「指環」を続けて演奏する編曲版なんて要らない
2009年5月17日のN響アワーで、「指環」をフリーハーという人が編曲した「指環--オーケストラル・アドベンチャー」なる曲が演奏された。
これは、4月4日にNHKホールでのエド・デ・ワールト指揮による第1644回N響定期のもの。BS2の「BSシンフォニーアワー」で放送されていて、そのときに既に聴いていた。実は、途中で嫌になって聴くのをやめようかと思った。思っているうちにウツラウツラし始めた。ところが、「神々の黄昏」の最後の部分になって、ブリュンヒルデの素晴しい声が入ってきて、パッと目を覚ました。スーザン・バロックによる歌唱である。余りにも素晴しかったので、曲全体に対する評価はいったん保留したのであった。
改めてN響アワーで聴き直したのだが、やはりこんな編曲は嫌だ。嫌というよも、率直に言って愚作と言うしかない。演奏する価値がないと考える。
そもそも、「指環」の聴き所なるものを続けて演奏すると、ある部分と次の部分の間の、演奏されない部分に思いを馳せて楽しむことが不可能となる。それぞれの部分で余韻を楽しみたいこともあるだろう。
また、連続して演奏することによって台なしになってしまう部分もある。
「ヴァルキューレ」の最終部は、神性を剥奪し無防備に眠らせた娘・ブリュンヒルデを、父が「恐れを知らない勇敢な男だけがこれを超えて来て、娘を花嫁とせよ」として、燃えさかる炎のバリアで囲んでゆき、別れを告げるという場面である。英雄・ジークフリートの動機が何度か鳴って「恐れを知らない勇敢な男」がやがて出現することを示すうちに、眠の動機が繰り返され、静かになってゆき、幕を閉じる。
「指環」の中で最も感動的な部分である。静かに終わるだけに、聴く側としては余韻も十二分に味わいたい処である。事実、全幕演奏される場合は、次の夜「ジークフリート」が始まるまで余韻は続くのであり、または「ヴァルキューレ」だけで終わってしまっても十分なのだ。
それを、この編曲版は、余韻を感じさせるどころか、流れるように「ジークフリート」の「森のささやき」につなげてしまっている。これでは台なしだ。最初BSシンフォニーアワーで聴いて、ここで嫌になったのだ。N響アワーで聴き直して、この部分がとくにダメだと確信した。
曲全体を通して、個々の部分は、それなりに聴けたり圧倒されたりする。しかし、それは元々原曲がスゴいためであり、とくに終曲は、今回の演奏で「これぞブリュンヒルデ!!」というソプラノに恵まれたためである。久しぶりにブリュンヒルデらしいブリュンヒルデの声が聴けた。
エド・デ・ワールトが1992年に初演したものだそうで、徐々に演奏する指揮者が増えている・・・とN響アワーのホームページに記載されていた。初演者だけに力を入れたいのだろうが、こんな編曲はダメだ。むしろ、部分部分をブッた斬って曲と曲の間に休みを取りながら演奏してゆく「組曲」のような形にすべきだった。
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