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2011年5月

2011年5月30日 (月)

ホームページを更新しました

昨日(2011年5月29日)本館のホームページを更新しましたのでお知らせします。詳細は http://homepage3.nifty.com/tkoikawa/ へお越しください。

2011年5月20日 (金)

「西日本が頑張ろう」と言うのは火事場泥棒か?

直接そのときの会見を見聞したわけではないが、他のテレビ番組で採り上げられていたので知ったのだが、ある関西方面の知事が、「東日本が苦しんでいるときに、西日本が頑張ろうと言うのは、火事場泥棒になる」と発言したそうな。

その放送があったのは4月中旬のこと。この記事がアップされる5月20日の、一ヶ月以上前のことになる。
実は、このことを書くべきかどうか迷っていたのである。
余りにも情けない発言だから。

しかし、熟慮の末、書いておくことにした。

その番組では、その発言について、罵詈雑言に近い批判をパネラー全員が浴びせていた。
その番組での批判を例に引くまでもなく、この発言は2つの点で大きく誤っている。

1点目は、「火事場泥棒」という言葉の使い方が間違っていること。
新明解国語辞典によると、火事場泥棒とは、火事場の混雑につけこむ泥棒、または転じて、混雑・混乱につけこんで利益を得る人の意・・・ということである。
もし、下線部だけの意味で使ったのだとしたら分からないでもないが、少なくとも「泥棒」という語が含まれているのだから、良い意味で使うことは皆無だろう。「つけこんで」というのも、良い意味のわけがない。

2点目は、東日本が苦しんでいる時だからこそ、西日本が頑張らないと、日本経済全体が大変なことになる、ということである。日本経済全体が大変なことになってしまえば、援助・支援そのものが成り立たなくなってしまう。
現に、震災の直後あたりから一時全国的な「自粛」ムードが溢れかえったが、比較的早い頃、当の被災地から、「他の処は、過剰な自粛をやめてもらいたい」との発言も届くようになった。

私は、今回の一時の「自粛」ムードは、単に「自粛」という言葉だけでくくり切れるものではないと思っている。
「余りの衝撃に、何もする気にならない」という意味合いが含まれているはずだ。
私がこのブログを暫く休載したことと並べて挙げるのは恐縮だが、雑誌などで連載エッセイなどを書いている多くの作家が、同様に、一時何も手につかなかったということを書いていた。それでも、やはり書くしかない、ということで休載した人はいなかった。この辺りがプロであり、プロの精神力の強さを示すものと、感銘を受けた。

さて、この知事は、どういうわけか、関西の各府県の知事が設立した「関西広域連合」に加入することを拒んでいる。
これがまた理解し難い。加入しないという合理的な説明を聞いたこともない。
関西広域連合は、震災直後、各府県がずっとフォローしてゆく「震災県」を決め、各府県営の住宅から、即時提供可能な空き住宅戸数を公表した。
加入していないため、これに関する表明は、1タイミングどころか、2タイミングも3タイミングも遅れてしまった。

今回のような災害は特別のことだが、災害とは関係なくとも、広域で協議すべき課題は多いはずだ。広域でなくても何とか完結可能なのは、2つの「府」だけだろう。
医療にしても、福祉にしても、教育にしても、既に単独ではまかなえない状況に陥っていることは、少しでも県政に関心のある人であれば、周知の事実だ。
「広域」などという、地方自治の拡大を目指すように見えるものに参加したら、出身官庁に義理が立たないとでも思っているのだろうか。

2011年5月12日 (木)

「ひこにゃん」の謎 補遺

今年の始め、彦根城のゆるキャラ「ひこにゃん」と、東京は世田谷にある「豪徳寺」の名物である「招き猫」が、由来を同じにするものだということを書いた(2011年1月30日2月2日4日6日)。

このことは、「知る人ぞ知る」ということだったはずだが、次第にかなりの人が知ることになってゆきそうだ。

2011年4月30日(土)にBSプレミアムで放送された「新日本風土記」で、「『城』 美しさと強さと」というテーマで各地の城と、それらを愛してやまない人々とその楽しみ方、またそれらを守ってきている人々の紹介があったのだが、その中で各地の城の「ゆるキャラ」が紹介された。

当然、彦根城の「ひこにゃん」も出て来たのだが、豪徳寺に関わる井伊家の伝説も紹介され、「豪徳寺の招き猫と『ひこにゃん』は、親戚のようなもの」と説明していたのである。

「ひこにゃん」の影響もあり、現在では、彦根城を観光する人の方が、豪徳寺を訪れる人よりも遙かに多いだろう。いや、「ひこにゃん」の存在がなくても、彦根城の方が多いはずだ。
彦根城で「ひこにゃん」に出会ったら、関係する豪徳寺に関心を持ち、訪問する人が増えたらいいな、と思っている。

