カテゴリー「鉄道」の記事

2014年4月23日 (水)

筆記具放浪記 (10) シャープはシャープ

シャープペンシルという筆記具の名前は、すっかり一般名詞となっている。シャーペンと略して呼ばれることも多い。

しかし、これは元々、家電メーカーのシャープが初めて世に送り出したものなのだ。

シャープの創業者である早川徳次が、金具職人として親方から独立したあと、ベルトのバックルの発明を経て、次に出した発明品を、「早川式繰り出し鉛筆」、別名「エバーレディ・シャープペンシル」と名付けて世に出したのが始まり。
「繰り出し」とは、今で言う「ツイスト式」であって、海外ブランドのシャープペンシルでは現在もツイスト式が多い・・・ノック式だったものがツイスト式に変わった例もある・・・ことから、言わば「先祖返り」したことになる。

シャープペンシルの事業が順調に業績を伸ばしつつあったとき、関東大震災に遭遇。東京にあった会社は、現在本社のある大阪市に移転。
負債を返却するための資金調達の一環として、シャープペンシルの特許と事業を、「日本文具」という会社に売却した。

新たに再スタートをした早川は、日本初の鉱石ラジオ発売を経て、真空管ラジオを「シャープダイン」の愛称で発売。
以後、社名は早川電機、ブランド名をシャープとして、家電メーカーとして成長して行く。

家電から総合エレクトロニクスメーカーへと事業を拡大していく際、社名をブランド名に合わせて「シャープ」としたわけです。
この社名変更からほどなく、液晶電卓から始まる液晶事業を手がけ、長い道のりを経て液晶テレビ「アクオス」に結実して行きます。

もしシャープペンシルの事業を売却していなかったら、エレクトロニクスメーカーのシャープは存在せず、文具メーカーの一角を占めたかも知れません。
また、シャープがエレクトロニクスメーカーとして事業拡大を志向し、液晶を手がけなかったら、薄型テレビの普及はおろか、地デジ化なども、遙かに遅れたものと思います。

さて、そんな、シャープの原点と言えるシャープペンシル。実は復刻生産されているのです。元々社内用として、来訪者に対する話題作りも兼ねたノベリティグッズとして限定生産されたもののようですが、プラチナから発売されています。

ちなみに、東京メトロの元となった「東京地下鉄道」の創業者は、同姓同名の「早川徳次」!
厳密には、シャープの方は「とくじ」と読み、地下鉄の方は「のりつぐ」と読むそうで、同姓同名というのは当たらないのでしょうが、同じ名前の人が、何れも創業者精神溢れた、野武士的な人物であり、その創った会社が現在まで残っているというのが凄いですね。

もうひとつちなみに・・・。

シャープからシャーペンの事業を受け継いだ「日本文具」。
つい最近まで私は、「大日本文具」だとばかり思っていました。

大日本文具とは、現在のぺんてるです。
シャーペン、またシャーペンの替え芯が素晴らしく、私は永年愛用しています。

しかし。どうも違うようです。どう調べても日本文具と日本文具の関係が浮かび挙がってこない。日本文具はほどなく事業清算している。また、ぺんてるとシャープのホームページに掲載されている会社の沿革を見ても、何の関係もないようです。
ありふれた社名とも言えるが、似すぎといえば似すぎています。だから「日本文具」が「大日本文具」として発展したのではないかという仮説を、完全には否定できない気持ちはあるのですが、ここは一旦検証を断念し、「関係ない」ということとしたいと思います。
(これ、どこかに、似たような説明の仕方がありましたね・・・)

2011年5月 8日 (日)

阪急電車 (7)

(前稿からの続き)

さて、阪急電車と阪神電車か長い間ライバル意識が強いとされてきていた。そもそも先行開業していた「阪神電車」に対抗して「阪神急行電鉄」と名付けたのが「阪急」と称されるようになったわけで、「ウチは阪神より速い」とは、喧嘩を売っているのと同じだ。

戦前戦中期、軍の要請もあり東西で色々な私鉄の統合、国鉄への吸収などが行われ、阪神と阪急も一旦交渉のテーブルには着いたのだが、遂に合併には至らず、それでも今津駅で阪急今津線と阪神電車が直通できるよう、連絡線は設置。
それでも、その痕跡は、少なくとも1960年代までは残っていた。

