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2009年10月

2009年10月29日 (木)

バルトークのオケ・コン なぜ「協奏曲」なのか、見たら分かった

2009年9月17日の、読売日響 西宮公演から、ボレロに加えてもう一曲、「見たら分かった」ネタを。

バルトークの、「管弦楽のための協奏曲」である。通称「オケ・コン」

この曲が「協奏曲」と称するのは、オケの各パートが、協奏曲のソロのように活躍するから、というのが一般的に言われる「解説」であろう。

しかし、そんな説明をされても、いまいち理解できないでいた。
これも「ボレロ」と同様、テレビなどでは各パートが出てくるときは、そのパートまたは奏者をアップして映すため、全体がよく分からないためである。まして、CDで音だけを聴いても分からない。

それが、オケの全体を上から俯瞰する席で視聴していたら、一発で分かった。

各パートがソロ的に活躍するとき、弦を中心としたセクションとの間で絶妙な「マ」があり、距離的にも少し離れていたりして、まさにソロ楽器の協奏曲を彷彿とさせるものであることが見て取れたのである。ベートーヴェンにピアノ・ヴァイオリン・チェロという3つの楽器による協奏曲があり、モーツァルトにはヴァイオリンとヴィオラによる二重協奏曲(協奏交響曲)があるが、それをもっと大規模に、楽器ごとのセクション単位にまで拡大した感じ、と言えばいいだろうか。

こうした「発見」があるから、ナマの演奏会通いはやめられなくなってゆくのである。ナマを聴き慣れた方、見慣れた方にとっては「そんなこと、今頃気づいたのか」と言われるかも知れないが、賛同頂ける方もおられることと思う。

2009年10月28日 (水)

ボレロ 音のパレットは見てもパレット

兵庫県立芸術文化センターに読売日響が来演したので聴きに行った(2009年9月17日。スクロヴァチェフスキ指揮)。

団員が入場し音合せを始めた瞬間、「あ、これは大フィルよりも芸術文化センターの楽団よりもかなり上だ」と感じた。弦の音の深みが違う。

東京に住んでいたときがあった。仕事が早く終わりそうだというときは、新聞の朝刊でその日にやっている演奏会を確認し、当日券目当てに行くということがよくあった。そのとき、読売日響は聴いたのだったかどうか。何れにせよ、東京ではこのレベルのオケを聴くのに何の不自由もなかった。・・・・カネはかかったけど。

それはさておいて、この読売日響の公演はB席で、2階。オケ全体を上から俯瞰するような位置。オケの響きを楽しむには、そんな席の方がいい。

バルトークのオケコン、ラヴェルのスペイン狂詩曲、ボレロというプログラム。スクロヴァチェフスキは、こんな曲もやるのだ。

ラヴェルなど印象派の曲やR・コルサコフの流れを汲む作曲家の曲は、よく「音のパレット」に例えて語られる。私はこんな表現は、音楽を絵に例えることじたい賛成しないし、いかにも陳腐な言い回しだと思っている。というか、そう思っていた。

ところが、ボレロを聴いて、観て、「ひょっとするとこんな意味もあったのか」と、考えが変った。

フルートのソロと小太鼓、ヴィオラとチェロのピッツィカートから始まり、順次楽器が加わって音色と音量が変ってゆき、最後、「なんちゃって」みたいに、カタストロフィーで終わる。手元のポケットスコアでは冒頭からしばらくが7段で、最後の部分は35段!! この途中の過程で、オケの各パートが待機から演奏に入ったり弦楽器では奏法が変ったりして、上から見ていると真っ黒に近いオケの服装にも拘わらず、それぞれのパートや奏者が新しい色を散りばめてゆくように見えた。それは、それこそパレットに色々な絵の具を置いたり混ぜたりしてゆくのに近い印象を持った。

「オーケストラはナマで聴くべきもの」原理主義者・・・みたいな人たちがクラシックのリスナーや評論家には少なからず存在する。私はCDで音だけ聴くのも、テレビでクラシック番組を視聴するのも、DVDを視聴するのも基本的に音楽体験について変わりはないと考えているのだが、やはりナマの良さというのはある。

ボレロをテレビで放送すると、各パートが出てくる度に奏者のアップとなることが多い。つい、それに気を取られる。CDだと音色が変ってゆくのはよく分かるのだが、どのように各パートが入ってきたり同時に奏したり奏さなかったりしているのかは分からない。ナマだと、各走者の表情などは殆ど分からないが、演奏している姿は分かる。だんだんと奏者が増え、各パートが鳴り出してゆくさまがまさに「パレット」だと実感することができたのは、ナマならではの経験だった。

「音のパレット」という表現は、見たときの印象でもある、というのが、この公演で「発見」できたことであった。

2009年10月27日 (火)

