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2009年5月

2009年5月29日 (金)

マナカナのデビューCDは期待外れ 続き

アルバムに入っていない「いのちの歌」は、別途マキシシングルとして発売されている。これも、シジミジルがフィーチャーされたトラックの方が良い。

この「いのちの歌」は、その後のNHKの番組でメインとして取り上げて歌っているので、これで紅白を狙うのだろうが、どうだかなー。悪くはないのだが、ポーンと突き抜けたものがない。歌詞もストレートすぎる。分かりやすいといえば分かりやすいのだが・・・ 紅白にはNHKだから出すように推察するが、後々まで残るかどうか微妙な処だ。

歌手として歩ませるのが果たして正しかったかどうか。顔は少し異なってきているが、まだまだ一卵性双生児として「似ている」ことを武器にできるはずである。それこそ先に挙げた「古都」・・・いや、そこまで行かなくても、「似ている」ことを活かしたドラマを作るなどして、もっと女優として挑戦させるべきではないだろうか。

先にも書いたが、朝ドラとしては史上最高傑作だと思う。2人が歌っていた歌を除いても、テーマ音楽「縁の糸」を含めて、音楽も良かった。

2008年下期の大阪制作のこのドラマが結構マジメ路線で行っていたのに、2009年上期の東京制作「つばさ」がオチャラケに近い路線となり、従来の東京vs大阪の路線が逆転したみたいだ。

2009年5月28日 (木)

マナカナのデビューCDは期待外れ

NHKの朝ドラは、1996年(平成13年)下期の「ふたりっ子」以降、毎回見ている。その「ふたりっ子」で双子の姉妹を演じたのが、まだ幼かった三倉茉奈/三倉佳奈・・・マナカナ・・・だった。勤め人としては放送時間が合わないこともあって、ずっと見ないでいたのだが、たまたま始まったばかりの「ふたりっ子」を見る機会があり、余りにも面白いのでVTRに録ってまとめて見るようになったのである。

途中、余りの暗さにイヤになったが音楽の素晴らしさによって引き戻されたのが1999年上期の「すずらん」。それに次ぐ1999年下期の「あすか」は、音楽もさることながらドラマの出来として朝ドラ史上の最高傑作だと思っていた。
その頃書いた内容は、できれば私の「題名のない音楽館」の次のページをご覧ください。

すずらんとその音楽
あすか オリジナルサウンドトラック・・・「CDミニ評アーカイブ」内

2008年下期の「だんだん」で、マナカナが主役となったが、当初は「NHKが悪のりしている」と思った。大阪出身だし、さんまなどが司会するお笑いバラエティにはよく出演していたが、ドラマなどに出ていた記憶はないし、何を考えているんだろうと思った。そもそも、双子の姉妹が別々に育って・・・というプロットは、川端康成の「古都」そのまんまじゃないか。私も原作を読んだのは昔のことなので忘れていたが、何年か前にスペシャルドラマ化され、上戸彩が好演したのが印象に残っている。

佳奈の舞妓姿が全く似合っていなかったし。
ところが、程なくして2人がデュエットする場面が登場すると、これが中々いい。ボイストレーナー役を演じた森公美子(オペラ歌手)も手放しで誉めていた。まあ、お世辞半分としてもね。
で、どうもこれは歌手として売り込み、NHKとして紅白に出すつもりか・・・であれば当然CDも出すだろう・・・と思っていたら、案の定出してきた。今年の初めに出ていたようだが、ときどきCDショップに行っても見あたらなかった。

見つけたのは、ドラマが終わってからで、ネットでようやく見つけた。ドラマの中ではシジミジル→SJ→Sweet Juno とバンド名が変っていったが、デビュー名は、その何れでもなく「茉奈佳奈」だ。何だ、そのまんまじゃないか。検索も「マナカナ」で見つかった。

