事前応募者の4名が何れも素晴しい演奏をした。
今回は、とくに最初の二人が聴かせた。

一人目は、何とショスタコーヴィチの「10番」の最終楽章の最終部分を指揮したのである。
題名のない音楽館」の「ショスタコーヴィチ論」の「10番」にも書いたが、あの曲の最終楽章は二分音符=176という凄まじいテンポで、ちゃんと合せるのは、指揮者の統率力とオーケストラの力量の両方に恵まれたときにしか為し得ない。これを、若干の乱れはあるものの、それなりに聴かせた出場者は相当の力量だ。

二人目は、12歳だったか13歳だったかで、現在ピアノ協奏曲の作曲に取り組んでいる、という末恐ろしい少年が、これも何とチャイコフスキーの「6番」の最終部を演奏。「ここは、音楽がどこに行ってしまうのか、という処が好き」という少年は、まだ恐らくチャイコフスキーの陰々滅々たる気分を体感してはいないだろうが、遅いテンポのこの部分を、それなりに聴かせた。佐渡も講評で言っていたが、遅いテンポの曲ほど演奏が難しいのである。

三人目は、同じ「6番」から第2楽章。これは5拍子という変ったリズムの楽章で、やはり難しいはずだが、それにりに演じていた。

四人目は「マイスタージンガー」前奏曲の最終部。オケが十分に鳴り、若干テンポの揺れも出しながらうまく纏めていた。

この企画の初期の頃は、素人指揮者の、どうしようもない指揮に、オーケストラが適当に合せてやって出場者を喜ばすという類のものが多かったが、ある時期から俄然レベルが上がったようである。それと共に、よくありがちな、「オケに合せて指揮のまねごとをする=オケに振られる」というものよりも、どう見ても「指揮によってオケが鳴っている」類が増えた。
実際の処、どこまでオケが合せてやっているのかは知らないが、どう見てもオケが指揮に合せて鳴っていると思える演奏が増えたのである。

ピアノをずっと習っていたり、ブラスバンドに入って、そこで指揮の経験があったり、それなりに音楽にずっと関わってきた人たちの出場が増えた。そうした経験があると、比較的スジの良い指揮ができるということなのだろう。

最後に、佐渡が柴田理恵に指揮をさせて、「CDに合せて棒を振る」ことと、「棒を振ってオケを鳴らす」ことの違いについて説明していた。こうした講評によって、もしこの企画が続くのであれば、さらにレベルの高い演奏が期待できそうだ。

次週が2回目だが、この企画の最近の傾向では、2週目にかなりどうしようもない演奏が集まることが多くなっていると記憶する。さて、どうなるか。

2010年12月17日 (金)

N響 第1685回定期 プレヴィンのプロコ5 最高!

(公演 2010年11月13日。於NHKホール。放送 2010年12月17日 BS2 クラシック倶楽部)

武満徹の「グリーン」、ガーシュウィンの「コンチェルト・イン・F」、そしてプロコフィエフの交響曲第5番が演奏された。この中でガーシュウィンについては2010年12月5日のN響アワーで採り上げられていて、この曲の素晴らしさについて2010年12月7日付けの記事に書いた。

さて、他の2曲だが、武満徹については、私はまだよく分からないので論評は控える。しかし、プロコフィエフの5番は好きで、しかもプレヴィンのCDで好きになったので、改めて歓びを感じるとともに、ナマ演奏を聴きに行けた人を羨ましくも思った。

この曲が1944年に作曲されたという事実だけで、まず驚きを禁じ得ない。第2次大戦のまっただ中なのである。
ちなみに、ショスタコーヴィチと対比すると、ショスタコーヴィチが大戦中に作曲した曲を交響曲だけ見ると、第7番が1941年、第8番が1943年である。
(ヒトラーがポランドに侵攻した年から第2次大戦は始まっているが、ここでは、1941年に日本が太平洋戦争を始めた年から第2次大戦の始まりとした)

