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2010年11月

2010年11月30日 (火)

なぜ京都は市電を廃止したのか

昨日だったか一昨日だったかのニュースによると、京都市営地下鉄が赤字続きだそうである。

ふと思ったのだが、市電が残っていたらどうなっていたか。

大都市たるもの、地下鉄を持つべきだ、という論調が圧倒的だった頃があった。ちょうどモータリゼーションの波が押し寄せ始めていた頃と一致するはずだ。京都だけを例にとっても、やはり市電の類は赤字続きだった。市電なんか走らせても、クルマで移動する人が増えて行くので、赤字の解消など望むべまもなく、むしろ拡大するだろう、という予測も立てられた。

また、路面のかなりの部分を専有している市電は、クルマの走行の邪魔にもなる。だから廃止して、大都市たるべく地下鉄を建設せい、ということになった。
それでも当初は市電廃止反対を唱える人たちの力もあって、市域の周囲を回る路線だけは残そうという方向となったのだが、それもいつか沙汰止みになって、全路線が廃止され、代替手段として地下鉄が建設されることとなったのである。

今さら言っても詮ないが、なぜ「残す」という勇気ある決断ができなかったのか。本当に「大都市は地下鉄を持つべし」というのは正しかったのだろうか。

ホームページ「題名のない鉄道館」内の「鉄道と情景の記録」に「阪神国道電車最後の日」を掲載している。
私はその阪神国道電車の路線の近くで中学・高校時代を過ごし、大学には京都市電で通い、会社勤めをするようになってから暫くして東京に転勤となったときは都電荒川線の近くに居を構え、広島に転勤になってからは広電(広島電鉄)で市内をあちこち回って過ごした。

また、現在住んでいる奈良の近鉄奈良駅は、かつて路上にあり、その路面電車時代に乗ったこともある。さらに言うと、東京の親戚は小田急の豪徳寺だが、その駅は現在の東急世田谷線の山下停留所との乗り換え駅だ。

住んだ所の関係などで路面電車の類に色々と接してきた経験から言えることは、路面電車というものは、残そうという意志があれば残すことができた、ということである。現在残っている路面電車も嘗ては色々と経営中の課題もあっただろうと想像するが、今となっては世界各地で路面電車を再評価する動きもあり、残っていること自体が立派な観光資源ともなり得て、きっちりと黒字経営ができるようになったはずである。

テレビ朝日系で毎週土曜日に放送している「土曜ワイド劇場」で、2010年11月27日、「西村京太郎サスペンス」として函館を舞台にした内容が放送された。函館の観光資源が数ある中で、市内を走る函館市電の映像が実にピッタリで、市電も観光資源の一役を果たしていると、つくづく思った。

もし京都に市電が残っていたら、函館以上に素晴しい観光資源となったはずだ。函館よりも規模の大きな都市に路面電車が残っているということ自体が、観光都市京都の価値をさらに高めることとなったはずだ。

京都市電は市内のあらゆるメインストリートを通っていたので、当然四条通の路線もあった。7月には祇園祭があって山鉾巡行の日には四条通を練り歩く山や鉾の邪魔になるからということで、市電を一時運行停止とし、架線を道路の脇に除ける対応が採られていた。山や鉾の中には、架線より高いものが多かったためである。

そんな工事も、祇園祭と関連する観光資源たり得たのではないか。

尚、京都には京福電鉄嵐山線が、路面電車として残っている。四条大宮と北野白梅町から嵐山に向かう路線だが、かつて、北野白梅町では市電との連絡線があり、相互乗り入れが可能だった。それが残っていたら、市内各所と嵐山を結ぶ臨時電車などを運行することにより、観光路線としての価値も、現在よりもさらに高いものとなったはずである。

ちょっとだけ乗って、気が向いた所で降りることができること、駅または停留所にアプローチするのに階段を上ったり下りたりする必要がないこと、など路面電車のメリットは、地下鉄の高速性のメリットを凌いで余りあるのだ。

どうしてあの頃、みんなそのことに気が付かなかったのだろう。なぜ反対派の主張が無視されたのだろう。不思議と言えば不思議なことだ。

2010年11月28日 (日)

不合理な「3桁区切り」 アラビア数字の読みにくさ

アラビア数字で「一千」と書くと、「1000」となる。同様に「一万」は「10000」、「百万」は「1000000」となる。

こうして桁数が多くなると途端に読みづらくなるのが、アラビア数字による表記の欠点である。

そこで、何桁かでコンマ(,)を入れることが行われる。「一千」は「1,000」、「一万」は「10,000」、「百万」は「1,000,000」のように、通常は3桁ずつに区切って表記される。Excelだと、初めから桁区切りをせずに入力していても、ボタン一発で3桁区切りの表記に直してくれる。