カルメンの愛した男は誰? さらに続々

私なりに「カルメンの愛した男は誰?」について得心した気がしたので、今後このオペラを聴いたり観たりするときの考え方も変ってくるだろうと思う。

まあしかし、カルメンが魔性の女であり性悪女であることは間違いないでしょうね。東京または西宮で今回の一連の公演を観に行った人のブログも結構あり、例えば「日々是好日」さんも、結論として「魔性の女」「性悪女」と断じておられる。「日々是好日」さんは、演出などについても色々とコメントをされていて、「オペラ実物?鑑賞の初心者」である私には大変参考になりました。

で、女性の立場からカルメンとホセ、そしてその周辺を取り巻く人間模様や性格などはどのように見えるのか、と思っていると、「いなほの旅」さんのブログに出会った。

「魔性の女ということはなく、恋愛に対しいつも本気」「気が強いながらも優しさがあり」「運命に従う潔さを持っている」と言ったご意見で、これも参考になりました。「ホセはストーカーだ」という見方は、私も賛成。また、多くの人もそう思われるだろう。

ただ、私の「愛しているがゆえに、ホセの手にかかって死ぬことを選んだ」という私の意見は、女性の立場からしたらケシカランと怒られるかもしれませんけどね。

まあしかし、オペラの中にはかなり男目線でストーリーが構成されている作品が多いのであり、ご容赦頂けるとありがたいです。

2009年10月26日 (月)

カルメンの愛した男は誰? さらに続き

(前稿から続く)

佐渡裕プロデュースによる「カルメン」

2009年6月25日~30日、7月1日、3日~5日が兵庫公演。会場は兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール。オケは会場付属の兵庫芸術文化センター管弦楽団。カルメン役のメゾ・ソプラノはステラ・グリゴリアン(Aキャスト)と林美智子(Bキャスト)のダブルキャスト。兵庫県立芸術文化センターにおける西宮公演のあと、東京での公演、そして名古屋公演と続き、全15公演という大がかりなものだった。

この内、6月30日の兵庫公演を観に行った。Aキャストの方である。別に「外人崇拝」という気持ちはないが、価格も同じだったので、どうせなら、ということで。

観にゆくことを決めたのは、大きな動機もあった。佐渡さんがヤマハから出ているPR誌で、「カルメンは、ホセという1人の男の人生を狂わせてしまうほど美しい女性でなければならない」と発言していて、そこに添えられたカルメン役の2人が、何れも確かに絶世の美女だったからだ。

「カルメン」に限らず、オペラ自体、ナマで視聴したのは初めてである。オペラグラスをどうしようかと思っているうちに当日となってしまい、幸い会場で安価で手に入れることができたので持って入ったのだが・・・オペラグラスで観ても殆ど顔は分からない! だから、カルメン役のステラ・グリゴリアンが、写真に違わず「絶世の美女」だったのかどうかは、当日は分からなかった。オペラグラスと称して販売されているのは大体3倍程度のもので、会場で入手したのも3倍。A席だったのだが、人物の全身像がやっと判別できる程度。もちろん、顔もよく分からないし、表情を伺い知ることもできない。この辺はテレビと違う処だ。

けど、負け惜しみになるが、それも良かったかもしれない。

キッチリと表情などを観るのが無理と分かった以上、舞台の全体の感じと、音楽の流れをちゃんと聴こうと割り切った。オペラグラスも殆ど使わず、ボーッと見聴きして行った。それによって、(ここでは逐一触れることはしないが)新しい「発見」もあった。

そして、最後の場面になったときに、「あ、ひょっとすると『カルメン』を誤解していたかも知れない」と思い至ったのである。

ここまで、前置きに等しいゴタクが長くなってしまったが、タイトルの「カルメンの愛した男は誰?」という点である。

私がこの公演で「あっ」と思ったのは、「カルメンはホセに愛想をつかしていたかに見えるが、実は、ずっと、一番愛していたのではないだろうか」ということだ。だって、友人たちから「殺されるかも知れないから逃げなさい」と忠告されているにも拘わらず逃げもせず、ホセと向き合い、罵詈雑言を浴びせつつも、そして殺すとまで言われているのに、大声で助けを呼ぶこともせず、結局はホセの手にかかり、ホセの腕の中で死ぬのだ。

とっくに、話し合って和解できる状況ではなくなっている。そんな相手ではないことも知っている。殺されるかも知れないことは、かつてトランプ占いをしたときにハッキリ予言されていて知っている。すぐ逃げるのは難しいとしても、少なくとも闘牛場に逃げ込んでしまえば当面は身を隠せるし、試合が終わったあと、新しい愛人のエスカミーリオに身を託して守ってもらうことだってできる。