ショスタコーヴィチの曲と比べて、何と言う違いだろう。

ショスタコーヴィチの7番はレニングラード攻防戦の中で作曲され、アメリカでもトスカニーニらよって演奏されてソ連国民に放送を通じてエールを送る形となったし、勝利を信じて高らかで輝かしく終る曲だ。一方、8番は激しい哀しみに満ちた鬱屈とした曲である。
(これらの曲については「題名のない音楽館」内の「ショスタコーヴィチ論」の「7番」と「8番」をご参照頂くと嬉しいです)。
相反する曲調の交響曲だが、何れも戦争中の曲らしいと言えば言える曲だ。それだけに、戦争という背景を抜きにして、現代において再評価するのは結構難しい面がある。

それに対し、プロコフィエフの5番は、最初から時代性を超えてしまったような処がある。大戦中のソ連でこの曲が歓迎され成功したというのがむしろ不思議だが、従って、戦争の時代から遠く離れて聴いても、純粋に音楽の歓びに浸ることができるのだ。時代性に深く関わっていない曲のように聞こえるから、むしろショスタコーヴィチよりも、普遍的に聴くことができるわけである。

ショスタコーヴィチ論」を一通り書いたあと、ショスタコーヴィチの別のジャンルの曲にチャレンジして書いてみようと思った。しかし、余りにも疲れる曲が多かったので、ショスタコーヴィチの曲とカップリングされていることが多いプロコフィエフの曲を聴き始めた。そのうちに、この5番あたりに行き着いて、ショスタコーヴィチとは全く異なるプロコフィエフの作風に親しむようになったことにより、ショスタコーヴィチの別のジャンルに挑戦する気が失せてしまったのである。

さて、私がプロコフィエフの5番に親しむようになった最初のCDは、まさにプレヴィンの指揮によるものだと冒頭に書いた。新品が入手しにくいようだが一応下に紹介。

2010年12月15日 (水)

N響アワー 2010年12月12日

「生誕150年 マーラー交響曲シリーズ 第8夜」ということで、7番が採り上げられた。

N響がどんなプログラムを組んでいて、過去にはどんなプログラムがあったか、という点について、私はN響アワーを殆ど唯一の情報源としているのだが、この曲を採り上げた演奏会があったかなあ?と思った。記憶になかった。すると、1997年にスヴェトラーノフが演奏したものがあるということで、それが流された。

時間の制約から、第1楽章、第4楽章と第5楽章である。楽章の選択は、まあ妥当な処だろう。

しかし、スヴェトラーノフの演奏だと聞いて、かなりガッカリした。そうなんだろうなあ。N響では、余り演奏されてこなかった、ということでもあるのだろう。
スヴェトラーノフの演奏するロシア音楽は、くどいなりにやはり聴かせる処があり、決して悪いとは思わないのだが、あの演奏スタイルでマーラーが合うかと言うと、聴く前から「合わない」と断言できるというものだ。
スヴェトラーノフに限らず、ロシアの指揮者全般、さらにピアラストにまで拡げても、音楽が粗造りな人が多いと思っていて、繊細さをも要求される音楽には向かないのではないか。

まあ後学のために聴いて置こうと決心して・・・ちょっとした決心が必要だった・・・聴き始めたのだが、まず第1楽章が異様に遅いテンポで始まって度肝を抜かれた。ああ、いやだ、こんな演奏。余程この部分だけで聴くのをやめようか、と思った。
暫く辛抱していると、さすがに第1主題の提示に入るとテンポを上げたので「まあ、聴いてみよう」と決心し直した。しかし、マーラーの特質がよく現れている第2主題は全く歌わない。この第2主題は、第6交響曲の第1楽章第2主題と並んで「アルマの主題」と呼ばれることもあるメロディーである。それにしては、「色気」がなさ過ぎる。
そして、この第2主題が引き延ばされてハープのアルペジオと共に鳴らされる「月光のエピソード」と呼ばれる箇所の、何という味けのなさ。

題名のない音楽館」の「マーラーの交響曲について」の中でこの7番について書いたが、第1楽章は、開始から徐々にテンポと音量を上げてゆき、第1主題になだれ込むように聴かせるべきだと考えている。そんな演奏で聴くと本当にゾクゾクする興奮を覚えるものだ。