しかし、この3桁区切りをしても、どうも読みづらいと思ったことのある人も多いのではないか。
それも当然で、この3桁区切りは、日本の数の単位と全く合っていないからだ。

英語だと、one hundredが「100」で、one thousand が「1,000」、one hundred thousand が「100,000」、「百万」はone millionで「1,000,000」であり、thousandやmillionの単位になる度にコンマ(,)を付けるので、単位の基準と合っているし、読みやすい。

しかし、日本語で読むとき、「1,000」や「10,000」はまだしも、「100,000」「1,000,000」などをすぐに読めるだろうか。数字に慣れた人ならすぐに読めるのだろうが、私などは現在でも・・・会社勤めをしていた頃、少しは数字を扱う仕事もしてきたのだが・・・「100,000」とか「1,000,000」辺りになると、念のために下の位から「1、10,100,1000・・・」などと確認しないと自信が持てないでいる。この稿の数字もそうして確認しつつ書いている。

小学校だったか中学校だっか忘れたが、学校でこの桁区切りを習ったとき、3桁区切りはサブの扱いで、「4桁区切り」というものをメインに教わった。

現在では殆ど使われなくなったと思われるし、学校で習うのも3桁区切りだけかとも思うが、実は、4桁区切りの方が、日本の数の数え方に合っていて読みやすいのである。

「一千」は区切りなし(不要)、「一万」は「1,0000」「十万は「10,0000」、百万だと「100,0000」、「一千万」が「1000,0000」で、「一億」で「1,0000,0000」となる。
「万」になるときコンマが付き、「万」から「億」になるとき、もう一つコンマが付く。

この調子で、「億」の上の単位である「兆」になるときも、さらにその上の単位である「京(けい)」になるときも、コンマを一つずつ付けて行くだけでよい。どう考えたってこの方が読みやすいはずだ。3桁区切りというのは、日本の数の読み方や単位に全く合っていないものであり、不合理な表記法なのである。

さらに言えば、大きな数字に単位についてアラビア数字の表記と対比させて理解しようとるとき、4桁区切りで端的に読める方が理解しやすいはずである。

しかし、不合理でありながら、3桁区切りが一般的になってしまった。これは欧米で3桁区切りを使っているので、日本国内で4桁区切りで表記していると分かりづらくなるし誤解のモトにもなりかねないから・・・区切り内の「0」の数が違うので、間違って表記したり間違って読んだりしたら大ゴトだ・・・という理由に基づくものだろうと思う。

しかし、学校生活の場では「4桁区切り」で数に関する理解を深めることに重点を置き、会社に入ったりして実務的に必要となってから3桁区切りを実行する、という方法もあるのではないだろうか。

それこそ、区切りの打ち直しなど、パソコンにやらせたらいいのである。Excelでコンマを打つとき、「3桁区切りにしますか、4桁区切りにしますか? 」みたいな問いかけが出て、確定する前に再度「4桁区切りにします。よろしいですか? 」などの確認窓が出るようにしたら事故も起こらないだろう。

って、どなたか、作ってみて頂けないでしょうか。

2010年11月26日 (金)

五珠のそろばん(4)

(前稿から続く)

さて、ここで算盤の話に戻る。

現在使われている算盤は、1列に「1」の珠が4個、「5」の珠が1個配置されている。1の珠が4個なので、これを仮に(正式な名称があるのかも知れないが)「四珠の算盤」と称しておく。これは、「9」までが1列になって「10」からは隣の列を加えて計算するので、十進法に基づく計算と表記を前提としているわけだ。

ところが、半世紀近く前、私が学校で算盤の時間でネを上げていた頃、学校で買わされたのは「四珠の算盤」だったが、各家庭で持っていたのは「五珠の算盤」であった。当時、電卓などは当然なく、家計簿をつけたりする奥様方の必需品として「五珠の算盤」があった。母も持っていた。「五珠の算盤」とは、1列に、「1」の珠が5個配置されている算盤である。「5」の珠は1個で、これは「四珠の算盤」と同じである。だから1列で10まで置くことができるが、十進法で答えを書く方式だと、「1」の珠が1個余ることとなる。

当時からつい最近まで、何でこんな不合理な珠数なのだろうと不思議に思っていた。母の持っていたものなどは、戦前の、モノのない時代のものだったはずだ。珠1個とはいえ、不要な珠を減らすだけでも随分違ったはずだ・・・など。

現在でも一部で「五珠の算盤」は使われているようで、その使い方について書いてあるページもあるようだ。「四珠の算盤」とは異なった使い方があり、それが分かると使いやすいと思う向きもあるらしい。