状況が大きく変ったのは、2005年のことである。
村上ファンドが突如阪神電鉄の筆頭株主となったことを公表し、阪神タイガーズの株式上場や、京阪電車との経営統合などを株主提案するに至った。
京阪電車との統合は、JR、阪急電車と並んで、もう1本の神戸~大阪~、京都の路線を構築し、競争してゆく中でシッカリした経営体制を築く目的がある。村上ファンドの手法に問題はあっても、経営の観点からはスジの通ったものであった。

しかし、阪神タイガーズファンをはじめ、経営陣・株主・沿線住民の反発が強く、経営陣は京阪以外の私鉄に合併を打診。

一案として、近鉄にも打診したことがあったはずだ。2009年3月には阪神が難波まで延伸し、近鉄と相互直通運転を行うことになっていたから、これも経営の観点からはスジが通っている。

紆余曲折の結果、阪急が「ホワイトナイト」として名乗りを挙げることとなり、村上ファンドの持ち株も含めてTOBを実施。「阪急HD」が筆頭株主となり、その元で阪急と阪神が統合されることとなった。
これには驚いた。阪急と阪神がライバル意識が強い・・・ということは両方の沿線住民の間では結構知られた話だったので、驚いたのは私だけではなかったはずだ。
戦争中、軍の力でもできなかった両者の経営統合が、1人の乗っ取り屋の力で可能になったのだから、一層驚いた。

そして思ったのは、今津駅における連絡線が残っていたら・・・ということである。
阪神の今津駅も阪急の今津駅も高架化されたが、かつてのように阪急の今津駅が阪神の今津駅に寄り添った形ではなく、完全に離れた駅となってしまった。
その気になれば延長部を作れるほどの短い距離なのだが、コストに見合うだけの効果を上げるのは、もはや難しいと判断しているのだろう。

しかし、もし今津駅の連絡線が残っていて、尚かつ西宮北口の今津線の南北分断がなければ、阪神沿線から宝塚方面に直通する電車の運行も可能となったわけである。
さらに言うと、難波で近鉄と阪神の相互乗り入れが2009年に始まったとき、近鉄難波発、阪神尼崎、阪神今津経由、阪急宝塚行き、などという電車の運行もできたかも知れない。

さて、鉄道ファンを自認している私だが、カメラを常に持ち歩く習慣はない。とくに学生時代ともなれば、そもそもカメラだけでなくフィルムも高価なもので、カシャカシャ撮りまくる金銭的余裕などない。
それで残念に思っているのは、ここまでに述べてきた各路線の痕跡や当時の状況をカメラに収めたものが殆どないことである。

阪急西宮北口の平面交差の写真だけは残しているので、将来ご紹介する機会もあるが、今津駅のおける連絡線の痕跡、阪神武庫川駅から北に延びて国鉄まで繋がっていた路線跡など、何れも目にはハッキリ焼き付いているのだが、お見せできるものがない。

さらに言うと、近鉄難波発、京阪三条行きという電車が1970年代まであり、京阪三条駅に近鉄の電車が停まっている光景も覚えている。京阪と近鉄の丹波橋で相互乗り入れが行われていたためだ。これも軍の意向で接続線を作ったのが始まりらしい。
その連絡線の痕跡も、かなり後まで残っていたのだが、京阪三条駅に近鉄電車が停まっている情景とともに、カメラに収めたものはない。

せめて、僅かに残っている古い情景を、折を見て「題名のない鉄道館」にアップする予定で、その中に「鉄道と情景の記録」のコーナーを設けたのだが、中々作業ができないでいる。

2011年5月 6日 (金)

阪急電車 (6)

(前稿からの続き)

戦前から戦中にかけて、軍の意向や要請により、軍の関係する工場への従業員や貨物の輸送の便を図るため、軍用の新線建設や、既成の路線の合併や統合が進められた。

東京では、東京横浜電鉄が核となって小田急電鉄、京王電気軌道、京浜電気鉄道を合併し東京急行電鉄となった。現在の東急に対し、この当時の名称を「大東急」と呼ぶ。また、2つの経営母体に分かれていた地下鉄が「帝都高速度交通営団」(営団地下鉄)として纏まった。