番組の中で歌っていた曲に、公式ページで募集していた曲を合せたカバー曲集である。期待してCDプレーヤーにかけたのだが・・・何じゃこれは。
歌はいいのだが、編曲が全くダメ。番組の中で歌っていたときの編曲の方が遙かにマシだ。イマジネーションもやる気も感じさせない、最低の編曲だ。こんな編曲は歌をつぶすだけだ。番組の中で使っていた編曲のまま出すのがイヤなら、モトの曲の編曲を使って懐かしさを出す方法もあるだろう。新しく編曲するならば、モトの編曲と遜色のない編曲を作らないといけない。
編曲がダメという意見は私だけではない。ちょっと色々なブログなどをあたってみると、酷評している人が多いことが分かる。

ボーナストラックとして収録されている「シジミジルのテーマ」は、茉奈佳奈バージョンということで、放送されていたイメージに近い。何で全曲をこのようにしなかったのだろう。

ドラマそのものは、これまで「あすか」が連ドラ史上最高傑作だと思っていたが、今では「だんだん」が最高だと考えている。ドラマの中で歌手として成功し、たいていであればそこで終わってもいいのだが、その後の2人の歩みをずっと追いかけ続け、2人それぞれ「スターをやめたあと」懸命に生きていった姿を見せて行ったのが、深さを増した。

2009年5月27日 (水)

「指環」を続けて演奏する編曲版なんて要らない(4)

「『指環』を続けて演奏する編曲版なんて要らない」で記した通り、この編曲版で最も気に入らないのは、「ヴァルキューレ」の最終部の感動的な場面が終わるとその余韻に浸ることもなしに「森のささやき」に繋げてしまっていることである。

本題から少し外れるが、そもそも「指環」の中では、「ヴァルキューレ」が最も優れていると思うし、「劇」としても比較的共感しやすいし、後味の悪さが少ないと思う。裏切りと呪いの始まりとなる「黄金」。本人が意識できない状態となっていたとは言え妻を嬉々として悪党に差し出す「黄昏」のエゲツなさ。剣を鍛え直す場面が執拗でやかましく、悪党とは言え育ての親を殺したあと祖父と決闘し、あげく叔母に愛を叫ぶ「ジークフリート」。

ワーグナーの音楽の強さによってグイグイ引っ張られてゆくように聴いてしまうのだが、どこかに、共感し切れず居心地の悪さが残るのではないだろうか。
その音楽も、かなり出来不出来があり、「ジークフリート」など、普通ならどうしようもない愚作として忘れられたかも知れないレベルだ。誰か忘れたが或る音楽評論家が「指環の第2夜という位置づけでなかったら、今日まで伝わったかどうか・・・」と書いていたが、全く同感だ。

で、比較的共感しやすいと思う「ヴァルキューレ」だが、これも共感し切れない部分が残るかも知れない。何しろ、運命のいたずらとは言え、兄妹が愛し合うこととなってしまうことから始まるのだ。

そして最終部分。ブルックナーが観終わったあと、「なぜあの女は焼かれなければならなかったのだ?」と言ったというエピソードがある。このエピソードは割と有名なので孫引きの孫引きみたいなことになっていて、言葉も正確かどうか私は分かってないのだが、本当に「焼かれなければ・・・」と言ったのであれば、ストーリーを理解していないことになる。「焼いた」のではなく、「バリアで囲った」のだから。

それはさておき、普通このエピソードは、ブルックナーがいかに世間知らずであったか、いかに純朴であったか、という例として挙げられるようだ。しかし、私は、本当はブルックナーの方が「まとも」なのであって、ワーグナーのひねくれた筋立てに入り切れなかったのではないかと考えるようになった。これについては、私の「題名のない音楽館」の中の「ブルックナーとワーグナー」で考えてみているので、併せてご覧頂けますとありがたいです。

2009年5月26日 (火)

「指環」を続けて演奏する編曲版なんて要らない(3)

LPレコードからCDになったとき、音がクリアになったとか、高音が20kHzまでしか出ないという前提で妥協した技術によるものだから「音楽」として何か重要なものがカットされてしまうのではないか、いやそれで十分なのだとか、色々と論議されたものだ。