第4楽章と第5楽章は、まあまあの出来だった。と言うより、あの熱狂的な第5楽章で、聴衆を興奮させない演奏など不可能かも知れない。スヴェトラーノフは、大音響の部分となると、得意中の得意・・・なのだろう。粗造りな音楽でも不適切ではない、という意味で。
いや、私は全く駄目な第5楽章の演奏に接したことが一度だけある。それそ、私が生前からずっと批判してきた朝比奈隆の演奏だった。今となっては信じられない思いだが、彼は一時マーラーを積極的に演奏していたことがあったのである。(朝比奈隆の演奏については、「朝比奈隆 引き際を失った大家」をご覧ください)

まあ、こんな演奏を聴いたあとでは、どうしても「耳直し」をしたいものだ。「第1楽章は、開始から徐々にテンポと音量を上げてゆき、第1主題になだれ込むように聴かせるべきだと考えている。そんな演奏で聴くと本当にゾクゾクする興奮を覚える」と上に書いたが、これはバーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルによる演奏をイメージしている。

未だにこれを超える演奏に出会ったことがない。

さて、「マーラー交響曲シリーズ」も8回目が終り、記憶によると、あとは「第2」「第3」と「大地の歌」が残っているはずである。「第2」は幸い、12月13日付けの記事に書いたように、シュテンツ指揮による2010年11月20日の演奏会のものがあったので十分使えると思うが、「第3」と「大地の歌」はどうするのだろうか。とくに「大地の歌」は本質に迫る演奏が難しい曲だ。

2010年12月13日 (月)

N響第1686回定期 久しぶりにマトモな「復活」

BS2で放送されている「クラシック倶楽部」の2010年12月10日の放送は、マーラーの「復活」。指揮はマルクス・シュテンツ。クリスティアーネ・リボーア(Sp)、アンケ・フォン・ドゥング(Ar)の独唱と東京音楽大学の合唱団。公演はおそらく2010年11月20日(土)、NHKホール。

最近のマーラー演奏の多くがつまらない、という思いは、私のホームページ「題名のない音楽館」内の「マーラーの交響曲について」に縷々書き記した。

このこともあって、余り期待しないで聴き始めたのだが、予想を上回る好演だったと思う。若干テンポの動かし方の激しい箇所もあったが、むしろこれ位がマーラー演奏にはふさわしい。少なくとも、途中で聴き続ける気がしなくなるマーラー演奏に接することが最近は多かったように思うのだが、全くそうしたことはなく、マーラーの音響に浸ることができた。

私は、この指揮者も独唱者も初めてである。指揮者については他の曲も聴いてから判断したいが、アルトはこの1曲だけでブラボーと言いたい。というか、第4楽章「原光」の歌い出しで参ってしまったのである。その楽章の第1節の終りで「Je lieber moecht' Ich in Himmel sein」(私はむしろ天国にいたい)と歌われる箇所では泣いてしまった。この箇所でこんなに揺さぶられたのは初めてかも知れない(トシのせい?)。

第1楽章と第2楽章の間に長い中断があったのは、マーラーの指示である。5分程度空けるように求めている。ほぼ同程度の中断だったが、指揮者が引っ込んでしまうとは思わなかった。知らない人が見聞したら「放送事故か?!」と思ったかも知れない。会場では知らせていたのだろうか。

さて、この曲はマーラーの交響曲の中で私が最も大きな影響を受けた曲のひとつであって(この曲についてはこちら)、だからこそ余計に気になったのだと思うのは、字幕の日本語訳の、余りにもお粗末なことである。
第5楽章で合唱が最初に入る部分だけを例に取ってみると、基の歌詞は、

「Aufersteh'n, Ja aufersteh'n wirst du,mein Staub, nach kurzer Ruh ! 」

LP時代に持っていたレコードの対訳は、思い出しながら書くとこんな訳だった。
「復活する。そう、復活するだろう。 我が埃(ホコリ)よ。短い休息の後に」・・・ひょっとすると「復活せよ」の方が適切か?