しかし、「四珠の算盤」で済むことをなぜわざわざ「五珠の算盤」を使う必要があるのか、全く分からないという点では、昔私が疑問に思っていた頃と何も変らない。当時、母たちに尋ねても、明確な答えはしてくれなかった。

ところが、最近気がついたのである。
漢数字における表記が本来は「十進法」でなく、「十一進法」なのだという事実。だとすると、「五珠の算盤」は、「十一進法」の表記に適した置き方ができる。できる、という以上に、むしろこの方が自然な置き方なのではないか。

最初に書いたように、私は当時父が言った「そのうちコンピュータが普及して誰でも使えるようになるのだから、算盤なんて要らなくなる」というのを鵜呑みにして、算盤をマジメに覚えようとしなかった。だから、この「五珠の算盤」で、加減乗除の計算をするときに、如何なる不都合があったのか、またはなかったのか、知る由はない。少なくとも「十一進法」による珠の配置ということについては間違いないと思う。

現実に「電卓」というものが普及してゆき、その普及の始まった頃に、まさにその「電卓」を作る会社に入ったわけで、入社するまで、算盤をちゃんと勉強しなかったことについて後悔したことは一度もなかった。

しかし、入社したあと、「電卓」など叩かずに、かなりの桁数の計算を暗算でやってのける先輩方が何人かおられ、そのときばかりはその能力をうらやましく思ったし、僅かだが、算盤をもう少しやっておくのだったという後悔を覚えたものである。

現在でも学校で算盤の時間などはあるのだろうか。なかったとしても、算盤塾とという存在の人気は根強いようだし、時折テレビなどで「暗算大会」の実況などが放送されると、算盤をベースにした暗算能力というものに舌を巻くことが多い。

電卓はおろか、複雑な計算もExcelなどで一発でできる時代だが、算盤というものは、別の能力を開拓するもののようだ。およそ、何らかのものを習ったり練習したりして無駄になることは殆どない。私など今さら算盤の練習などする気はないが、勉強しておくと必ず役に立つことがあるはずである。

2010年11月24日 (水)

五珠のそろばん(3)

(前稿から続く)

「十進法は、手または足の指に由来する」というのはどうやら間違いで、少なくともアラビア数字で十になったら一つ桁または位が増える書き方は、人工的なものであるはずだ、ということを述べてきた。

さて、こうした数字を、漢数字で表記するとどうなるか。
例えば、「十」の次、「11」をどう書くか。

「一一」と書くこともあるだろう。しかしこれは、アラビア数字の書き方に影響されたものであって、本来、漢数字で書くときの方法としては後になって取入れられたものである。

本来は「十一」と書く。これは、「十」までは一つの文字で表し、次に「一」増えたとき初めて文字が一つ加わって二文字になる。これこそ、指の数に由来するものと見るべつではないだろうか。「十」を「10」と記載する方法を「十進法」と言い習わしているので、この漢数字表記は「十一進法」とでも称すべきものとなる。

漢数字も十進法だと思い込んでいる人も多いと思う。そして、ひょっとして、「だから日本における数字の表記と欧米の数字表記は同じで、すぐ置き換えるこどできたため、明治維新以降の、欧米文化に速く追いつくのに功を奏した」と考えているとすれば、それはトンデモ理論に他ならない。

漢数字表記は、十進法ではない。「十一進法」なのである。
最近では「11」を「十一」と書かず「一一」と書くことの方が増えたため、誤解しているのだ。

何月が「大の月」(日数が31日まである月)で、何月が「小の月」(日数が30日またはそれ以下の月)であるか、ということを覚えるのに、「にしむくさむらい が、小の月」と習ったことはないだろうか。これも、「二、四、六、九、十一」で、「十一」を縦書きにすると「兵士」の「士」に見えるからそうした覚え方が成立するわけで、「一一」と書いてしまうと、全く意味を為さないことになる。

まあしかし、新聞記事などを目にしても、「一一」「一二」などと書く方が増えてきているような気がする。アラビア数字に対応していて却って読みやすいのかも知れない。私も、こんなことを書いてはいるが、「十一」などと書くよりも「一一」と書く方が多い。縦書きで「一一」と書くと「二」と紛らわしく見えると思ったときに「十一」と書くくらいのものである。

(この稿さらに続く)

2010年11月22日 (月)

五珠のそろばん(2)

(前稿から続く)