しかし、カルメンは、ホセに殺されることを選んだ。

これって、謎だと思っていたし、なぜなのか、と公演の最中にも思い続けていた。で、「あっ。カルメンは最も愛した男だから殺されることを選んだのだ」と得心するに至ったのである。

オペラだから、演奏によっても演出によってもキャストによっても感じ方が変るだろう。今回の演出は比較的オーソドックスなものと観たし、キャストも、多分絶世の美女だったのだろう。・・・と言うより、後日同じキャストで「題名のない音楽会」に出演し「カルメン」の超抜粋版をやったのだが、確かに美人だった。

けど、美人であるのに越したことはないが、必ずしもそうでなくても、男と女の間には、どうしようもなく深みに陥ってしまう不幸な関係というのが成立してしまうことがあるのだ。決して幸福になることはない、とお互いに分かっていても、である。

「カルメン」は、そんなことを色々と考えさせられることもあり、また、この上なく親しみやすい音楽も相俟って、名作として演奏され続けているのだろう。

そして、私が今に至って新しい「発見」をしたように、多くの愛好家が、それぞれのカルメン像、それぞれのホセ像を思い描き、また感じ方・見かたを変えながら作品に向き合い続けているのだろう。

2009年10月25日 (日)

カルメンの愛した男は誰? 続々々

(前稿から続く)

さて、最初に「カルメン」の曲に接し、「ハバネラ」の演奏方法にからめて当時習っていたヴァイオリンの先生から「ここは女の人が男の人をからかって・・・」という発言に、もやっとしたドキドキ感を覚え、その後「カルメンって何ちゅうひどい女だ!」と思うようになったのだが、さらに私が長ずるに伴って、少し見方が変っていった。

「ホセというのは何ちゅうだらしない、決断力のない男だろう!」という見方である。

世の中には、確かに、カルメンのような女性がいる、ということを知ってしまったためでもある。そして、自分も、決して幸せになれないことがホンネでは分かっているのに、どうしようもなく振り回され、深みに落ちてゆくことを感じた女性がいて、やがてそこから抜けることができた、という経験をしたためでもあるだろう。

この、「ホセって何ちゅうだらしない、決断力のない男だろう」という感じは、その後も、「世の中の男と女というのは、どうしようもなく、こうした関係または運命にもてあそばれる場合があり得るのだなあ」という気分が付け加わったりしながらも、つい最近までつながってゆく。

そして、「ホセという男の決断力のなさ、未練たらしいことに、カルメンも嫌気をさして、それを理解できないホセとの間に溝がどんどん深くなって殺人につながった」というように観るようになった。

だって、もはや愛してもくれない女性に、モトに戻ってくれ、オレともう一度やり直してくれ、と言ったって所詮どうしようもないじゃないですか。カルメンだって、ホセとの間に心の溝を感じ始め、自分と一緒にいてもこの男とともに不幸になるだけだと感じ始めたからこそ、激しく言い寄ってくるエスカミーリオに心を奪われてゆく。それに嫉妬心を燃やすホセが、いつまでもウジウジと自分にまとわりついて来るのは、ますます鬱陶しく、かえってますます心が離れてゆくこととなる。

だって、婚約者ミカエラが、盗賊団の居場所を探しあてて、ホセの母親が危篤であると知らせにきて、それが後に闘牛場の前で再会するまでの別れとなるのだが、去ってゆく間際まで、未練たらしく怒りと嫉妬の言葉を投げつけてゆくのである。カルメンとしては、ほとほと愛想も尽きるというものだ。。。。

・・・と、こんな風にこの作品を認識していた。

それが、佐渡裕による公演を観て、大きく変ったのである。

(この稿さらに続く)

2009年10月24日 (土)

カルメンの愛した男は誰? 続々

(前稿から続く)

この稿をご覧になる方で「カルメン」のストーリーをご存じない方はおられないとは思うが、念のために大雑把にストーリーを書くと、こうなる。

騎兵隊の伍長ドン・ホセには故郷で婚約していたミカエラという女性がいた。しかし、ある日、タバコ工場で働くカルメンと出会い、誘惑に負けてカルメンに心惹かれるようになる。暴力騒ぎを起こして捕らえられたカルメンを、彼女の言うがままに逃がせてやる。罪に問われて禁固刑となったホセは、カルメンの待つ酒場に行き再会を果たす。帰営の時刻となるが、ここでもカルメンの誘惑に負けて、帰営の時刻を過ぎてしまうだけでなく、上長と決闘騒ぎを起こして軍に帰れなくなり、カルメンの属していた盗賊団に加わってしまう。