関西方面では、大阪と奈良を結ぶ路線を中心に発展していた大阪電気軌道(大軌)が中心に関係会社としての路線を合併し「関西急行電鉄」(関急)となり、さらに現在の南海電鉄をも吸収し、「近畿日本鉄道」となったのが代表例で、その他、現在の阪急電鉄が、京阪電鉄を合併して「阪神急行電鉄」から「京阪神急行電鉄」となったり、南海電鉄が「山手線」として建設していた天王寺~和歌山の路線が国有化され現在の阪和線になったりもした。
ちなみに、阪急電鉄は、戦後解体する際、京阪電鉄が淀川右岸に「新京阪電鉄」という子会社に建設させてた「新京阪線」を取得。現在の京都線としている。大阪、神戸、宝塚エリアの路線網から京都エリアに拡大したわけで、戦後も長い間、「京阪神急行電鉄」が正式名称であった。

こんな情勢なので、当然、阪神と阪急に対しても、経営統合の要請があったのだか、結局不調に終り戦後に至るのである。軍の力をもってしても、統合がならなかったというのがスゴイ。

その代わりと言ってよいのかどうか、今津駅には、阪急と阪神を結ぶ線路が設置された。
しかし、戦後すぐにこの連絡線は切断されてしまった。

ちなみに、この西宮近辺では、武庫郡鳴尾村にあった川西航空機(現在の新明和工業)への輸送のため、阪神の武庫川駅から客貨両用の路線を建設。さらに国鉄と結ぶために(軌間が異なるため)阪神武庫川駅から武庫川岸を北上し甲子園口を経て西宮駅まで、三線化もされた。
この、阪神武庫川から南下して建設された路線が、現在の阪神武庫川線である。

阪急今津線の仁川近くにも川西航空機の宝塚製作所があり、先に述べた阪神今津での接続線も、それと関係したものであろう。

(この稿さらに続く)

2011年5月 4日 (水)

阪急電車 (5)

(前稿からの続き)

もともと、西宮北口駅に今津線と神戸線の直角平面交差があったのは、今津線の建設当時の土木技術が未熟だったためか、または予算の関係で見送ったと思われるわけだが、神戸線のホーム延伸によって今津線が南北に分断されることとなった。
そのとき、少なくとも最初の頃は、今津線を高架化して神戸線をまたぐ構造にすると表明していたような記憶がある。

昨年2010年は行く機会がなかったが、一昨年の2009年、阪神大震災の後に西宮北口駅のそばにできた兵庫県立芸術文化センターに、コンサートを聴きに何度か通ったことがあり、そのとき、久しぶりに今津線(南線)と西宮北口駅を利用した。
まだ工事が続いていて、駅の構造自体も高架化されていること、そして神戸線の線路とホームは地平のままであることを知った。

しかし、今津南線は、既に今津駅から次の阪神国道駅までが高架化され、阪神国道駅から次の西宮北口駅までが高架化工事の途中であった。
こんな光景を見ると、「ひょっとして、やはり南北を高架で直結するつもりなのか?」と思いたくもなるものだ。

そこで、本稿を書くために、コンサートに行く機会はないため、最近の状況をネット等で調べたら、何と!南線は高架化が完了して駅の2階にホームも設置されたのに、北線は、地平のままなのである。
それでもまだ、北線を高架化させて南線と直結する方針は残っているのかも知れないが、北線で2つ宝塚よりの「甲東園」の近くには山陽新幹線の高架があり、そこをどう通すかという課題があり、中々難しいのかも知れない。しかし、間に1駅あるのだから、新幹線の上をさらに高架で超えること自体、技術的には何とかなるのではないか。費用のことを考えると、とてもそんなことに投資はできないと言うことなのだろうか。

このまま今津線が南北に分断されたままとなるのは、何とも残念なことである。

残念と言えば、今津線(南線)には、もう1点、残念でならないことがある。

阪神の今津駅も、阪急の今津駅も、現在は何れも高架化されたのだが、少し離れた処に位置しているのである。歩く処には屋根があって繋がっているので、雨などの心配はないのだが、少し離れているので、乗り換えは面倒だ。

しかし、かつて阪神と阪急の今津駅は、何れも地平にあり、寄りそうように設置されていた。
南に向かって進んできた今津線が、阪神の今津駅の寸前、直角に近い角度で東に向きを変え、阪神の今津駅のすぐ北側に設置されたホームに到着していた。
そのホームは、薄い板1枚だけ隔てて、阪神電車の大阪方面行きのホームに繋がっていた。
いや、正確に言うと、1つのプラットホームを横方向に1枚の板で分割し、北側を今津線、南側を阪神の大阪方面行きが使うという形だったのである。

