カテゴリー「旅行・地域」の記事

2011年5月20日 (金)

「西日本が頑張ろう」と言うのは火事場泥棒か?

直接そのときの会見を見聞したわけではないが、他のテレビ番組で採り上げられていたので知ったのだが、ある関西方面の知事が、「東日本が苦しんでいるときに、西日本が頑張ろうと言うのは、火事場泥棒になる」と発言したそうな。

その放送があったのは4月中旬のこと。この記事がアップされる5月20日の、一ヶ月以上前のことになる。
実は、このことを書くべきかどうか迷っていたのである。
余りにも情けない発言だから。

しかし、熟慮の末、書いておくことにした。

その番組では、その発言について、罵詈雑言に近い批判をパネラー全員が浴びせていた。
その番組での批判を例に引くまでもなく、この発言は2つの点で大きく誤っている。

1点目は、「火事場泥棒」という言葉の使い方が間違っていること。
新明解国語辞典によると、火事場泥棒とは、火事場の混雑につけこむ泥棒、または転じて、混雑・混乱につけこんで利益を得る人の意・・・ということである。
もし、下線部だけの意味で使ったのだとしたら分からないでもないが、少なくとも「泥棒」という語が含まれているのだから、良い意味で使うことは皆無だろう。「つけこんで」というのも、良い意味のわけがない。

2点目は、東日本が苦しんでいる時だからこそ、西日本が頑張らないと、日本経済全体が大変なことになる、ということである。日本経済全体が大変なことになってしまえば、援助・支援そのものが成り立たなくなってしまう。
現に、震災の直後あたりから一時全国的な「自粛」ムードが溢れかえったが、比較的早い頃、当の被災地から、「他の処は、過剰な自粛をやめてもらいたい」との発言も届くようになった。

私は、今回の一時の「自粛」ムードは、単に「自粛」という言葉だけでくくり切れるものではないと思っている。
「余りの衝撃に、何もする気にならない」という意味合いが含まれているはずだ。
私がこのブログを暫く休載したことと並べて挙げるのは恐縮だが、雑誌などで連載エッセイなどを書いている多くの作家が、同様に、一時何も手につかなかったということを書いていた。それでも、やはり書くしかない、ということで休載した人はいなかった。この辺りがプロであり、プロの精神力の強さを示すものと、感銘を受けた。

さて、この知事は、どういうわけか、関西の各府県の知事が設立した「関西広域連合」に加入することを拒んでいる。
これがまた理解し難い。加入しないという合理的な説明を聞いたこともない。
関西広域連合は、震災直後、各府県がずっとフォローしてゆく「震災県」を決め、各府県営の住宅から、即時提供可能な空き住宅戸数を公表した。
加入していないため、これに関する表明は、1タイミングどころか、2タイミングも3タイミングも遅れてしまった。

今回のような災害は特別のことだが、災害とは関係なくとも、広域で協議すべき課題は多いはずだ。広域でなくても何とか完結可能なのは、2つの「府」だけだろう。
医療にしても、福祉にしても、教育にしても、既に単独ではまかなえない状況に陥っていることは、少しでも県政に関心のある人であれば、周知の事実だ。
「広域」などという、地方自治の拡大を目指すように見えるものに参加したら、出身官庁に義理が立たないとでも思っているのだろうか。

2011年4月30日 (土)

阪急電車 (3)

(前稿からの続き)

1984年、それまで存在していた西宮北口の「今津線」と「神戸線」の平面交差が、神戸線の輸送力増強のあおりを受けて、今津線が南北に分断されてしまったのだが、その内、工事が終った段階にでも、再度南北が繋がり、「今津発宝塚行き」という直通列車が通るものと期待していた。

当時は既に住んでいなかったが、会社勤めを始める前、私は今津線の今津駅近辺に永年住んでいて、思い入れのある路線だったためである。

「今津線の今津」と書いた。
「阪神電車の今津」と同じなのだが、敢えて「今津線の今津」と書いたのは、阪神間に住む、特に阪急沿線に住む人なら分かる人が現在でも多いと思うが、沿線のヒエラルキー感というものがあるためである。

阪神間には、北から、阪急神戸線、国鉄(現在のJR)、阪神国道線(1975年5月5日、全線廃止。このときの情景は「題名のない鉄道館」の「鉄道と情景の記録」に「阪神国道電車最後の日」として掲載)、そして阪神電車が並行して走っている。
そして、どの沿線に住んでいるか、ということがヒエラルキー感として存在し、高いと見なされる順に、阪急沿線、国道沿線、阪神沿線の順となっていた。
阪急神戸沿線は、高級住宅街、阪神沿線は工業・商業地帯。国鉄はその中間。
東京で言う「山の手」と「下町」の対比に近いと言えば、何となく理解頂けるだろうか。

もちろん、こんな雰囲気というか感覚は、主として阪急沿線の住民によるもののはずだ。差別と言ってもいいだろうが、それではキツイので、ここでは「ヒエラルキー感」と称した。当時は、そんなことには無頓着で住んでいる沿線の自慢をし合っていたものだ。まあ、タワイナイものである。