それが今回の放送では(正確に書き写さず雰囲気で書くと)
「復活する。そう、私の小さな者よ。あなたは短い安息の後に復活するだろう」

「詩」なのだから、ある程度は原語の語順を活かした訳ができるはずである。また、何と言っても、天上から降りてきている声のはずである。これでは威厳も何もあったものではない。何でもなめらかな口語訳にすればいいというものではない。「ホコリ」を「小さな者」と変える必要があるのだろうか。「ホコリ」で十分分かるのではないか。

今回のこの訳に限らず、何でもベタな口語訳にすれば良いと考えていると思われる対訳をよく見かける。
私はものごとを殊更に難しく言いつのることについては断固拒否するが、だからといって何でも読みやすくすればいいとは思わない。(この辺りの機微は「般若心経漢文読み下しの試み」をご参照頂くとありがたいです)

また、ついでに書いておくが、冒頭、公演日を「おそらく云々」と書いたことについて。

この番組のHPで演奏者等を確認しながらこの記事を書いたのだが、放送された演奏がいつのものか、記載していないのだ。
以前は同じページに公演日も記載してあったのだが、N響定期公演の放送情報を「クラシック倶楽部」に統合してから抜けてしまった。N響のHPから調べることはできるのだが、同じプログラムを2回やっていることが多いので、確定できないのだ。これでは不便で仕方がない。

録画してあるものを再確認すればいいのだが、PCとテレビは別の部屋だし面倒だ。同じページで必要な情報が完結するように作るものだと思う。

2010年12月11日 (土)

ロミオとジュリエット 全曲盤

このブログの12月1日付記事12月3日付記事で、NHK芸術劇場2010年11月19日放送の、英国ロイヤル・バレエ団の来日公演で採り上げられた「ロミオとジュリエット」について書いた。吉田都の引退公演を兼ねたものだったが、作品論に重点を置いた記事となった。

作品論に併せて「中々全曲が入ったもので良いCDが見あたらない」という主旨のことを書いていた。

ところが、輸入盤にまで検索範囲を拡げてみると、プレヴィンが若い頃にロンドン交響楽団を指揮して出していた盤に行き当たった。プロコフィエフがこのバレエのために作曲した52曲全てが入った2枚組である。

通して聴いて、改めてこれはスゴい曲だと思った。全曲通して聴く価値がある。輸入盤で円高メリットもあり、拍子抜けするほど割安で入手できるのも嬉しい。

元々私がプロコフィエフをよく聴くようになったのは、この「ロミオとジュリエット」の抜粋盤をクルマの中で何度か聴いているうちに、主としてバルコニーのシーンの部分にシビレるようになったためである。

上記の記事で、そのシーンは「ウェストサイドストーリー」でTonightが歌われるシーンを思い出させると書いたが、プロコフィエフの方はもっともっと深い高揚感と陶酔感で満たしてくれるもので、「ああ、こんな音楽が書けたから彼の音楽は残ったのかも・・・」と思わせるものだった。
私はこうした作風を「プロコ節」と名付けているのだが、他の曲にも随所に「プロコ節」を感じるようになり、一時、結構ハマったものである。

改めて「ロミオとジュリエット」の全曲を通して聴くと、示導動機(ライト・モティーフ。ある人物や場面に決まった音楽を付けて、音楽を聴くだけでその人物や場面がイメージできるような書法)を多用し、緻密に作られていることが分かった。それは同時に、チャイコフスキーが確立したロシアバレエの正統的な後継者として名を残す作品・作曲家となることでもあったわけである。

要は、バレエなしで聴く価値がある音楽なのだ。

組曲で何度か聴いていたそれぞれの曲が、どのようなシーンで使われ、どのような役割を果たしているのか、ということも分かり、バレエ付きで視聴するときの受け止め方も変りそうだ。

とは言え、日本語の解説が付いていないので曲の流れを追っかけるのが若干厳しいかも知れない。スコアで比較的安価で入手できるのは日本版だが組曲しかない。海外版を探せば全曲のスコアも出ているのかとは思うが、海外版のスコアはやたら高い。

是非とも、解説書を1冊手元に置いて聴くことをお薦めしたい。

2010年12月 9日 (木)

N響アワー 2010年12月5日 続き

「コンチェルト・イン・F」を聴きながら、何だかラヴエルの「ピアノ協奏曲ト長調」と「左手のためのピアノ協奏曲」と似た響きを感じていた。

で、ひょっとするとガーシュインがラヴェルに会って弟子入りを乞うが断られたあと、師となるべきだった人に対しての「自分なりの答え」として、ラヴェルの2つの協奏曲へのオマージュ(その人に対して深い尊敬や賞賛の意を表す言葉)として作曲したのか? とも思った。

