N響アワー 2010年11月7日 続き
(11月11日付の前稿からの続き)
「アイーダ」によって漸く、ヴェルディはヴァーグナーと同等に位置に立つことができたのでないか、という私の考えについて、このN響アワーの放送を機に手元の「クラシック音楽作品名辞典」で確認してみた。
ヴェルディは1813年生れ。「アイーダ」の初演は1871年にエジプト カイロで行われたので、生れ月を考慮しない単純計算で、このとき58歳。ヴァーグナーもヴェルディと同じ年に生れているので、同様に単純計算で58歳である。
この1871年までにヴァーグナーは、「トリスタンとイゾルデ」(初演1865年、ミュンヘン)以降「歌劇」から「楽劇」へと名称を変更したあと「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(初演1868年、ミュンヘン)を経て、「指環」の序夜である「ラインの黄金」(初演1869年、ミュンヘン)と、「指環」の第1夜である「ヴァルキューレ」(主演1870年、ミュンヘン)まで発表を終えている。
従って、ワーグナーの始めた新しい手法に対して、「アイーダ」に取り組んでいたヴェルディは十分知っていたと推測できる。いや、私は、知っていたというレベルを超えて、衝撃を受けたのではないかとさえ思う。
この辞典によると、ヴェルディの作品はこの「アイーダ」から後期と区分されるのだそうで、その後期は、ヴァーグナーの影響を色濃く受けたものとなった、ということである。私が推測し感じていたことは当を得ていたのである。
ちなみに、プッチーニは1858年生れであり、「アイーダ」初演の1871年時点では、単純計算で13歳。
プッチーニはその後、単純計算で35歳のとき「マノン・レスコー」(初演1893年、トリノ)そして38歳のとき「ラ・ボエーム」(1896年、トリノ)そして「トスカ」(初演1900年、ローマ)を発表する。
ヴェルディは1901年まで生きていたので、これらを見ることができたであろう。半世紀近く年下の、新たな才能を、ヴェルデイはどのように受け止めたことだろうか。
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