何故「豪徳寺」に拘るかと言うと、以前の記事にも書いたが、私の母方の実家の菩提寺だからである。
今では母も亡く、母方の親戚で母と同世代の人たちも殆どこの世にはいないので、私も今後訪れることがあるかどうかは分からないのだが、いつの日にかは訪れて、子どもの頃にごく小さなものしか買ってもらえなかった「招き猫」の、大きなサイズのものを手に入れてみたいと思っているのである。

2011年5月 8日 (日)

阪急電車 (7)

(前稿からの続き)

さて、阪急電車と阪神電車か長い間ライバル意識が強いとされてきていた。そもそも先行開業していた「阪神電車」に対抗して「阪神急行電鉄」と名付けたのが「阪急」と称されるようになったわけで、「ウチは阪神より速い」とは、喧嘩を売っているのと同じだ。

戦前戦中期、軍の要請もあり東西で色々な私鉄の統合、国鉄への吸収などが行われ、阪神と阪急も一旦交渉のテーブルには着いたのだが、遂に合併には至らず、それでも今津駅で阪急今津線と阪神電車が直通できるよう、連絡線は設置。
それでも、その痕跡は、少なくとも1960年代までは残っていた。

状況が大きく変ったのは、2005年のことである。
村上ファンドが突如阪神電鉄の筆頭株主となったことを公表し、阪神タイガーズの株式上場や、京阪電車との経営統合などを株主提案するに至った。
京阪電車との統合は、JR、阪急電車と並んで、もう1本の神戸~大阪~、京都の路線を構築し、競争してゆく中でシッカリした経営体制を築く目的がある。村上ファンドの手法に問題はあっても、経営の観点からはスジの通ったものであった。

しかし、阪神タイガーズファンをはじめ、経営陣・株主・沿線住民の反発が強く、経営陣は京阪以外の私鉄に合併を打診。

一案として、近鉄にも打診したことがあったはずだ。2009年3月には阪神が難波まで延伸し、近鉄と相互直通運転を行うことになっていたから、これも経営の観点からはスジが通っている。

紆余曲折の結果、阪急が「ホワイトナイト」として名乗りを挙げることとなり、村上ファンドの持ち株も含めてTOBを実施。「阪急HD」が筆頭株主となり、その元で阪急と阪神が統合されることとなった。
これには驚いた。阪急と阪神がライバル意識が強い・・・ということは両方の沿線住民の間では結構知られた話だったので、驚いたのは私だけではなかったはずだ。
戦争中、軍の力でもできなかった両者の経営統合が、1人の乗っ取り屋の力で可能になったのだから、一層驚いた。

そして思ったのは、今津駅における連絡線が残っていたら・・・ということである。
阪神の今津駅も阪急の今津駅も高架化されたが、かつてのように阪急の今津駅が阪神の今津駅に寄り添った形ではなく、完全に離れた駅となってしまった。
その気になれば延長部を作れるほどの短い距離なのだが、コストに見合うだけの効果を上げるのは、もはや難しいと判断しているのだろう。

しかし、もし今津駅の連絡線が残っていて、尚かつ西宮北口の今津線の南北分断がなければ、阪神沿線から宝塚方面に直通する電車の運行も可能となったわけである。
さらに言うと、難波で近鉄と阪神の相互乗り入れが2009年に始まったとき、近鉄難波発、阪神尼崎、阪神今津経由、阪急宝塚行き、などという電車の運行もできたかも知れない。

さて、鉄道ファンを自認している私だが、カメラを常に持ち歩く習慣はない。とくに学生時代ともなれば、そもそもカメラだけでなくフィルムも高価なもので、カシャカシャ撮りまくる金銭的余裕などない。
それで残念に思っているのは、ここまでに述べてきた各路線の痕跡や当時の状況をカメラに収めたものが殆どないことである。

阪急西宮北口の平面交差の写真だけは残しているので、将来ご紹介する機会もあるが、今津駅のおける連絡線の痕跡、阪神武庫川駅から北に延びて国鉄まで繋がっていた路線跡など、何れも目にはハッキリ焼き付いているのだが、お見せできるものがない。

さらに言うと、近鉄難波発、京阪三条行きという電車が1970年代まであり、京阪三条駅に近鉄の電車が停まっている光景も覚えている。京阪と近鉄の丹波橋で相互乗り入れが行われていたためだ。これも軍の意向で接続線を作ったのが始まりらしい。
その連絡線の痕跡も、かなり後まで残っていたのだが、京阪三条駅に近鉄電車が停まっている情景とともに、カメラに収めたものはない。