しかし、手元の「音楽作品名辞典」によると、全く違っていた。

「ラプソディ・イン・ブルー」の作曲・初演は1924年。
「コンチェルト・イン・F」の作曲・初演は1925年。
そして、パリ滞在は1928年で、その間に作曲された「パリのアメリカ人」は、同年、アメリカで初演。

そして、ラヴェルの2つの協奏曲は1929年から並行して作曲が進められ、「左手」が1931年に初演。「ト長調」は1932年に初演。

パリで二人が会ったとすれば1928年だから、1929年にピアノ協奏曲に取りかかったラヴェルは、ガーシュウィンに会った後で作曲したことになる。だから、影響を受けたとすれば、ラヴェルの方なのである。
ラヴェルが「コンチェルト・イン・F」を聴く機会があったかどうかは分からないが、「ラプソディ・イン・ブルー」は聴いていたかも知れないし、ガーシュウィンに会ったとき、彼から「ジャズとクラシック音楽の融合」に関する思いを聞いたかも知れない。しかし、ラヴェルは弟子入りを断った。

そのときの言葉は、知っている人も多いと思うが、概要こんなものだったとのことである。

「私が教えたら、あなたは二流のラヴェルになってしまう。しかし、あなたは既に一流のガーシュウィンだ。二流となるよりも、一流のままでいた方が良い」

ちなみに、同時期にガーシュウィンはストラヴィンスキーにも弟子入りを願っていて、同様に断られている。そのときのストラヴィンスキーとのやりとりは、これも知っている人が多いと思うが、概要こんなことだった。

ストラヴィンスキー「ところで、お前さんの年収は如何ほどになるのかね」
ガーシュウィンが答えると、
ストラヴィンスキー「何?! そんなに稼いでおるのか・・・それならワシの方が弟子入りしたいわい」

まあしかし、パリに行く前に自己流でオーケストレーションしたのが「コンチェルト・イン・F」だと分かると、この曲の、オーケストラが良く鳴ることに、改めて才能の凄さに益々感服するしかない。
そうか、ひょっとすると、ラヴェルに弟子入りを願ったとき、このスコアを見せながら相談した可能性はあるかも。だとすれば、そのスコアに既に十分すぎる才能を読み取り、アドバイスと賞賛を兼ねて上記の言葉となったのかも知れない。

そしてガーシュウィンは、独学のまま研究を続けて独自のスタイルを獲得してゆく。それは同時に、新しいアメリカ音楽の確立ということに繋がってゆく。そして集大成として、既にミュージカルもモノにしていたのだが、「オペラ」として「ポーギーとベス」を世に問うこととなるわけである。初演は1935年。その2年後、39年の生涯を閉じた。

さて、この日は、もう1曲、プレヴィンの弾き振りで、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番が放送された。第2楽章と第3楽章のみだったが、ガーシュインの軽めでイキな響きと、モーツァルトの端正な響きと、見事に弾き分けていたのが凄かった。
ジャズピアノとクラシックのピアノの両方で名匠とされる人を指揮者陣に迎えるというのは、こういうことなのか、と思ったものである。

デュトアが音楽監督を辞めてからN響は永い停滞期に入ったと考えているが、少しばかり見える「光」としては、プレヴィンが客演指揮者ではあるが「首席客演指揮者」の称号で迎えられたことであろう。

事実、来年には北米で演奏旅行が計画されていると番組内で紹介していた。そんなことを実行するのは、普通、音楽監督の仕事なのではないかと思うのだが、それだけの発言力や権限を持ってもらっているのかと推察する。

2010年12月 7日 (火)

N響アワー 2010年12月5日

この日のプログラムは、前週に予告があってから心待ちにしていた内容。この番組は欠かさず見ているが、次の週の予告でこんなにワクワクしたのは初めてかも知れない。

プレヴィンの弾き振りで、ガーシュウィンの「コンチェルト・イン・F」が演奏されるというものである。
この曲、「コンチェルト・イン・F」などと呼ぶようになったのはいつの頃からだろう。以前は「ヘ調のピアノ協奏曲」とか、「ピアノ協奏曲ヘ調」と称したし、現在でもCDなどではそのように印刷されているはずだ。