どちらも地平にあった当時、もともと阪急と阪神はライバル意識が強いこともあってか、乗り換えには一度改札を出る必要があった。

しかし、ライバル意識があったのに、なぜか、今津線の線路の先が、明らかに阪神電車の大阪方面行きの線路に繋がっていた跡があったのである。

(この稿さらに続く)

2011年5月 2日 (月)

阪急電車 (4)

(前稿からの続き)

1984年に、神戸線の輸送力増強のため西宮北口を境に南北に分割されてしまった阪急今津線。
小説がヒットし映画化もされた「阪急電車」は、西宮北口よりも北(宝塚方)の路線を舞台にしているので、路線名にある「今津」が出てこないのに、ここが「今津線」だと言っていて、おかしなことになっている。
まあ、映画はまだ見ていないので、映画では修正されているのかも知れないが。

阪急電車の今津駅近くに住んでいた私としては、よく使ったし思い入れもある路線である。今津から宝塚方面に直結していることこそ、今津線の付加価値だと信じてやまなかった。それもあって、南北分断は、西宮北口駅の工事が終ったら、そのうち解消するものと思っていた。

それは、必ずしも私が勝手に思い込んでいたと言うことだけではない。阪急もそのつもりだったのではないかと想像させる1つの証拠として、本稿執筆時点の2011年4月に至るまで、西宮北口駅から北の部分を「今津北線」、南側を「今津南線」と称し、「北」とか「南」の文字こそ入ってはいるが、「今津線」という呼称を残していることである。

1984年と言うと、本稿執筆時点で27年前のことになる。そのときなりの事情があって今津線の南北分断が実施されたことを知らない人も増えてきているはずだ。
「今津線」に乗る人の中に、「何で今津に行かないのに「今津線」と称しているのか」と疑問に思う人も増えているだろう。
「今津南線」に乗る人は、今津が終点になっているからさほど疑問に思わないかも知れないが、路線図をよくよく見ると「何で西宮北口から宝塚に向かう線が、今津北線で、こちらは今津南線と書いてあるのか?」と思う人もいるのではないか。鉄道ファンしか関心がないことかも知れないが、周りの鉄道ファンでも、若い世代の人であれば、必ずしも四半世紀以上昔!のことを知っているわけではない。

何で、南北に分断した後も、北とか南とか言う文字を加えてまで、「今津線」を名乗らせているのか。
実情に合せるのであれば、「今津線」の名称は、西宮北口から今津に至る路線にだけ継承させていれば良く、西宮北口から宝塚に至る無線は「西宝線」とでも改称すべきものである。
この「西宝線」という名称は、この線の建設当初、宝塚から西宮北口まで開通し、今津には達していなかった時点で使われた路線名だ。

東京で、元の路線名に戻った例として、東急の大井町線という路線がある。
戦後、多摩田園都市の開発に伴って路線名を「田園都市線」と変えた。
処が、二子玉川から都心に向かう線として、路面電車であった「玉川線」の代替手段として建設されることになった路線が、営団地下鉄(現在の東京メトロ)の半蔵門線との直通をも視野に入れた地下高速線として建設されることとなり、渋谷まで開通した時点では「新玉川線」と称した。しかし、やがて多摩田園都市沿線から渋谷まで「新玉川線」を経由する列車でメインとなり、渋谷に直通する路線に「田園都市線」の名称を譲り、二子玉川から大井町に行く線は、元の「大井町線」に戻った。

こんな例もあるので、実情に合せるならば「今津北線」は、建設当初の「西宝線」に戻し、「今津南線」だけを「今津線」と称するようにすべきだと思っていて、なのに何時までもそれぞれを「今津北線」「今津南線」としているのは、何れ、南北を再度直結するつもりなのだろうと思っていたわけである。

そして、現に、そう考えていたフシがあるのだ。

(この稿さらに続く)

2011年4月30日 (土)

阪急電車 (3)

(前稿からの続き)

1984年、それまで存在していた西宮北口の「今津線」と「神戸線」の平面交差が、神戸線の輸送力増強のあおりを受けて、今津線が南北に分断されてしまったのだが、その内、工事が終った段階にでも、再度南北が繋がり、「今津発宝塚行き」という直通列車が通るものと期待していた。

