N響は音楽監督を迎えるべきではないか
(タイトルは変りますが、前稿、前々稿からの続きです)
N響大阪公演は、一連の、中村紘子の演奏生活50年記念演奏会ということもあって、ピアノ協奏曲がメインであり、ピアノ協奏曲であればピアニストの意志やテンポも反映されるため、指揮者のテンポ感覚や音楽性も完全にオモテに出ることはなく、ゴマカシが効く。現に、朝比奈隆の時代の大フィルで中村紘子のピアノでグリークを演奏したときも、朝比奈のテンポ感覚はかなりマシに感じられたことがあった。その後の「新世界より」は余りにもヒドかったのだが。
秋山和慶も、ピアノ協奏曲や「特集N響アワー」の大河テーマでは明確に出ずに済んだとしても、大阪公演のときの「フィガロ」、そして特集N響アワーの「ライン」に及ぶと、テンポ゜感覚や音楽性といったものがモロに出てこざるを得ない。
何も変った演奏を望んでいるのではない。テンポの少しぐらい違和感があってもいい。けど、自ずから限度というものはある。朝比奈はハッキリとテンポ感覚がおかしく、何もしないというよりは、どうしても音楽の流れとか勢いというものを無理にでもせき止めてしまおうという演奏だった(この稿、「題名のない音楽館の記事を参照。生前に書いたものなので近く追補稿を執筆予定)。秋山和慶はそのタイプとも違う。何がどう違うのか、言葉を探しあぐねているが、単純に身も蓋もなく言えば才能がないと言うべきか(こんな書き方は、宇野功芳氏の影響か?)
現に、客演でサンティやプレヴィンを迎えたときのN響は、そそれなりに楽しめる演奏をする。特にデュトアが来たときの演奏は今でも見違えるようだ。音が荒れてきているのではないかという感じも、デュトアのときはかなりマシになる。
私は今でも、デュトアが音楽監督であった時代を懐かしく思う。あの頃のN響が絶頂期だったと今でも信じている。アシュケナージになってからは、彼が何をやりたいのか分からずオケとしての明確なカラーも乏しくなっていった。そして音楽監督不在の現在。
ニューヨーク・フィルがバーンスタインが音楽監督だった時代の頃から少しだけ時を経て、バーンスタインがウィーンとの仕事が忙しくなるにつれ「音が荒れてきた」と評された時代がある。その後持ち直したが。
N響が世界的にどれほどの水準にあるオケなのか私には判断がつかないが、少なくとも、音楽監督不在という状況と、「音が荒れてきている」と感じる状況が無関係とは思えないのである。音楽監督も、デュトアのような人。デュトアの練習は厳しかった、とはオーボエ奏者の茂木大輔氏の本に出ていたのを記憶している。
予算の問題もあるのかも知れないが、少し贅沢をするつもりで、音楽監督を再度招聘する必要があるのではないだろうか。