私にとっては、最近になって好きになってきた曲である。CDはヤブロンスキーのピアノとアシュケナージ指揮ロイヤル・フィルによる盤を持っていたが、さほど面白いものとは思わなかった。

面白い曲だと初めて思ったのは、ベルリン・フィルを小澤が振って、マーカス・ロバーツ・トリオと共演したときの演奏を聴いたときである。「ワルトビューネ・コンサート2003」のことで、2003年9月7日、NHK教育TVの「芸術劇場」で放送された。このコンサートの内容はDVD化されている。

ただ、カデンツァに相当する部分でどんどん脱線していって、モトはどんな曲だったか途中から分からなくなってしまうキライがあった。ジャズトリオと共演すると、こんなことになってしまうのか、と思った。反面、その「脱線」の部分によって面白い曲だと感じたのも事実であり、持っていたヤブロンスキー盤はもう聴く気がしなくなった。
コンサートのプログラムとして採り上げられる機会が少ないのか、こうした音楽番組で見ることも余りないまま、気が付けば7年も経過してしまった。

で、プレヴィンの演奏である。
聴き進むに従って、「ああ、この曲、大好きだ」と、つくづく思った。そして、そう思わせてくれたという意味で、超・名演だったと思う。西村朗も「N響の演奏史に残る妙演」と絶賛していた。

この曲は「ラプソディ・イン・ブルー」で試みた「ジャズとクラシック音楽の融合」を、再度試みた曲だが、私は、「ラプソディ・イン・ブルー」よりも更に一歩、「融合」に近づけるこどできた曲だと考えている。と言うより、これこそが彼の意図した「ジャズとクラシック音楽の融合」の完成形ではないだろうか。

「ラプソディ・イン・ブルー」は、まだジャズ音楽的な部分もクラシック音楽的な部分も遠慮がちであり、作曲当時は使われていなかった用語かと思うが「ポピュラー音楽」に近い内容だと思う。
通常聴かれているのはグロフェの編曲によるものだから、そう感じるのかも知れないと思って作曲者自身によるピアノ独奏版をピアノプレーヤーソフトで入手して聴いてみたり(CDでも入手可能)、ジャス゛オーケストラ版で聴いてみたりしたが、「ポピュラー音楽」に近い内容だという思いは変らなかった。

「コンチェルト・イン・F」は、ジャズ的な部分もクラシック音楽的な部分も思う存分出しきった観がある。音楽として完成度が高く、価値も高い。

(この稿続く)

2010年12月 5日 (日)

クラシック倶楽部 N響第1684回定期公演

2010年12月3日(金)のクラシック倶楽部は、N響第1684回定期公演。公演日は2010年10月27日、サントリーホール。サンティ指揮によるオール ベートーヴェンプログラムで、「第8交響曲」、「序曲 レオノーレ 第3番」そして「第5交響曲」の3曲が演奏された。

この中で、第5交響曲の第3楽章から第4楽章にかけては、11月21日のN響アワーで、メンデルスゾーンの「イタリア」全曲の後に放送されている。そのときの記事にも書いたが、サンティのベートーヴェンは中々良い演奏という印象があり、改めてクラシック倶楽部の放送で定期公演当日のプログラムを聴いてみたわけである。

プログラムの曲順は上記の通りで、交響曲2曲の間に序曲を1曲挟んだもので、余り見かけない曲順のはずである。不思議な感じもする曲順だが、軽めの「第8」から始まって、曲を追うごとに重厚さを増してゆく構成だと考えたら良いのだろう。曲を追うごとにオケのメンバーも増強されていったので、多分、そうした狙いがあったと推測してほぼ間違いないだろう。

聴きながら、こうしたオーソドックスなベートーヴェンを余り聴かなくなったように思った。やたらに妙なテンポでやってみたり、必要以上に起伏を大きくしたりするのは勿論、どうしても許せないのは、弦にヴィブラートをかけさせない「ストップ奏法」が増えてきたことである。

どこかに書いた記憶があるが、ベートーヴェンの時代には、確かにヴィブラート奏法で演奏したりはしなかったのだろう。しかし、だからといって現代のオーケストラでヴィブラート奏法をしない、というのは間違っていると思うのだ。

