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2010年11月25日 (木)

N響アワー 2010年11月14日

11月23日付でN響アワーの2010年11月21日放送分について書いたので、順序は前後するが、ここでは14日放送分について。

マーラー生誕150年記念として毎月1曲ずつ交響曲を採り上げている中、この日は第10番が演奏された。

この曲についての私の考え方は「題名のない音楽館」内の「マーラーの交響曲について」の「第10番」に書いた。
クックの補筆版は評価していなかったが、ラトルで聴くとまあまあ許せるかも知れない。それでも補筆された楽章の音楽の薄さはどうしようもない、という主旨である。

さらに、マーラーが殆ど完成させていたという第1楽章も、マーラー自身、これを最終形としたかどうかは怪しい、とも書いた。

この日の放送は第1楽章のみで、ジンマン指揮による2009年1月16日の公演からのもの。西村朗の解説の中で補筆された楽章の音を少しずつ被せていたが、キッチリ流したのは第1楽章だけという点、まず評価したい。

そして、この演奏は一言で云うと「何と見晴らしの良い演奏だろう」ということであった。
この曲は何とも聴きづらく、音楽の進む方向が見えづらいという印象があり、それはクック版による第2楽章以降となるとますます、暗闇の中でもがき続けるような感じ、または悪い夢を見ていて次の展開が予想しづらいのに、自分では何ともならないもどかしさ・・・になって行くのだが、ジンマンの演奏は、珍しく聴きやすいものだった。

これは、事前に西村朗が、ピアノで主要主題2つと強烈な響きの和音を鳴らして解説していたためかも知れない。その功によるのか、または耳がそれなりに慣れてきたのかも知れないが・・・。
その和音を鳴らすのに、両手では足りないということで、岩槻アナに1つだけの音を受け持たせたのも微笑ましかった。岩槻アナでないと、こんなヘルプはできなかっただろう。

そして西村は、演奏終了後、この曲から受ける印象について、「何という音楽。言葉には到底表せない。マーラーの最後の最後の悲痛な響き」という主旨のことを語っていた。
この曲は確か池辺晉一郎が司会のときも採り上げられたはずだが、そのときの池辺の言は「とにかく、深く、深く、どんどん沈んでゆく曲」という主旨だった。
作曲家の観点から音楽を解説するにあたり、言葉の表現が苦手な人とそうでない人がいるが、池辺は苦手な方だったかも知れない。西村はそうではない方に属する。しゃべり過ぎになることもあるが・・・。

岩槻「この曲、完成していたらどんな曲になったんでしょう。西村さんならどうしますか」
西村「いやあ、この曲に続く音楽なんて考えられない。マーラーが残したスケッチはあるが、それでも、この曲の後には何も続けられない」

というやりとりも好感が持てた。そうですよね。
とは言え、それを再確認するのは、補筆完成版を聴いてみてからでも良いかも知れない。

残りの時間は「さすらう若者の歌」。ブロムシュテットの指揮でゲルハーレルのバリトン。2008年1月23日の公演から。

久しぶりに聴いたが、結構良かった。

この曲を最初に聴いた時は、この曲の中から幾つかのメロディーが第1交響曲で使われていることから、第1交響曲のパロディーみたいに聴こえて仕方がなかった。もちろん第1交響曲の方が後から作曲されたので「パロディー」はおかしいのだが、どうにも、そんな感じが拭えなかった。

最近でこそ、交響曲第1番の中でこの「若者の歌」のメロディーが聴こえると、「若者の歌」の歌詞・・・ドイツ語を全て分かっているわけではないので、正確には、歌詞の主旨・・・がタブッてきて、メロディーの効果を上げているのだと分かってきたのだが、それを改めて再確認させてくれる演奏だったと思う。

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