シベリウス 2番 バーンスタイン
2010年9月21日の本稿で、秋山和慶指揮広響による「シベリウス 交響曲第2番」を愚演だと書いた。
「口直し」という言葉はあるが、「耳直し」という言葉はない。
しかし、「つまらない演奏を聴いたあと、曲の価値を再度認識するため、通常の感覚に戻すべく、良い演奏で同じ曲を聴き直す、または聴き返す」という意味で、私は敢えて「耳直し」という言葉を使いたい。
シベリウスの2番の「耳直し」は、この曲を好きになったきっかけを与えてくれたバーンスタイン指揮NYフィル盤で行った。
そう、これこそがシベリウスの2番なのだ。と言うか、2番のはずだ。
上記の記事は、次のように続けていた。まさに、バーンスタインで知ったシベリウスの2番の魅力をそのまま書いたようなものだから、そのまま引用する。
以下、引用--------------------------
2番ともなれば、シベリウスの交響曲の中では最も人気があり、演奏される機会も多いはずだ。3番以降の曲とは異なり、聴いているうちに何か凄く熱いものを感じさせてくれる曲である。
とくに、第3楽章から第4楽章への移行部は筆舌に尽くしがたいもので、地の底から沸き上がってくるようなエネルギーを次第に貯めてゆき、遂に第4楽章の第1主題となって一旦解放される。そして、その第4楽章の第1主題は、階名でいうと「ドレミシドレド」という、メロディーとはとても呼べない単純な音型であるのに、聴く者を感動させずにはおかない。
そして、別の主題とともに静かになったり少し賑やかになったりしながら展開するうちに、再度次第にエネルギーを貯えてゆき、そのエネルギーは巨大なものとなってゆき、終結近くで大音響かつ充実した響きとして結実し、大きな解放感を与えてくれる。
私は、この曲はこんなふうに聴いてきた。3番以降とは少し違う要素、つまり、聴く者に熱いものを感じさせ、遂には熱狂の渦に巻き込んでゆくという要素が絶対にある曲だと思っている。
引用終り--------------------
バーンスタインと秋山和慶を比べるのは酷かも知れないが、そんなことはない。バーンスタインのナマ演奏に接する機会はもう永遠にないのだから、ナマ演奏を提供できる人は、それなりに名演として残る演奏をしてもらいたいのだ。個性や考え方が違い、目指す方向が少々異なっても、「名演」としてよい演奏というものは、あり得るはずだ。
そして、シベリウスのコアなファンは、ひょっとすると私の、上記に引用したような聴き方は、たとえ「2番」であっても邪道だと考える向きもあるかも知れない。
しかし、シベリウスを、とくにこの2番を好きになるというのは、上記に引用した体験を持つことができる、ということに他ならないのではないだろうか。こうしたことを抜きにしてシベリウスを語ることができるだろうか。
もちろん、こうした聴き方であれば、「4番」など全く理解できないわけで、私が「4番」を未だに全く理解できないのは、その辺りに原因があるのかも知れない、ということは一応付言しておくこととする。
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