ベートーヴェンは新しいサウンドを求め続けてきた人でもあり、当時新開発されたばかりのピアノが手に入ると、喜んでその性能を最大限に発揮させる曲を書いた。ピアノソナタ「ヴァルトシュタイン」はその好例だ。
また、オーケストレーションにおいても、当時の楽器では制約があって出せなかった音を、あたかも「音が出るなら、このメロディーを吹け」とでも言わんばかりの音を受け持たせたりしている。出版の折には当時の楽器で出せる音で印刷されたが、後年の演奏では、その音が出せる楽器によって、印刷譜とは異なる音を吹かせることも多い。第3交響曲などに例がある。

だから、ヴィブラート奏法についても、もしベートーヴェンの時代にこの奏法が発明されていたら、「こんな手があったのか」と喜んで受け入れたはずだと、私は思うのである。

また、第5交響曲で第4楽章の提示部を繰り返して演奏することも多くなった。提示部に繰り返し記号がついているのは、宇野功芳が指摘したいたことだと記憶するが、レコードも何もない時代、提示部に出てくる主題や旋律を聴衆が覚えやすいようにするために指定されている側面があると考えるべきで、多くの人にとって馴染みとなった曲を現代で演奏する場合は、繰り返しは省略すべきである。

第5交響曲の第4楽章にはそれ以上の意味がある。

第3楽章が不思議な響きで音量を下げてゆき、暗いトンネルに迷い込んだかのごときブリッジ部に入り、最後の方で急激に音量を上げて八長調の輝かしい響きに到達し、それが第4楽章の第1主題になる、という構成を採っている曲なのである。

「運命」などという後世の人(主として日本で称されたものであるらしいが)が付けた愛称を抜きしても、「暗」から「明」への大転換を強く印象づけるのが第4楽章の冒頭である。こんな大転換は1回だけで良い。提示部を繰り返すのは、「大転換」という印象を薄めてしまう。ひいては、曲の価値を損ねてしまう。
そもそも、楽章の途中で、ベートーヴェンは第3楽章の断片を振り返り、もう一度「大転換」の部分が出るように書いているのだ。そしてベートーヴェンが書いた「2度目の大転換」を過ぎてからは、曲の勢いがどんどん増大してゆき、一気呵成に終結部に向かって突き進んでゆく。

第4楽章の提示部を繰り返す演奏で、何度ズッコケたことだろう。

サンティは、そんな繰り返しはしない。
この意味でもサンティの演奏はオーソドックスなものだったし、ベートーヴェンってやっぱりスゴイなあ、という思いに改めて浸ることのできる名演だったと言ってよい。

2010年12月 3日 (金)

芸術劇場 2010年11月19日(2)

(前稿から続く)

この「ロミオとジュリエット」で最高に盛り上がって見る者を酔わせもする場面の一つは、何と言ってもバルコニーのシーンである。

演出にもよるが、私はこのシーンを見るたびに、「ウェストサイド物語」における、マリアとトニーが「トゥナイト」を歌うシーンを思い出す。「ウェストサイド物語」のバルコニーのシーンと、二人の主人公の状況がそっくりなのだ。ダンスパーティーで初めて出逢ってお互いに一目惚れしてしまい、改めて愛を確かめ合うべくヒロインの元を訪れるというのがこの場面なのである。

ダンスパーティーで初めて出逢ってお互いに一目惚れしてしまうという設定もそっくりだ。一目惚れして近づこうとしている二人を仲間たちが引き裂くシーンもそっくり。

バーンスタインは、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を当時のニューヨークに場面を置き換え、2つの家の代わりに若い不良グループ同士の抗争に置き換え、そこに差別問題もからませたミュージカルということで制作した。同じ原作に基づいているのだから似たようなシーンが出てくるのは当然かも知れないが、映画化されるにあたって、映画の制作者は、ひょっとするとバレエ音楽の演出を参考にしてはいないだろうか。

バーンスタインが、ウェストサイド物語の中で最も気に入っていたベスト曲は、「Somewhere」だった。しかし、作曲者の意図に反して、多くの人が「Tonight」をベスト曲とするに至った。「Tonight」がバルコニーのシーンで歌われていたこと、そのバルコニーのシーンが大きく心を打つ場面となったことが、その一助となったのではないだろうか。