せめて、僅かに残っている古い情景を、折を見て「題名のない鉄道館」にアップする予定で、その中に「鉄道と情景の記録」のコーナーを設けたのだが、中々作業ができないでいる。

2011年5月 6日 (金)

阪急電車 (6)

(前稿からの続き)

戦前から戦中にかけて、軍の意向や要請により、軍の関係する工場への従業員や貨物の輸送の便を図るため、軍用の新線建設や、既成の路線の合併や統合が進められた。

東京では、東京横浜電鉄が核となって小田急電鉄、京王電気軌道、京浜電気鉄道を合併し東京急行電鉄となった。現在の東急に対し、この当時の名称を「大東急」と呼ぶ。また、2つの経営母体に分かれていた地下鉄が「帝都高速度交通営団」(営団地下鉄)として纏まった。

関西方面では、大阪と奈良を結ぶ路線を中心に発展していた大阪電気軌道(大軌)が中心に関係会社としての路線を合併し「関西急行電鉄」(関急)となり、さらに現在の南海電鉄をも吸収し、「近畿日本鉄道」となったのが代表例で、その他、現在の阪急電鉄が、京阪電鉄を合併して「阪神急行電鉄」から「京阪神急行電鉄」となったり、南海電鉄が「山手線」として建設していた天王寺~和歌山の路線が国有化され現在の阪和線になったりもした。
ちなみに、阪急電鉄は、戦後解体する際、京阪電鉄が淀川右岸に「新京阪電鉄」という子会社に建設させてた「新京阪線」を取得。現在の京都線としている。大阪、神戸、宝塚エリアの路線網から京都エリアに拡大したわけで、戦後も長い間、「京阪神急行電鉄」が正式名称であった。

こんな情勢なので、当然、阪神と阪急に対しても、経営統合の要請があったのだか、結局不調に終り戦後に至るのである。軍の力をもってしても、統合がならなかったというのがスゴイ。

その代わりと言ってよいのかどうか、今津駅には、阪急と阪神を結ぶ線路が設置された。
しかし、戦後すぐにこの連絡線は切断されてしまった。

ちなみに、この西宮近辺では、武庫郡鳴尾村にあった川西航空機(現在の新明和工業)への輸送のため、阪神の武庫川駅から客貨両用の路線を建設。さらに国鉄と結ぶために(軌間が異なるため)阪神武庫川駅から武庫川岸を北上し甲子園口を経て西宮駅まで、三線化もされた。
この、阪神武庫川から南下して建設された路線が、現在の阪神武庫川線である。

阪急今津線の仁川近くにも川西航空機の宝塚製作所があり、先に述べた阪神今津での接続線も、それと関係したものであろう。

(この稿さらに続く)

2011年5月 4日 (水)

阪急電車 (5)

(前稿からの続き)

もともと、西宮北口駅に今津線と神戸線の直角平面交差があったのは、今津線の建設当時の土木技術が未熟だったためか、または予算の関係で見送ったと思われるわけだが、神戸線のホーム延伸によって今津線が南北に分断されることとなった。
そのとき、少なくとも最初の頃は、今津線を高架化して神戸線をまたぐ構造にすると表明していたような記憶がある。

昨年2010年は行く機会がなかったが、一昨年の2009年、阪神大震災の後に西宮北口駅のそばにできた兵庫県立芸術文化センターに、コンサートを聴きに何度か通ったことがあり、そのとき、久しぶりに今津線(南線)と西宮北口駅を利用した。
まだ工事が続いていて、駅の構造自体も高架化されていること、そして神戸線の線路とホームは地平のままであることを知った。

しかし、今津南線は、既に今津駅から次の阪神国道駅までが高架化され、阪神国道駅から次の西宮北口駅までが高架化工事の途中であった。
こんな光景を見ると、「ひょっとして、やはり南北を高架で直結するつもりなのか?」と思いたくもなるものだ。

そこで、本稿を書くために、コンサートに行く機会はないため、最近の状況をネット等で調べたら、何と!南線は高架化が完了して駅の2階にホームも設置されたのに、北線は、地平のままなのである。
それでもまだ、北線を高架化させて南線と直結する方針は残っているのかも知れないが、北線で2つ宝塚よりの「甲東園」の近くには山陽新幹線の高架があり、そこをどう通すかという課題があり、中々難しいのかも知れない。しかし、間に1駅あるのだから、新幹線の上をさらに高架で超えること自体、技術的には何とかなるのではないか。費用のことを考えると、とてもそんなことに投資はできないと言うことなのだろうか。