そこで「今津」というのが微妙な存在で、運転本数も輸送力も明らかに阪神電車の方が多いのだが、阪急今津線の沿線でもあるから、阪神電車より北側に住んでいた身としては、「阪急沿線」と言いたいわけだ。

思い入れが深い理由は、そんなヒエラルキー感によるものだけではない。現実によく使っていた路線でもあった。
日常的に、より頻度高く世話になっていたのは阪神電車なのだが、休日に神戸方面に行ったりするときは、敢えて阪急の今津線で西宮北口まで行き、神戸線に乗り換えて行ったものである。これは、阪急の方がスピードが速かったのと、沿線風景が楽しみだったこと、そして神戸線の乗客にはエエトコノ女学生がよく乗っていたたけでもある。
また、大学時代、京都に通ったが、同様に西宮北口まで出て、神戸線の梅田(大阪)行きに乗り換え、というルートを辿った。

そして、宝塚に行くとき、今津からの電車にそのまま乗って行けば良かった。宝塚歌劇というものには当時も現在も全く興味がないが、宝塚駅周辺の雰囲気が好きだったし、「宝塚ファミリーランド」というものがあり、家族連れで、またはデートなどで楽しんだものである。
西宮北口から2つ北の「甲東園」には永く家庭教師に行っていたし、「甲東園」と西宮北口の間の「門戸厄神」は、神戸女学院があり、男子校に通っていた者としては、憧れの地でもあった。

だから、今津線は、西宮北口を越えてそのまま北に向かって利用したことも多かったし、西宮北口から東の大阪方面、西の神戸方面ともによく利用したものである。
今津駅で今津線に乗るとき、「宝塚行き」と表示されていることが、どれほど夢をかき立ててくれたか、測り知れない。

それが南北に分断されてしまったわけだが、駅の改良工事が終れば、やがて南北の直通が復活するのではないか、いや、復活させてくれるのではないか、と漠然と期待もしていた。

それは、決して一方的な思い込みで期待していたわけではない。
阪急が、期待させるように仕向けていたと言って良い。いや、現在でもそれは続いている。

(この稿さらに続く)

2011年4月28日 (木)

阪急電車 (2)

(前稿からの続き)

映画「阪急電車」の舞台となっているのは、阪急の今津線である。
この本のストーリーはメチャメチャ面白いし、心温まる物語であり、従って文句を言う筋合いはないし、映画も面白いものになったのかと思うが、どうも「今津線」をもって阪急電車の代名詞とするのは、沿線に住んでいた私としては抵抗がある、と言ったことを書いてきた。

シックリこないことをもう1点挙げると、この本を紹介した2010年9月22日付の記事にも書いた通り、舞台となっている線は「今津線」と称しながら、現実は「今津」に達していないからである。

その記事にも書いた通り、西宮北口駅では、昔、今津線と神戸線が複線同士がほぼ直角に平面交差していた。運転上のネックにはなっていたが、鉄道ファンにとっては、光景と言い、クロスで鳴る音と言い、たまらない魅力のある「名所」だった。
今津線は、宝塚から下りてきて西宮北口に到達したあと、平面交差によって神戸線を乗り越え、今津に達した。だから「今津線」と称するのである。

東京の東武鉄道の「東上線」のように、「東京」と「上州」を結ぶべく計画され、「上州」には到達しなかったのにそのまま「東上線」と称しているように、計画時に目標としていた地点に、結果としては到達しなかったのに、目標地点の名前をそのまま使っている例は色々あるが、それとは事情が違う。
今津に到達したので「今津線」となったのであって、宝塚と西宮北口間だけのときは、「西宝線」と称した。

宝塚から下りてきた線を今津まで延伸したのは、阪神電車の今津駅と隣接させた駅を設置し、阪神圏の乗客を阪急沿線に取り込もうとしたためである。
しかし、西宮北口から延伸するにあたり、当時の土木技術の水準が至らなかったためか、まだまだ電車の運行本数が少なかったのでさほど支障はないと判断したのか、立体交差でなく平面交差を選択してしまった。

これが、戦後の高度経済成長期に入り、輸送力の増強が喫緊の課題となるにつれ、とくに神戸線の運行本数増強によって、大きな問題となってくる。神戸線を優先させるため、今津線の列車が、今津行は西宮北口駅に停車しまま、また今津発宝塚行きは駅の南側の、平面交差の手前で停車し続けねばならず、大きな、待ち時間のロスが生じるようになる。

そして、遂に神戸線の列車の長編成化が行われることとなり、ホームの延伸に伴って、今津線との平面交差部の敷地を使うこととなり、西宮北口を境に、今津線は南北に分断されてしまうこととなった。
1984年のことである。
神戸線は線路の数が多いし、運行の支障が大きくなるので高架化は困難だったし、今津線の高架化は、西宮北口から2駅北の「甲東園」付近に山陽新幹線の高架が通っているため、その上を高価でまたぐ必要があったが、余りにも大工事となるので断念したらしい。

それでも、駅の工事が終了した後は、何らかの形でもう一度、「今津発宝塚行き」という直通電車を走らせてくれるのではないか、と漠然と思っていたのである。

(この稿さらに続く)

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