改めて、機会があれば、バレエ「ロミオとジュリエット」を見たあとで、映画「ウェストサイド物語」を見てみて頂きたい。この両者がいかに似ているか分かるはずだ。

私は「ウェストサイド物語」を映画で知り、最も大切な曲であり映画となった。バレエ音楽「ロミオとジュリエット」を聴くようになったのは、まだ10年も経っていない。バレエそのものを、テレビでだが見たのはもっと後のことである。
そしてプロコフィエフの音楽の良さが分かるようになってバレエも分かることができると思えるようになった現在、「ウェストサイド物語」と似ていると思うと共に、同じ原作に基づいた作品として、この両者が歴史に残る双璧だと確信するに至っている。

尚、原作は、「ウェストサイドストーリー」を知って間もなく読んでみようとしたが、歯が立たなかった。戯曲なので、小説に比べて読みづらいのだ。

かつて布施明と結婚したことのあるオリビア・ハッセーがジュリエットを演じた映画がある。1968年に公開されたこの映画で、オリビア・ハッセーは当時15歳の新人。名画とされた。私は見る機会がなかったが、ニノ・ロータの音楽が良くできていたことは記憶している。
しかし、音楽としての価値は、バーンスタインやプロコフィエフと比べるべきレベルではない。

2010年12月 1日 (水)

NHK芸術劇場 2010年11月19日(1)

2010年6月10日の、英国ロイヤル・バレエ団来日公演を放送。同バレエ団で永年プリンシパルとして活躍した吉田都の引退公演を兼ねたもので、解説の時間は吉田都をゲストに迎えて心境や今回の振り付けの特徴などを語っていた。

プロコフィエフが作曲したこのバレエ音楽は、私が常々彼の最高の傑作ではないかと考えているもので、これこそが、ソ連に帰国したあと彼が苦しめられた「社会主義リアリスムと自分の作風との葛藤」に対する彼流の「回答」なのだと思う。

吉田都の説明によると、同じこのバレエ団の中でも、大きく分けて2通りの振り付けが用いられているそうで、今回は、踊りを止めて演技に集中する部分のある方の振り付けを選択したとのことだった。

そう言えば、ロイヤル・バレエ団だったかどうか忘れたが、今回とは異なる振り付けによるバージョンを一度通して見たことがある。

今回吉田都が採用した振り付けも、音楽を邪魔しない適切なものだったと思う。踊りを見ながらプロコフィエフの音楽にいつしか酔いしれてゆく・・・。何という素晴しい音楽だろうか。

しかし、初演された当初は、当局から「無意味な音楽」として酷評され、一般大衆の人気を得るのにも少し時間がかかったらしい。
だからこそ彼自身によって「組曲」が2通りも作られることとなったわけである。

その結果、モトの曲で「騎士たちの踊り」となっている曲が、「モンタギュー家とキャビュレット家」という名前で知られるようになってしまった。そう、CMでも使われ有名になったあの曲である。
あの曲の、人を威嚇するような、重々しい響きのインパクトはもの凄いものであり、この1曲だけ聴いてもプロコフィエフの凄さが分かるというものである。

ただ、中々良い演奏で全曲に接する機会に恵まれない。
私はデュトア盤とチョン盤で聴いていて何れも名演だが、前者は「全曲からの抜粋」、後者は「3つの組曲からの抜粋」である。

今回の公演はどれだけ省略したのか、またはしなかったのか良く分からないのだが、第2幕から第3幕にかけての移行部で、突然余りにも良く知っている音楽が鳴り出したのには驚いた。
交響曲第1番「古典」の第3楽章「ガヴォット」である。

バレエ音楽というものは交響曲のように縛りのきついものではなく、関係ない曲を引用したりすることが時々あるが、それでも、これはないだろうと思った。

ところが、手元の解説書を読み直してみると、モトの曲が、この交響曲の第3楽章を流用するようになっているのだそうで、今回の演奏は、それをそのまま採用したに過ぎないということが分かった。

抜粋盤で聴いていたため、知らなかったわけだ。

(この稿続く)

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