当時は既に住んでいなかったが、会社勤めを始める前、私は今津線の今津駅近辺に永年住んでいて、思い入れのある路線だったためである。

「今津線の今津」と書いた。
「阪神電車の今津」と同じなのだが、敢えて「今津線の今津」と書いたのは、阪神間に住む、特に阪急沿線に住む人なら分かる人が現在でも多いと思うが、沿線のヒエラルキー感というものがあるためである。

阪神間には、北から、阪急神戸線、国鉄(現在のJR)、阪神国道線(1975年5月5日、全線廃止。このときの情景は「題名のない鉄道館」の「鉄道と情景の記録」に「阪神国道電車最後の日」として掲載)、そして阪神電車が並行して走っている。
そして、どの沿線に住んでいるか、ということがヒエラルキー感として存在し、高いと見なされる順に、阪急沿線、国道沿線、阪神沿線の順となっていた。
阪急神戸沿線は、高級住宅街、阪神沿線は工業・商業地帯。国鉄はその中間。
東京で言う「山の手」と「下町」の対比に近いと言えば、何となく理解頂けるだろうか。

もちろん、こんな雰囲気というか感覚は、主として阪急沿線の住民によるもののはずだ。差別と言ってもいいだろうが、それではキツイので、ここでは「ヒエラルキー感」と称した。当時は、そんなことには無頓着で住んでいる沿線の自慢をし合っていたものだ。まあ、タワイナイものである。

そこで「今津」というのが微妙な存在で、運転本数も輸送力も明らかに阪神電車の方が多いのだが、阪急今津線の沿線でもあるから、阪神電車より北側に住んでいた身としては、「阪急沿線」と言いたいわけだ。

思い入れが深い理由は、そんなヒエラルキー感によるものだけではない。現実によく使っていた路線でもあった。
日常的に、より頻度高く世話になっていたのは阪神電車なのだが、休日に神戸方面に行ったりするときは、敢えて阪急の今津線で西宮北口まで行き、神戸線に乗り換えて行ったものである。これは、阪急の方がスピードが速かったのと、沿線風景が楽しみだったこと、そして神戸線の乗客にはエエトコノ女学生がよく乗っていたたけでもある。
また、大学時代、京都に通ったが、同様に西宮北口まで出て、神戸線の梅田(大阪)行きに乗り換え、というルートを辿った。

そして、宝塚に行くとき、今津からの電車にそのまま乗って行けば良かった。宝塚歌劇というものには当時も現在も全く興味がないが、宝塚駅周辺の雰囲気が好きだったし、「宝塚ファミリーランド」というものがあり、家族連れで、またはデートなどで楽しんだものである。
西宮北口から2つ北の「甲東園」には永く家庭教師に行っていたし、「甲東園」と西宮北口の間の「門戸厄神」は、神戸女学院があり、男子校に通っていた者としては、憧れの地でもあった。

だから、今津線は、西宮北口を越えてそのまま北に向かって利用したことも多かったし、西宮北口から東の大阪方面、西の神戸方面ともによく利用したものである。
今津駅で今津線に乗るとき、「宝塚行き」と表示されていることが、どれほど夢をかき立ててくれたか、測り知れない。

それが南北に分断されてしまったわけだが、駅の改良工事が終れば、やがて南北の直通が復活するのではないか、いや、復活させてくれるのではないか、と漠然と期待もしていた。

それは、決して一方的な思い込みで期待していたわけではない。
阪急が、期待させるように仕向けていたと言って良い。いや、現在でもそれは続いている。

(この稿さらに続く)

2011年4月28日 (木)

阪急電車 (2)

(前稿からの続き)

映画「阪急電車」の舞台となっているのは、阪急の今津線である。
この本のストーリーはメチャメチャ面白いし、心温まる物語であり、従って文句を言う筋合いはないし、映画も面白いものになったのかと思うが、どうも「今津線」をもって阪急電車の代名詞とするのは、沿線に住んでいた私としては抵抗がある、と言ったことを書いてきた。

シックリこないことをもう1点挙げると、この本を紹介した2010年9月22日付の記事にも書いた通り、舞台となっている線は「今津線」と称しながら、現実は「今津」に達していないからである。

その記事にも書いた通り、西宮北口駅では、昔、今津線と神戸線が複線同士がほぼ直角に平面交差していた。運転上のネックにはなっていたが、鉄道ファンにとっては、光景と言い、クロスで鳴る音と言い、たまらない魅力のある「名所」だった。
今津線は、宝塚から下りてきて西宮北口に到達したあと、平面交差によって神戸線を乗り越え、今津に達した。だから「今津線」と称するのである。