大きさ(直径)が30cmから12cmになり持ち運びがしやすくなったことも大きなメリットだと言われた。1枚あたりの収録時間が多くなり、組み物の枚数も少なくなった。「指環」を例に挙げると、全曲盤のCDで13枚程度である。厚さ10mmの標準ケースに1枚ずつ入れても全曲で13cm。実際には2枚用ケースや3枚用ケースも併用されるので厚みはもう少し薄くなるが、13cmとしても、縦12cm×横12cm×厚さ13cmという大きさは、店で全曲をドン!と買って持ち帰るにしても困るほどの大きさではない。これによって、CDの買い方が変った。

また、クラシック音楽の聴き方が変ったことも挙げておかねばならない。
変った点をさらに二分すると

①途中で裏返す必要がなくなった曲が多くなり、じっくりと聴くことができるようになった。
発売当初のCDの収録時間が片面74分と決まったのは、カラヤンが「ベートーヴェンの第9を通して聴けるようにするには74分必要」とソニーに言ったことによる、という有名な話がある。指揮者によっては「第9」が74分で収まらない場合があるのは当然だが、少なくともカラヤンによるベートーヴェンの交響曲は、片面で全部収まることとなった。その後次第に収録できる時間も増え、カラヤンに限らず、またベートーヴェンに限らず、また交響曲に限らず、たいていの曲は片面に収まるようになり、裏返さずにジックリ聴くことができるようになった。

②①と相反することだが、飛ばし聴き(ザッピング)や部分聴きが容易になった。
交響曲などの一部の楽章だけ聴くとか、オペラの中の或るアリアだけ聴くとか、飛ばし飛ばし聴くというニーズはLPの時代からあったと思うが、実際にやろうとすると大変だった。曲間の溝にうまく針を降ろしたり、上げたりすることを繰り返さねばならない。慎重にやらないとレコードと針を傷めてしまう。

LPレコードの時代、これらを解決するために自動両面演奏プレーヤーとか、自動的に曲間の溝を検知して飛ばし演奏をするプレーヤーなども実用化されたが、音の良いものはなく、主流にはならなかった。CDになってようやく、①と②の両方が一度にクリアされたわけである。交響曲に限らず、オペラに限らず、長い曲を全曲ジックリ聴くのもよいし、一部だけを聴いてもいい。長い曲をジックリ聴く場合も、疲れたら途中で一休みしてもいい。大体の操作がボタン1~2個で容易にできるのだから。

「指環」を全曲通して聴くとして(そんなことはしないだろうけど)、CDで13枚。単純かつ大雑把に言うと、プレーヤーの処に行くまは13回で済む。LPだと裏返しに行くので、同じ枚数だとしても、単純かつ大雑把に言って26回。実際には枚数はもっと多かったはずで、この差は大きい。収録時間が多く裏返す必要もなくなると、途中で曲の流れを損なうことも少なくなる。ジックリ聴くのに適している。逆にザッピングも容易だ。他のオペラなども然りである。

それでもザッピングは面倒なことが多いので、「これぞ!」という曲がセレクトされた「ハイライト盤」が出ていたら購入することになる。そして実際には全曲盤よりもハイライト盤を手にとることの方が多くなるのである。このように、全曲盤・ハイライト盤の両方を持って使い分けるようにしているのは私だけではないと思うのだが。

そして、良いハイライト盤を聴いている以上は、あんな編曲版なんて要らない。しかもそれを音楽的に誤っている短縮版で演奏して欲しくなかった。誰に聴かせたいのか企画意図も分からない。時間の制約があったのであれば、全曲または「ヴァルキューレ」からの単純な抜粋で良かった。

ところで、私のお薦めは全曲盤・ハイライト盤の何れもショルティ指揮ウィーンフィル盤(1959年~1966年録音)。「指環」を初めてスタジオで全曲録音したのがショルティで、そのときの盤なのだが、今でも全く古さを感じさせない超名演だ。DVDは全曲盤しかないし大分落ちるが、オーソドックスな演出で、レヴァイン指揮ニューヨーク・メト。

2009年5月19日 (火)