しかし、カルメンはまもなく、闘牛士エスカミーリオに心を寄せるようになり、ホセを棄てる。怒りと嫉妬に燃えたホセは、闘牛場の前で、エスカミーリオに遭いに行こうとしていたカルメンに復縁を迫り、遂に殺害していまう。

もっと簡単に言うと、情熱的で奔放なカルメンという女性が、1人の兵隊を誘惑して恋仲となるが、やがて闘牛士の方に心を寄せるようになり、兵隊に殺されてしまう、という話である。

さて、ハバネラについて「ここは女の人が男の人をからかっている」という当時の先生の言葉に、何のことか分からなかったがもやっとした恥ずかしさを感じた小学生の頃、「カルメン」を組曲形式にしたレコードは聴いていたが、抜粋盤であって全体のストーリーは分かっていなかった。「ハバネラ」も入っていないものだったし。

テレビなどで「ハバネラ」も聴けるようになったあとだと思うが。最初におおまかなストーリーが分かってくると、「こんな女は大嫌い」だと思った。当時購読していた音楽雑誌でも、ある評論家が、「『カルメン』はキライだ。だって、あの女がキライだから」と言っていたので、そのときの思いを共有できた。中学生の頃だった。

要するに、「カルメンというのは、何ちゅうひどい女だ!」という思いである。

(この稿さらに続く)

2009年10月23日 (金)

カルメンの愛した男は誰? 続き

(前稿から続く)

「カルメン」に関する見方、考え方について、私は何度か変った。

小学生の頃、ヴァイオリンを習っていた。先生は当時関西交響楽団(後の大フィル)のヴィオラ奏者であったご夫婦で、主に奥様に習っていて、時々ご主人がみて下さることがあった。このご夫妻は、私が習うのを断念せざるを得なかった事情があったあとのことになるが、日本フィルハーモニー交響楽団に移られ、その後、当時の私にはよく分からなかったが、文化放送がスポンサーを降り、新日本フィルハーモニー交響楽団との分裂騒ぎにつながる、という事件に巻き込まれることとなる。しかも、モトの日本フィルハーモニー交響楽団の方に残られ、大変な苦労をされることになるのである。

この話は別の機会にどこかで書くとして・・・ カルメンの話に戻る。

ご主人から与えられた課題曲の中に、「カルメン」の中の曲を何曲かメドレーで繋げた曲があった。「カルメン幻想曲」ではない。初心者向けの、もっと易しい曲で、編曲者も、未だに分かっていない。

その曲の中に「ハバネラ」があった。あの「ハバネラ」は、楽譜に書かれている通りに機械的に演奏すると、何にも面白くない曲なのである。私が楽譜通りに弾いていると、ご主人の方の先生が、「そこはちょっと、ねえ(苦笑)・・・ ここは女の人が男の人をからかっているんだよ。まだ難しいだろうけどねえ・・・ だからもうちょっと色っぽく・・・ 分からないだろうけどねえ・・・(苦笑) 例えばこんな風に・・・ 」とおっしゃって弾いてみせて下さった。

母がレッスンに必ずついてきたし、もう1人一緒に習っていた子もお母さんと一緒に来ていた。奥さんの方の先生もおられた。そのとき、オトナたちが大笑いしていたような記憶がある。

だって、ねえ。小学生でそんなこと分かる方がおかしいですよねえ。

けど、「女の人が男の人をからかっている」という言葉によって、一緒にレッスンに来ていた子を目の前にして、凄く恥ずかしい思いをしたような気がする。女の子だったし、好きだったから。

(この稿続く)

2009年10月22日 (木)

カルメンの愛した男は誰?

奈良に住んでます。大阪からも京都からもちょっと離れていて、クラシックのコンサート会場に足を運ぶこともままならず、また会社勤務の間は平日に聴きにいくこともできずにいて、おのずからナマの演奏を聴く機会が殆どありませんでした。

定年で時間はタップリある状態となり(カネはないですが)、ようやくそれができるようになりました。

で、娘から「早めの『父の日のプレゼント』として贈ってみらった「ルイージ指揮 ドレスデン・シュターツ・カペレ」を聴きに行ったのが2009年4月26日。その次に佐渡裕による「カルメン」を観に行ったのが2009年6月30日。その後も折に触れて大阪と西宮に足を運ぶようになりました。

ナマを聴き、家ではTVのクラシック音楽番組やCD/DVDの視聴をしてると、当たり前のことですが「へえ、そういうことだったのか」と改めて「作品」の特徴やメッセージを感じることが多くなりました。

で、まずは「カルメン」なんですが、よく知られたこの作品、皆さんはどのように思いながら聴いたり観たりされてますか?

カルメンが情熱的であり奔放な女性であることは間違いないでしょう。だとして、好きですか、キライですか。ドン・ホセは?

(この稿続く)

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