東京の東武鉄道の「東上線」のように、「東京」と「上州」を結ぶべく計画され、「上州」には到達しなかったのにそのまま「東上線」と称しているように、計画時に目標としていた地点に、結果としては到達しなかったのに、目標地点の名前をそのまま使っている例は色々あるが、それとは事情が違う。
今津に到達したので「今津線」となったのであって、宝塚と西宮北口間だけのときは、「西宝線」と称した。

宝塚から下りてきた線を今津まで延伸したのは、阪神電車の今津駅と隣接させた駅を設置し、阪神圏の乗客を阪急沿線に取り込もうとしたためである。
しかし、西宮北口から延伸するにあたり、当時の土木技術の水準が至らなかったためか、まだまだ電車の運行本数が少なかったのでさほど支障はないと判断したのか、立体交差でなく平面交差を選択してしまった。

これが、戦後の高度経済成長期に入り、輸送力の増強が喫緊の課題となるにつれ、とくに神戸線の運行本数増強によって、大きな問題となってくる。神戸線を優先させるため、今津線の列車が、今津行は西宮北口駅に停車しまま、また今津発宝塚行きは駅の南側の、平面交差の手前で停車し続けねばならず、大きな、待ち時間のロスが生じるようになる。

そして、遂に神戸線の列車の長編成化が行われることとなり、ホームの延伸に伴って、今津線との平面交差部の敷地を使うこととなり、西宮北口を境に、今津線は南北に分断されてしまうこととなった。
1984年のことである。
神戸線は線路の数が多いし、運行の支障が大きくなるので高架化は困難だったし、今津線の高架化は、西宮北口から2駅北の「甲東園」付近に山陽新幹線の高架が通っているため、その上を高価でまたぐ必要があったが、余りにも大工事となるので断念したらしい。

それでも、駅の工事が終了した後は、何らかの形でもう一度、「今津発宝塚行き」という直通電車を走らせてくれるのではないか、と漠然と思っていたのである。

(この稿さらに続く)

2011年4月26日 (火)

阪急電車 (1) 関テレが盛んに宣伝していた理由

有川浩著による「阪急電車」が映画化され、本記事執筆時点の2011年4月23日、関西で先行公開された。

原作本については既に2010年9月22日付けの記事でお薦め度★★★★★として紹介していて、このブログの右サイドにもお奨め本として掲示している。

そこでも触れているが、意外な本がヒットするものだと思ったし、まさか映画化されるとは想像もしなかった。
舞台となっている線が、今津線と言って、阪急ファンか、沿線近くに住んでいる人でないと、必ずしも馴染み深い線ではないと思うからである。

事実、関西テレビで朝放送している「よーいドン」という番組で、「となりの人間国宝さん」を探して歩くコーナーで、2011年4月21日(木)と22日(金)の2回に分けて、この線の小林駅周辺を歩いていたが、歩いていた月亭八光が、この線を舞台にした映画があり、公開が迫っているということを知らなかった。大阪に生れ育った彼にしてからがその通りなのである。

これは、彼がモノを知らないというより、その程度にしか認識されていない線だと解釈する。
何しろ、阪急電鉄には「本線」の扱いとされている線があり、それは「神戸本線」「宝塚本線」「京都本線」の3線で、今津線は支線の扱いなのである。

また、3線ある「本線」の中では、「神戸本線」が最も阪急の「顔」となる線で、次いでは宝塚歌劇で有名な宝塚が終点となっている「宝塚本線」ということになる。

宝塚本線」は、この鉄道発祥の線であり、箕面と有馬という、大阪や神戸に近い温泉地を結ぶべく「箕面有馬電気軌道」として始まった。だが、宝塚まで到達した時点で、その先の建設を断念し・・・多分、費用が掛かりすぎると考えられたためだと推察・・・宝塚までとした。

「神戸本線」は、先に開通していた阪神電鉄よりも高速に走ることをアピールすべく社名を「阪神急行電鉄」と称することとなったキッカケを作った線である。「阪神急行電鉄」を略して「阪急」と呼ばれるようになり、最近になって社名も「阪急電鉄」となったわけだ。

