ボレロ 音のパレットは見てもパレット
兵庫県立芸術文化センターに読売日響が来演したので聴きに行った(2009年9月17日。スクロヴァチェフスキ指揮)。
団員が入場し音合せを始めた瞬間、「あ、これは大フィルよりも芸術文化センターの楽団よりもかなり上だ」と感じた。弦の音の深みが違う。
東京に住んでいたときがあった。仕事が早く終わりそうだというときは、新聞の朝刊でその日にやっている演奏会を確認し、当日券目当てに行くということがよくあった。そのとき、読売日響は聴いたのだったかどうか。何れにせよ、東京ではこのレベルのオケを聴くのに何の不自由もなかった。・・・・カネはかかったけど。
それはさておいて、この読売日響の公演はB席で、2階。オケ全体を上から俯瞰するような位置。オケの響きを楽しむには、そんな席の方がいい。
バルトークのオケコン、ラヴェルのスペイン狂詩曲、ボレロというプログラム。スクロヴァチェフスキは、こんな曲もやるのだ。
ラヴェルなど印象派の曲やR・コルサコフの流れを汲む作曲家の曲は、よく「音のパレット」に例えて語られる。私はこんな表現は、音楽を絵に例えることじたい賛成しないし、いかにも陳腐な言い回しだと思っている。というか、そう思っていた。
ところが、ボレロを聴いて、観て、「ひょっとするとこんな意味もあったのか」と、考えが変った。
フルートのソロと小太鼓、ヴィオラとチェロのピッツィカートから始まり、順次楽器が加わって音色と音量が変ってゆき、最後、「なんちゃって」みたいに、カタストロフィーで終わる。手元のポケットスコアでは冒頭からしばらくが7段で、最後の部分は35段!! この途中の過程で、オケの各パートが待機から演奏に入ったり弦楽器では奏法が変ったりして、上から見ていると真っ黒に近いオケの服装にも拘わらず、それぞれのパートや奏者が新しい色を散りばめてゆくように見えた。それは、それこそパレットに色々な絵の具を置いたり混ぜたりしてゆくのに近い印象を持った。
「オーケストラはナマで聴くべきもの」原理主義者・・・みたいな人たちがクラシックのリスナーや評論家には少なからず存在する。私はCDで音だけ聴くのも、テレビでクラシック番組を視聴するのも、DVDを視聴するのも基本的に音楽体験について変わりはないと考えているのだが、やはりナマの良さというのはある。
ボレロをテレビで放送すると、各パートが出てくる度に奏者のアップとなることが多い。つい、それに気を取られる。CDだと音色が変ってゆくのはよく分かるのだが、どのように各パートが入ってきたり同時に奏したり奏さなかったりしているのかは分からない。ナマだと、各走者の表情などは殆ど分からないが、演奏している姿は分かる。だんだんと奏者が増え、各パートが鳴り出してゆくさまがまさに「パレット」だと実感することができたのは、ナマならではの経験だった。
「音のパレット」という表現は、見たときの印象でもある、というのが、この公演で「発見」できたことであった。
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