「指環」を続けて演奏する編曲版なんて要らない 続き

「『指環』を続けて演奏する編曲版なんて要らない」で、この曲はダメだと書いた。とくに、「ヴァルキューレ」の最終部の直後に「森のささやき」を続けてしまい、せっかくの感動的な場面の音楽を台なしにしてしまっていることが許せないと書いた。

もう1点、気に入らないことがある。編曲版のオリジナル(変な表現ですけど)では「ラインの黄金」が含まれているのに、N響定期ではカットして演奏されたこと。他の方のブログやウィキペディアなどを拝見すると、「ラインの黄金」からは4曲も!!ピックアップされているそうだ。それはないでしょう、ワールトさん・・・

「ラインの黄金」を欠いた演奏を残念に思っておられるブロガーは何人もおられるようだが、たとえば「蔵六の思いつ記」さんは
  「ラインの黄金やヴァルハラへの入城とか好きなんだけどなぁ」
    と書いておられるし、
パンダイルカ」さんは
   「東京フィルが取り上げた時とは構成が違うようです。N響の方はラインの黄金のトンテンカン♪がないので私としては寂しいですね」と書いておられる。

「蔵六の思いつ記」さんのブログはこちら
  http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/d3b64c79f88166daf19bc8d47e749091/b2「パンダイルカ」さんのブログはこちら
  http://panda-iruka.cocolog-nifty.com/pan_iru/2009/05/post-afd6.html 

私はそれ以上に、あの演奏では、「指環」の抜粋としても体をなしていいないということである。抜粋であっても、始まりがあって終わりがあるべきだ。あの演奏では、始まりがなくて終わりがある。

「ラインの黄金」で、ラインの乙女たちから指環が奪われ、ワルハラ城が建てられ、建築の手間賃(安っぽい表現ですけど)を巡るトラブルから指環に呪いがかけられる・・・こうして壮大なストーリーが開始され、長い長い紆余曲折のあと、「黄昏」の最終部で全てが「愛の力」で救われる。ストーリーと共に音楽的にも完結するわけである。

「黄金」で姿を見せたワルハラ城が、「黄昏」でブリュンヒルデの自己犠牲とともに燃え落ちてゆく場面の音楽を例にあげる。
「黄金」で壮麗に出ていた城の動機が、「黄昏」では、大音響の中、いったんは再び壮麗に登場するものの、次第に崩れてゆき、力を失なってゆく音楽として書かれている。城が業火の中で灰燼に帰してしまう様子が音楽だけで目に浮かぶ、圧倒的な部分であり、同時に聴き手はこれまでのストーリーを振り返り、全てが終わりを迎えたことを、ある種の名残惜しさとともに知ることとなる。

姿を見せなかった城が燃え、なぜか指環を返すと言う。これはダメなのではないか。

そもそも、抜粋の仕方も色々あるだろうに、なぜつなげてしまったのか。不可解でもある。部分ごとに切るとか、どれかひとつの楽劇をキッチリやるとか、そのような方法がこれまでも採られてきているのに。

ブリュンヒルデの自己犠牲の部分にソブラノを入れるのは元の版にはなく、エド・デ・ワールトの判断によるものだそうだ。この判断だけは良かったかも知れない。

2009年5月18日 (月)

「指環」を続けて演奏する編曲版なんて要らない

2009年5月17日のN響アワーで、「指環」をフリーハーという人が編曲した「指環--オーケストラル・アドベンチャー」なる曲が演奏された。

これは、4月4日にNHKホールでのエド・デ・ワールト指揮による第1644回N響定期のもの。BS2の「BSシンフォニーアワー」で放送されていて、そのときに既に聴いていた。実は、途中で嫌になって聴くのをやめようかと思った。思っているうちにウツラウツラし始めた。ところが、「神々の黄昏」の最後の部分になって、ブリュンヒルデの素晴しい声が入ってきて、パッと目を覚ました。スーザン・バロックによる歌唱である。余りにも素晴しかったので、曲全体に対する評価はいったん保留したのであった。