ところで、先に挙げた「よーいドン」に限らず、なぜか関西テレビで、というか関西テレビだけで、この映画の宣伝を盛んにやっていた。
初めは他の曲でもやっているように思っていたが、すぐに関西テレビだけが宣伝していることに気が付いた。
理由はすぐに分かった。

関西テレビの大株主・・・第2位・・・が、阪急なのである。正確には阪急阪神ホールディングス。

(この稿続く)

2010年11月30日 (火)

なぜ京都は市電を廃止したのか

昨日だったか一昨日だったかのニュースによると、京都市営地下鉄が赤字続きだそうである。

ふと思ったのだが、市電が残っていたらどうなっていたか。

大都市たるもの、地下鉄を持つべきだ、という論調が圧倒的だった頃があった。ちょうどモータリゼーションの波が押し寄せ始めていた頃と一致するはずだ。京都だけを例にとっても、やはり市電の類は赤字続きだった。市電なんか走らせても、クルマで移動する人が増えて行くので、赤字の解消など望むべまもなく、むしろ拡大するだろう、という予測も立てられた。

また、路面のかなりの部分を専有している市電は、クルマの走行の邪魔にもなる。だから廃止して、大都市たるべく地下鉄を建設せい、ということになった。
それでも当初は市電廃止反対を唱える人たちの力もあって、市域の周囲を回る路線だけは残そうという方向となったのだが、それもいつか沙汰止みになって、全路線が廃止され、代替手段として地下鉄が建設されることとなったのである。

今さら言っても詮ないが、なぜ「残す」という勇気ある決断ができなかったのか。本当に「大都市は地下鉄を持つべし」というのは正しかったのだろうか。

ホームページ「題名のない鉄道館」内の「鉄道と情景の記録」に「阪神国道電車最後の日」を掲載している。
私はその阪神国道電車の路線の近くで中学・高校時代を過ごし、大学には京都市電で通い、会社勤めをするようになってから暫くして東京に転勤となったときは都電荒川線の近くに居を構え、広島に転勤になってからは広電(広島電鉄)で市内をあちこち回って過ごした。

また、現在住んでいる奈良の近鉄奈良駅は、かつて路上にあり、その路面電車時代に乗ったこともある。さらに言うと、東京の親戚は小田急の豪徳寺だが、その駅は現在の東急世田谷線の山下停留所との乗り換え駅だ。

住んだ所の関係などで路面電車の類に色々と接してきた経験から言えることは、路面電車というものは、残そうという意志があれば残すことができた、ということである。現在残っている路面電車も嘗ては色々と経営中の課題もあっただろうと想像するが、今となっては世界各地で路面電車を再評価する動きもあり、残っていること自体が立派な観光資源ともなり得て、きっちりと黒字経営ができるようになったはずである。

テレビ朝日系で毎週土曜日に放送している「土曜ワイド劇場」で、2010年11月27日、「西村京太郎サスペンス」として函館を舞台にした内容が放送された。函館の観光資源が数ある中で、市内を走る函館市電の映像が実にピッタリで、市電も観光資源の一役を果たしていると、つくづく思った。

もし京都に市電が残っていたら、函館以上に素晴しい観光資源となったはずだ。函館よりも規模の大きな都市に路面電車が残っているということ自体が、観光都市京都の価値をさらに高めることとなったはずだ。

京都市電は市内のあらゆるメインストリートを通っていたので、当然四条通の路線もあった。7月には祇園祭があって山鉾巡行の日には四条通を練り歩く山や鉾の邪魔になるからということで、市電を一時運行停止とし、架線を道路の脇に除ける対応が採られていた。山や鉾の中には、架線より高いものが多かったためである。

そんな工事も、祇園祭と関連する観光資源たり得たのではないか。

尚、京都には京福電鉄嵐山線が、路面電車として残っている。四条大宮と北野白梅町から嵐山に向かう路線だが、かつて、北野白梅町では市電との連絡線があり、相互乗り入れが可能だった。それが残っていたら、市内各所と嵐山を結ぶ臨時電車などを運行することにより、観光路線としての価値も、現在よりもさらに高いものとなったはずである。

ちょっとだけ乗って、気が向いた所で降りることができること、駅または停留所にアプローチするのに階段を上ったり下りたりする必要がないこと、など路面電車のメリットは、地下鉄の高速性のメリットを凌いで余りあるのだ。

どうしてあの頃、みんなそのことに気が付かなかったのだろう。なぜ反対派の主張が無視されたのだろう。不思議と言えば不思議なことだ。

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