「指環」を続けて演奏する編曲版なんて要らない 続き
「『指環』を続けて演奏する編曲版なんて要らない」で、この曲はダメだと書いた。とくに、「ヴァルキューレ」の最終部の直後に「森のささやき」を続けてしまい、せっかくの感動的な場面の音楽を台なしにしてしまっていることが許せないと書いた。
もう1点、気に入らないことがある。編曲版のオリジナル(変な表現ですけど)では「ラインの黄金」が含まれているのに、N響定期ではカットして演奏されたこと。他の方のブログやウィキペディアなどを拝見すると、「ラインの黄金」からは4曲も!!ピックアップされているそうだ。それはないでしょう、ワールトさん・・・
「ラインの黄金」を欠いた演奏を残念に思っておられるブロガーは何人もおられるようだが、たとえば「蔵六の思いつ記」さんは
「ラインの黄金やヴァルハラへの入城とか好きなんだけどなぁ」
と書いておられるし、
「パンダイルカ」さんは
「東京フィルが取り上げた時とは構成が違うようです。N響の方はラインの黄金のトンテンカン♪がないので私としては寂しいですね」と書いておられる。
「蔵六の思いつ記」さんのブログはこちら
http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/d3b64c79f88166daf19bc8d47e749091/b2「パンダイルカ」さんのブログはこちら
http://panda-iruka.cocolog-nifty.com/pan_iru/2009/05/post-afd6.html
私はそれ以上に、あの演奏では、「指環」の抜粋としても体をなしていいないということである。抜粋であっても、始まりがあって終わりがあるべきだ。あの演奏では、始まりがなくて終わりがある。
「ラインの黄金」で、ラインの乙女たちから指環が奪われ、ワルハラ城が建てられ、建築の手間賃(安っぽい表現ですけど)を巡るトラブルから指環に呪いがかけられる・・・こうして壮大なストーリーが開始され、長い長い紆余曲折のあと、「黄昏」の最終部で全てが「愛の力」で救われる。ストーリーと共に音楽的にも完結するわけである。
「黄金」で姿を見せたワルハラ城が、「黄昏」でブリュンヒルデの自己犠牲とともに燃え落ちてゆく場面の音楽を例にあげる。
「黄金」で壮麗に出ていた城の動機が、「黄昏」では、大音響の中、いったんは再び壮麗に登場するものの、次第に崩れてゆき、力を失なってゆく音楽として書かれている。城が業火の中で灰燼に帰してしまう様子が音楽だけで目に浮かぶ、圧倒的な部分であり、同時に聴き手はこれまでのストーリーを振り返り、全てが終わりを迎えたことを、ある種の名残惜しさとともに知ることとなる。
姿を見せなかった城が燃え、なぜか指環を返すと言う。これはダメなのではないか。
そもそも、抜粋の仕方も色々あるだろうに、なぜつなげてしまったのか。不可解でもある。部分ごとに切るとか、どれかひとつの楽劇をキッチリやるとか、そのような方法がこれまでも採られてきているのに。
ブリュンヒルデの自己犠牲の部分にソブラノを入れるのは元の版にはなく、エド・デ・ワールトの判断によるものだそうだ。この判断だけは良かったかも知れない。
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