このまま今津線が南北に分断されたままとなるのは、何とも残念なことである。

残念と言えば、今津線(南線)には、もう1点、残念でならないことがある。

阪神の今津駅も、阪急の今津駅も、現在は何れも高架化されたのだが、少し離れた処に位置しているのである。歩く処には屋根があって繋がっているので、雨などの心配はないのだが、少し離れているので、乗り換えは面倒だ。

しかし、かつて阪神と阪急の今津駅は、何れも地平にあり、寄りそうように設置されていた。
南に向かって進んできた今津線が、阪神の今津駅の寸前、直角に近い角度で東に向きを変え、阪神の今津駅のすぐ北側に設置されたホームに到着していた。
そのホームは、薄い板1枚だけ隔てて、阪神電車の大阪方面行きのホームに繋がっていた。
いや、正確に言うと、1つのプラットホームを横方向に1枚の板で分割し、北側を今津線、南側を阪神の大阪方面行きが使うという形だったのである。

どちらも地平にあった当時、もともと阪急と阪神はライバル意識が強いこともあってか、乗り換えには一度改札を出る必要があった。

しかし、ライバル意識があったのに、なぜか、今津線の線路の先が、明らかに阪神電車の大阪方面行きの線路に繋がっていた跡があったのである。

(この稿さらに続く)

2011年5月 2日 (月)

阪急電車 (4)

(前稿からの続き)

1984年に、神戸線の輸送力増強のため西宮北口を境に南北に分割されてしまった阪急今津線。
小説がヒットし映画化もされた「阪急電車」は、西宮北口よりも北(宝塚方)の路線を舞台にしているので、路線名にある「今津」が出てこないのに、ここが「今津線」だと言っていて、おかしなことになっている。
まあ、映画はまだ見ていないので、映画では修正されているのかも知れないが。

阪急電車の今津駅近くに住んでいた私としては、よく使ったし思い入れもある路線である。今津から宝塚方面に直結していることこそ、今津線の付加価値だと信じてやまなかった。それもあって、南北分断は、西宮北口駅の工事が終ったら、そのうち解消するものと思っていた。

それは、必ずしも私が勝手に思い込んでいたと言うことだけではない。阪急もそのつもりだったのではないかと想像させる1つの証拠として、本稿執筆時点の2011年4月に至るまで、西宮北口駅から北の部分を「今津北線」、南側を「今津南線」と称し、「北」とか「南」の文字こそ入ってはいるが、「今津線」という呼称を残していることである。

1984年と言うと、本稿執筆時点で27年前のことになる。そのときなりの事情があって今津線の南北分断が実施されたことを知らない人も増えてきているはずだ。
「今津線」に乗る人の中に、「何で今津に行かないのに「今津線」と称しているのか」と疑問に思う人も増えているだろう。
「今津南線」に乗る人は、今津が終点になっているからさほど疑問に思わないかも知れないが、路線図をよくよく見ると「何で西宮北口から宝塚に向かう線が、今津北線で、こちらは今津南線と書いてあるのか?」と思う人もいるのではないか。鉄道ファンしか関心がないことかも知れないが、周りの鉄道ファンでも、若い世代の人であれば、必ずしも四半世紀以上昔!のことを知っているわけではない。

何で、南北に分断した後も、北とか南とか言う文字を加えてまで、「今津線」を名乗らせているのか。
実情に合せるのであれば、「今津線」の名称は、西宮北口から今津に至る路線にだけ継承させていれば良く、西宮北口から宝塚に至る無線は「西宝線」とでも改称すべきものである。
この「西宝線」という名称は、この線の建設当初、宝塚から西宮北口まで開通し、今津には達していなかった時点で使われた路線名だ。

東京で、元の路線名に戻った例として、東急の大井町線という路線がある。
戦後、多摩田園都市の開発に伴って路線名を「田園都市線」と変えた。
処が、二子玉川から都心に向かう線として、路面電車であった「玉川線」の代替手段として建設されることになった路線が、営団地下鉄(現在の東京メトロ)の半蔵門線との直通をも視野に入れた地下高速線として建設されることとなり、渋谷まで開通した時点では「新玉川線」と称した。しかし、やがて多摩田園都市沿線から渋谷まで「新玉川線」を経由する列車でメインとなり、渋谷に直通する路線に「田園都市線」の名称を譲り、二子玉川から大井町に行く線は、元の「大井町線」に戻った。

こんな例もあるので、実情に合せるならば「今津北線」は、建設当初の「西宝線」に戻し、「今津南線」だけを「今津線」と称するようにすべきだと思っていて、なのに何時までもそれぞれを「今津北線」「今津南線」としているのは、何れ、南北を再度直結するつもりなのだろうと思っていたわけである。

そして、現に、そう考えていたフシがあるのだ。

(この稿さらに続く)

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