改めてN響アワーで聴き直したのだが、やはりこんな編曲は嫌だ。嫌というよも、率直に言って愚作と言うしかない。演奏する価値がないと考える。

そもそも、「指環」の聴き所なるものを続けて演奏すると、ある部分と次の部分の間の、演奏されない部分に思いを馳せて楽しむことが不可能となる。それぞれの部分で余韻を楽しみたいこともあるだろう。

また、連続して演奏することによって台なしになってしまう部分もある。
「ヴァルキューレ」の最終部は、神性を剥奪し無防備に眠らせた娘・ブリュンヒルデを、父が「恐れを知らない勇敢な男だけがこれを超えて来て、娘を花嫁とせよ」として、燃えさかる炎のバリアで囲んでゆき、別れを告げるという場面である。英雄・ジークフリートの動機が何度か鳴って「恐れを知らない勇敢な男」がやがて出現することを示すうちに、眠の動機が繰り返され、静かになってゆき、幕を閉じる。
「指環」の中で最も感動的な部分である。静かに終わるだけに、聴く側としては余韻も十二分に味わいたい処である。事実、全幕演奏される場合は、次の夜「ジークフリート」が始まるまで余韻は続くのであり、または「ヴァルキューレ」だけで終わってしまっても十分なのだ。

それを、この編曲版は、余韻を感じさせるどころか、流れるように「ジークフリート」の「森のささやき」につなげてしまっている。これでは台なしだ。最初BSシンフォニーアワーで聴いて、ここで嫌になったのだ。N響アワーで聴き直して、この部分がとくにダメだと確信した。

曲全体を通して、個々の部分は、それなりに聴けたり圧倒されたりする。しかし、それは元々原曲がスゴいためであり、とくに終曲は、今回の演奏で「これぞブリュンヒルデ!!」というソプラノに恵まれたためである。久しぶりにブリュンヒルデらしいブリュンヒルデの声が聴けた。

エド・デ・ワールトが1992年に初演したものだそうで、徐々に演奏する指揮者が増えている・・・とN響アワーのホームページに記載されていた。初演者だけに力を入れたいのだろうが、こんな編曲はダメだ。むしろ、部分部分をブッた斬って曲と曲の間に休みを取りながら演奏してゆく「組曲」のような形にすべきだった。

2009年5月 1日 (金)

ユジャ・ワンのデビューCD買いました

ショパンのソナタ2番とリストのソナタを両端に置き、間にリゲティ-スクリャビン-リゲティを配置した内容。異色の配置だと思うし、ショパンねリストも格別好きな曲ではないため、ちょっと買うのに迷いを生じたが、ユジャ・ワンのファンとなったと自称している以上、やはり買うことにした。

買ってよかった。この選曲と曲順はユジャ・ワンの考えに基づくのだそうだ。解説に英文で書いてあることを私なりに意訳・曲解して書くと、ロマン派の重ための2曲の間にやや前衛的なリゲティと、リゲティよりf穏健なスクリャビンを配置することにより、1枚を聴き通すときの流れを良くしたとのこと。確かに、1枚を聴き通すのに余り疲れを感じることはなかった。

ショパンの2番の第4楽章は、とりとめのない、前衛的と言っていい音楽だが、リゲティに続くことによって一層それが強調される。第3楽章の葬送行進曲の深い響きも素晴しい。

そしてリスト! アメリカでリストを取り上げたときの評の抜粋が解説書に載っているが、その言葉を借りると、「10本の指から、スペクトラム上の全ての色合いを奏で出している。」
私にとってこの曲は、いくつかの主題が、形を変えながらではあるが何度も何度も繰り返し出てくるのが少々鬱陶しいし、いつになったら終わるのかが見えづらくて余り好きではないのだが、ユジャ・ワンの手にかかるとその繰り返しについて、次々と異なる色彩感とテンポで(ある部分では殆ど止まっていまいそうな処も・・・)登場してゆくので、決して単調にならない。この曲を割と楽んで聴けたのは珍しい。これは繰り返して聴くことによって好きになれる曲かも知れないと感じさせてくれた。

今後どんなペースで、どんな曲がリリースされてゆくのか楽しみだ。

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