数字の表記の仕方として、十進法というものがある。言うまでもなく、十になったとき位というか、桁というかをひとつ増やして記載する方法である。

十進法でアラビア数字の「9」の次は、位をひとつ増やして「10」と書く。これはアラビア数字とともにヨーロッパに持ち込まれた。「0」という概念と表記は、それよりも前にインドからアラビア文化圏に持ち込まれていた。
この「○○進法」による表記が、どれだけ数学や物理などの計算を分かりやすくして、その後の発展にも大きく寄与してきたかは、言うまでもないことである。

そして、人工的には「○○」にどんな数字を入れても体系として成り立つが、コンピュータの類ではスイッチの1個1個のオン/オフと対応させるのに適しているため、2進法が多用されることとなった。2進法というのは「2になったら位が一つ増える」のだから、10進法の「2」は「10」と表記される。

ところで、この十進法の起源について、しばしば「手の指の数が10本だから」と簡単に説明されることが多い。十進法が当たり前のように使われている時代に生きているのでついそう思ってしまっている節があるが、それは間違いなのではないだろうか。

例えば英語における表記ないし読み方である。最初に英語を習ったとき、1から10まで順にone,two,threeと数えていってtenの次の「11」が、ten-oneでもなくone-tenでもなく、elevenとなることを知って戸惑ったという記憶はないだろうか。

「12」も然りである。ten-twoでもなくteo-tenでもなくtwelveである。ところが、この調子で新しい単語を覚えないといけないのかと思っていると、次の「13」はthirteenだと言う。これは「11」や「12」の例で挙げた書き方で言うthree-tenと同じものであり、少し表記が変っただけだから、比較的覚えやすい。そして、fourteen,fifteenと同じような構造の表記が続き、「20」に至るわけである。「20」は言うまでもなく、twenty。で、「21」以降はtwenty-one など、比較的分かりやすい表記となる。

これって、十進法だろうか? 違うのではないだろうか。

「12」までの数え方がone-ten またはone-teenとならないのは、十進法ではなく「12進法」と解すべきだろう。

「12進法」の起源は良く分からないが、東洋で「十二支」、キリスト教でイエスの直弟子を「十二使途」としているように、何か観念的なものに由来するのかと思われる。それも、偶々(たまたま)1年の日数を月の満ち欠けの回数で割ってみる「12」とするのが最も近似した値になり便利だった・・・ということがモトだったかも知れない。

で、「13」以降は分かりやすい呼称、分かりやすい読み方になるので、十進法またはそれに近いものとなる。従って、英語における数の読み方は、「12進法の名残がある十進法」とでも称すべきものなのだと考える。

別の観点から考えてみたい。「手や足の指の数に由来する」のであれば、10または20まではそのまま数えることができるのだから、桁とか位を増やす必要はないはずである。

だから、現在主としてアラビア数字の表記で「十進法」と呼んでいるのは、手や足の指の数に由来しているものではなく、極めて人工的な表記方法と考えるべきなのである。本当は「十進法」と称すること自体、ひょっとすると考え直して見るべきものなのかも知れないが、「十進法」という呼称が一般的である現在、そんなことは誰もやらないし現実的でないので、従来通りこれを「十進法」と称することとしておく。

そうすると、現在の「十進法むではなく、本来の、手の指の数に基づいた表記法または読み方は、「十一進法」とでも称する他ない。

そして、そんな例は身近な処に現存するのである。

(この稿さらに続く)

2010年11月20日 (土)

五珠のそろばん (1)

ホームページ「題なし」内に一つの「館」を設けて亡父の雑学を披露しているが(「雑学頓珍館」)、私もその影響で色々と書き物をするのが好きになったことは否定できない。

その亡父から受けた大きな影響の一つが、算盤(そろばん)に関することである。

今はどうなのか知らないが、私が小学校頃、算数の授業として、算盤の時間があった。これがどうにも苦手で、宿題として出されたものを家で四苦八苦して取り組んでいると、亡父曰く。

「そんな、算盤なんか一生懸命にやる必要はない。そのうちに電子計算機が発達して、誰でも簡単に計算ができるようになる」

今から50年ほど前のことである。電卓はおろか、大型のコンピュータでさえ、大きな会社でも導入している処は僅かだったはずである。
しかし、「へえ、そんなものか・・・」と、妙に納得して、サボリたい気持と合致したこともあり、算盤の時間をマジメに聞く意志を失ってしまった。

その後、私が大学のとき、世の中に電卓というものが出回り始め、アルバイト先で初めてそれを操作して「ああ、オヤジが言っていたのは、こういうことだったのか」と改めて感心し、やがて就職先として選んだのが、その電卓を作っていた会社であった。縁というものを感じもした。

だから、算盤というものをちゃんと習ったことはない。

その上で以下のことを書くので、通説として正しいのかどうか、100%の自信はないのだが、まあ、90%は正しいのではないかと思っている。

(この稿続く)

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